第28話:管理人の器、限界に。静寂が支配する八百万荘
始まりは、ほんの小さな予兆だった。
朝食の味噌汁を作ろうと、神代巡が鍋を火にかけた瞬間、指先が不自然に震え、視界の端が砂嵐のように白く濁った。
耳の奥では、遠くで鳴り響く警笛のようなノイズが、止むことなく反響し続けている。
(……ああ。少し、吸い込みすぎたかな)
巡は、自分の「器」が限界に達していることを悟っていた。
この数日間、サキとの接近に対する女神たちの過剰な嫉妬、ミナトの放つ異様な湿気、そして新しく加わった雫やスガワラの不安定な神気……それらすべてを、彼は笑顔で受け止め、自分の中で中和し続けてきた。
だが、人間の肉体という「入れ物」には、神々の情動を収めるにはあまりに狭すぎた。
「巡ー! 巡よ、朝飯はまだか! 妾の腹の虫が、神威を放って暴れ回っておるぞ!」
二階から、いつものようにヒノカの能天気な声が響く。
巡は、その声に答えようと口を開いたが、言葉が出る前に、肺の奥から熱い鉄の匂いがせり上がってきた。
「あ……」
視界が、一瞬で暗転した。
手に持っていたお玉が、乾いた音を立てて床に落ちる。
巡の体は、糸の切れた人形のように、ゆっくりとキッチンの床に崩れ落ちた。
***
八百万荘を、かつてないほどの『静寂』が包んでいた。
一階の管理人室。畳の上に敷かれた布団に横たわる巡を囲んで、五人の女神たちが、まるで石像のように凍りついていた。
巡の顔色は土のように白く、その肌からは、彼女たちが無意識に彼に押し付けていた「色とりどりの神気」が、行き場を失った澱みとなって、ドロリと溢れ出している。
彼は眠っているのではない。彼という「器」が壊れかけ、その存在そのものが維持できなくなっているのだ。
「……巡。……巡よ。おい、ふざけるのはよせ。お主が寝ておっては、誰が妾にポテトチップスを運ぶのじゃ。……誰が、妾の頭を、あの不器用な手で撫でてくれるのじゃ……」
ヒノカが、震える指先で巡の頬に触れた。
いつもなら「器」が起動し、彼女の熱を受け止めてくれるはず。だが、今の巡からは何の反応も返ってこない。ただ、冷たい汗が彼女の指を濡らすだけだった。
「……私のせいだ。私が、主殿の容量も考えず、戦場の興奮をそのまま流し込み続けたからだ。……私は、守護騎士を名乗りながら、自らの主を内側から破壊していたのか……!」
シグルが、畳を拳で叩いた。その目に、かつての戦場でも流したことのない、悔恨の涙が溢れ出す。
ミナトも、コトネも、スガワラも、自分たちの「わがまま」という名の重荷が、巡という一人の人間にどれほどの負荷を与えていたかを思い知り、言葉を失っていた。
「……アカン。これ、うちの算盤でも計算できへん損失や。……巡がいなくなったら、八百万荘はただのボロ家や。うちらは、ただの『化物』に戻るだけや……」
コトネが、タブレットを床に放り出し、子供のように泣きじゃくった。
巡がいないアパートは、こんなにも暗く、こんなにも冷たい。
朝を連れてくる太陽も、夜を守る剣も、街を潤す水も。
すべては、巡という人間が「そこにいてくれる」という奇跡の上に成り立っていたのだ。
「……みんな。……悲しんでいる暇は、ありませんわ」
ミナトが、いつになく力強い声で立ち上がった。
彼女の周囲に、静かで、透き通るような水の神気が満ちていく。
「管理人さんが私たちの汚れを吸い取ってくれたのなら……今度は、私たちが彼の痛みを、分け合いましょう。……私たちの神気を、彼の『器』を修復するための溶接材にするんです。……命を、削る覚悟で」
ミナトの言葉に、ヒノカが顔を上げた。
「……当然じゃ。妾の命など、もとより巡に拾われたもの。……お主ら、手を貸せ! 巡を、この世界に繋ぎ止めるのじゃ!」
五人の女神が、巡の体に一斉に手を置いた。
ヒノカの太陽の熱が、巡の凍てついた血を温める。
シグルの不屈の意志が、巡の砕けかけた魂を繋ぎ止める。
ミナトの潤いが、巡の焼けた喉を癒す。
コトネの活力が、巡の肉体に再び「生」という名の投資を行う。
スガワラの知性が、巡の脳内を埋め尽くす情報の混濁を整頓していく。
「……う、あ、あああああっ……!」
巡の体が、黄金色の光に包まれ、大きく跳ねた。
彼の「器」が、五人の神力を受け入れ、再構築を開始する。
それは苦痛を伴うプロセスだったが、巡は意識の混濁の中で、確かに感じていた。
一人じゃない。
俺が彼女たちを救ったんじゃない。
彼女たちが、俺を、ここに留めてくれているのだと。
***
夕暮れ時。
窓から差し込む赤い光が、巡のまぶたを優しく叩いた。
「……あ」
目を開けると、そこには、目も鼻も真っ赤にして、ボロボロになった女神たちが、折り重なるようにして俺の周囲で眠っていた。
ヒノカは俺の腕を力一杯抱きしめ、シグルは俺の枕元で剣を抱いたままうたた寝をしている。
「……生きてる。……俺、生きてるんだな」
巡が小さく呟くと、一番耳の早いシグルが、弾かれたように目を覚ました。
「主殿!? 主殿、気がついたのか! 意識は、兵站の状況は、自己の同一性は保たれているか!?」
「シグルさん……。……お騒がせしました。もう、大丈夫です」
巡の言葉に、次々と女神たちが目を覚ました。
彼女たちは、巡が生きて笑っているのを見るなり、一斉に彼に飛びつき、涙と神気で彼を揉みくちゃにした。
「巡ー! 馬鹿者が! お主がいなくなったら、妾は誰に八つ当たりすればよいのじゃ! 二度と勝手に倒れることは許さぬぞ!」
「管理人さん……。……もう、私の湿気を嫌だなんて言わないでください。……あなたがいれば、それだけでいいんです」
「……う、うわあああん! 巡、死ぬならうちへの借金返してからにせえよ! 寂しくて死ぬかと思ったやないか!」
騒がしい、けれど愛おしい、いつもの八百万荘の喧騒。
巡は、五人の温もりを全身で感じながら、深く、深く息を吐いた。
「……ごめんなさい。……でも、俺、わかりました。……俺の器は、もう俺一人のものじゃない。……皆がいて、初めて完成するんだって」
窓の外では、一番星が輝き始めている。
管理人の夜は、五人の女神たちとの絆を、より強く、より深く刻みつけながら、穏やかに明けていく。
彼が背負っていた重荷は、今や、彼を空へと押し上げる翼に変わっていた。




