第27話:看板娘の宣戦布告と、女神たちの鉄壁陣
八月の終わり。空を赤く染める夕焼けが、八百万荘の錆びついたトタン屋根を、まるで熱を帯びた銅板のように照らしていた。
管理人の俺、神代巡は、商店街の八百屋『やおさき』の店先で、特売の夕飯の具材を選びながら、いつもと違う空気を感じていた。
「巡くん。……ねえ、これ、もしよかったら食べて」
サキさんが、少しだけ赤くなった顔で差し出してきたのは、丁寧にラッピングされた手作りのマドレーヌだった。
店先の喧騒の中で、彼女の声だけが、夏の終わりの風に乗って妙にはっきりと鼓膜に届く。
「えっ、いいんですか? サキさん、ありがとうございます」
「ううん、お礼だよ。いつも重い荷物運んでくれるし。……あの、巡くん。もしよかったら、今度の休日の夜、一緒に商店街の打ち上げに行かない? 二人だけで、ゆっくり話したいことがあって……」
サキさんの瞳は、真っ直ぐに俺を射抜いていた。
そこには、これまでのような「馴染みの店員と客」という一線を越えようとする、強固な覚悟が宿っている。
俺の「器」が、彼女の内に秘められた、純粋で熱い「情」を感知し、どきりと心臓が跳ねた。
だが、その瞬間だった。
背後の電柱の陰、曲がり角のゴミ箱、さらには自動販売機の裏から、尋常ではない密度の「神気」が、この場所を一気に極寒の地へと変えた。
(……巡! 許せん、あの娘! 妾を差し置いて、菓子という名の供物を捧げて巡を誘惑するとは、どのような不敬か!)
(主殿! 敵軍による『甘味誘引伏兵』を確認した! 私が即座に突入し、貴殿を救出しなければ!)
(ふふ……。……私の雨で、そのマドレーヌをベタベタにしてあげましょうか……?)
(アカン、巡! あれはデートの勧誘や! 損益計算書で言えば、うちらの完全なる独占禁止法違反やで!)
(……理論的な帰結。……サキさんの好意を、論理的に拒絶するテンプレートを準備する必要があります!)
……バレバレだ。
ヒノカの赤い髪が電柱から派手にはみ出し、シグルの模造刀の先がゴミ箱の蓋を押し上げ、ミナトの霧が路上に不自然に立ち込め、コトネがソロバンをパチパチと鳴らし、スガワラがタブレットのキーを猛打している。
彼女たちの念話(という名の筒抜けの叫び)が、俺の脳内を嵐のように吹き荒れる。
「あ、あはは……。サキさん、打ち上げ、ですね。ええと……」
「ダメじゃ! 巡、その誘いに乗ることは許さぬ!」
ついに耐えきれなくなったヒノカが、真っ赤な顔をして俺たちの間に割って入った。
続いてシグルが軍人のような鋭い足取りで俺の隣を確保し、ミナトがサキさんの足元に「うっかり滑りそうな水たまり」を作り、コトネが「うちがもっと美味い菓子を用意したる!」と叫んで現れた。
「あ、ええと……八百万荘の、皆さん?」
サキさんは呆然として、代わる代わる俺の腕を掴もうとする、美少女揃いの「巡防衛軍」を見つめている。
「左様じゃ! 巡は、このアパートの管理人! 一秒たりとも目を離すことはできぬ! サキと言ったか、お主の狙いは分かっておるぞ。巡を甘い罠で誘い出し、自分だけのものにしようという魂胆じゃろう!」
「ヒノカ様、何を言って……!」
「黙れ巡! お主は本当にお人好しが過ぎるのじゃ! この女の笑顔に隠された、恐るべき『独占欲』が妾には見えるぞ!」
ヒノカが、まるで自分のことを棚に上げたような台詞を叫ぶ。
サキさんは一瞬だけ驚いたように瞳を丸くしたが、やがて、その視線は挑発的なほど鋭く細められた。
「……そっか。やっぱり、巡くんの周りには、こんなにライバルがいっぱいいるんだね。……でも、私だって負けないよ。私は、巡くんが一番辛かった時を、ちゃんと知ってるんだから」
「な、なんじゃと……! お主、過去の優位性を盾に取るか! 卑怯なり、この商店街娘!」
一触即発。ヒノカから放たれる熱気が商店街のキャベツをしおれさせ、サキさんから放たれる「人間の女としての意地」が、ヒノカの神気と真っ向からぶつかり合う。
シグルが「主殿、これはもはや『愛の代理戦争』だ。私が仲裁……という名の制圧を行うべきか?」と悩み始め、ミナトが「ふふ……。どちらが管理人さんに相応しいか、水面下の議論(という名の物理的浸水)が必要ですね」と不穏な霧を強める。
「みんな、やめてください! 商店街のど真ん中で何をやってるんですか!」
俺は必死に女神たちを抑え込もうとしたが、コトネが「こうなったら緊急会議や! 巡、今日はもう撤収や!」と俺の首根っこを掴んで強引に引き摺り始めた。
***
その夜、八百万荘の一〇一号室には、かつてないほどの緊張感が漂っていた。
四枚の布団が俺を取り囲むように敷かれ、中央には「対サキ戦略会議」という名の、豪華な(サキさんからもらった具材で作った)夕食が並んでいる。
「巡。……お主に言っておく。……お主の『器』は、妾たちの神気を受け止めるための場所じゃ。……あのような、下界の女子に、勝手に開け渡すことは許さぬ」
ヒノカが、いつになく真剣な、少しだけ泣き出しそうな瞳で俺を睨みつけた。
「……主殿。……私は、貴殿を守る盾だ。……だが、今日悟った。……誰かに貴殿を奪われることは、盾を砕かれるよりも、私にとって苦しいことなのだと。……だから、あの日、約束しただろう。……私は貴殿のそばにあり続ける、と」
シグルが、俺の手をぎゅっと握りしめる。その手は、戦乙女らしからぬ熱を宿して震えていた。
ミナトも、コトネも、スガワラも、それぞれの形で俺に「行かないでほしい」という願いを、神気として、言葉としてぶつけてくる。
俺は、彼女たちの真っ直ぐな、あまりにも重すぎる想いに、胸がいっぱいになった。
「……分かってますよ。……俺は、どこにも行きません。……八百万荘の管理人は、俺以外に務まらないですから」
俺が微笑むと、彼女たちは一斉に安堵の溜息を吐き、それから恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「……当然じゃ! お主がいなければ、誰が妾にアイスを運ぶのじゃ!」
「……主殿。……今夜は、このまま私の膝で……いや、私の視界の中で眠れ」
「ふふ。……管理人さん。……私の湿気が、一番心地よいことを、忘れないでくださいね」
夜の八百万荘。
商店街のサキさんという強敵の出現により、女神たちの「結託」はさらに強固なものとなった。
それは、管理人である俺にとっての、幸せで、どうしようもなく騒がしい「包囲網」だった。
窓の外では、夏の終わりの虫たちが鳴いている。
管理人の夜は、五人の女神たちに見守られながら、穏やかに、そして情熱的に更けていくのだった。




