第30話:これからも、この屋根の下で。
八月の終わりを告げる、高く、どこまでも突き抜けるような青空が広がっていた。
八百万荘の庭にある古びた百日紅は、その紅い花を惜しげもなく散らし、乾いた土を彩っている。
管理人の俺、神代巡は、一階の縁側に座り、淹れたての麦茶が奏でる氷の音に耳を傾けていた。
昨日の「契約更新」という名の騒動を経て、俺の心は不思議なほど凪いでいた。
九十九所長が提示した「普通の人生」への切符を、俺は自らの手で引き裂いた。その瞬間に感じたのは、喪失感ではなく、むしろ自分の居場所をようやく完全に自分のものにできたという、揺るぎない充足感だった。
「巡。何をぼーっとしておる。今日は記念すべき日なのじゃぞ。お主が正式に、永劫にわたって妾の所有物……やなくて、管理人になると誓った日なのじゃからな!」
二階から、ドタバタと騒がしい足音を立ててヒノカが降りてきた。
彼女はいつものジャージ姿ではなく、コトネがどこからか工面してきた、太陽の紋章が刺繍された豪華な赤い浴衣を身に纏っている。
その後ろからは、シグル、ミナト、コトネ、スガワラ、そして小さな雫までもが、色とりどりの装束で続いた。
「管理人殿! 報告する。庭の設営は完了した。これより、八百万荘・建国記念……もとい、管理人就任一周年(暫定)の祝宴を開始する準備が整っているぞ!」
「ふふ。……管理人さん。……今日の私は、これまでで一番、清らかな水を用意しました。……貴方の器が、二度と乾かないように」
「巡、あんた覚悟しときや。今日の宴会の予算、うちが全額出資したるから。その代わり、これからも死ぬ気で働いてもらうで、八百万荘の黄金の柱としてな!」
「……論理的な帰結として、管理人さんの存在確率は一〇〇パーセントに固定されました。……これからは、統計学的な不安に怯えることなく、全力で……甘えさせていただきます」
スガワラが頬を赤くして、分厚い眼鏡を指で押し上げた。
四月に出会った頃、彼女たちは皆、消えゆく運命に怯え、人間に絶望し、それぞれの孤独な殻に閉じこもっていた。
それが今では、俺の周りに集まり、当たり前のように明日を語り、笑い合っている。
俺の「器」が、彼女たちの放つ輝きを静かに受け止める。
それはかつてのような、痛みを伴う「吸い込み」ではない。
彼女たちの喜びが俺の中に流れ込み、俺の感謝が彼女たちの芯を温める。
人と神が、このボロアパートという境界線の上で、一つの「家族」として完璧に循環しているのだ。
「……さあ、みんな。始めましょうか。俺たちの、新しい毎日の始まりです」
俺が宣言すると、庭の特設会場――といっても、いつものブルーシートとカセットコンロだが――に、一斉に歓声が上がった。
俺は立ち上がり、台所へと向かった。
今日は特別だ。貯金を叩き、商店街のサキさんからもらった極上の食材を使い、これまでで最高の「祝飯」を作る。
まな板の上で、包丁が軽快なリズムを刻む。
トントン、トントン。
それは、このアパートで俺が刻み続けてきた、生きている証だ。
ヒノカが火を熾し、シグルが肉を焼き、ミナトが飲み物を冷やし、コトネが場を盛り上げ、スガワラが味の調整を提案し、雫が楽しそうにその周りを跳ね回る。
「巡! 早くこっちに来い! お主が座らねば、宴は始まらぬのじゃ!」
ヒノカが俺を呼び、俺は完成した大皿を抱えて庭へと飛び出した。
夕暮れの空に、一番星が瞬き始める。
俺たちは、一つのテーブルを囲んで笑い、語り合った。
過去の苦しみも、将来への不安も、この瞬間の賑やかさの前では、ただの心地よい夜風のようなものだった。
「巡。……妾は、お主に出会えて、本当によかったわい」
宴が最高潮に達した頃、ヒノカが少しだけ酔ったような、甘やかな声で俺に囁いた。
彼女の赤い瞳が、月光を反射して潤んでいる。
「お主がいなければ、妾は今頃、あの冷たい暗闇の中で消えておった。……お主が、妾を太陽にしてくれたのじゃ。……お主という器があればこそ、妾はこの世界を、もう一度愛することができる」
「……ヒノカ様」
俺は、彼女の小さな手を、しっかりと握りしめた。
「俺の方こそ、救われたんです。……独りぼっちで、誰にも見向きもされなかった俺に、名前を呼んでくれる場所をくれたのは、あんたたちです。……だから、ありがとう」
俺がそう言うと、隣にいたシグルが、俺の肩に力強く手を置いた。
「主殿。……誓おう。……この剣、この魂、すべては貴殿が作るこの平穏を守るためにある。……貴殿が望むなら、私はどのような神話の黄昏からも、貴殿を護り抜こう」
ミナトも、コトネも、スガワラも、雫も。
言葉にならない想いを、それぞれの瞳に宿して、俺を見つめていた。
アパートはボロボロで、屋根はいつ抜けるか分からず、家計は常にギリギリの自転車操業。
地図にも載らず、世間からも忘れ去られたこの場所。
けれど、ここには確かに、世界で一番贅沢な「縁」が満ちている。
俺は、空を見上げた。
天高く輝く満月が、八百万荘を、そしてそこに集う不器用な俺たちを、慈しむように照らしていた。
「……よし、みんな! 明日の朝食は、もっと豪華にするぞ!」
「「「「賛成じゃー!!」」」」
八百万荘の夜は、これからも続いていく。
管理人の俺の仕事は、明日も、その次の日も、ずっと終わることはない。
けれど、それがどれほど幸せなことか、俺はもう、十分に知っていた。
神代巡。管理人の二十三歳の春。
物語は、終わらない。
この屋根の下で、俺たちは、永遠よりも長い日常を、これからも紡ぎ続けていくのだから。




