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八百万荘の管理人 〜信仰を失った女神様たちに、温かいご飯と居場所を〜  作者: 寝不足魔王


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第26話:八百万荘の怪談騒動。幽霊よりも、愛が怖い

 八月の終わり。ねっとりと肌にまとわりつく熱帯夜が、八百万荘を包み込んでいた。

 管理人の俺、神代巡かみしろ・めぐるは、一階の管理人室で、古びた扇風機が首を振るカタカタという音を聞きながら、薄いタオルケットにくるまっていた。

 

 ふと、意識が浮上した。

 時計の針は午前二時を回っている。普段ならヒノカのいびきや、シグルのキーボードを叩く音が微かに聞こえるはずの深夜だが、今夜は妙に「静か」すぎた。

 そして、その静寂の奥から、聞き慣れない音が聞こえてきたのだ。

 ――ズズ……ズズ……。

 何かが濡れた雑巾を引きずるような、重苦しく、湿り気を帯びた這いずる音。


「……ミナトさんか? いや、彼女の音はもっと『ひたひた』と瑞々しいはずだ」


 俺は起き上がり、枕元に置いてある懐中電灯を握りしめた。

 廊下に出ると、そこには異常なまでの寒気が立ち込めていた。夏だというのに、吐き出した息が白く濁るほどの低温。そして、闇の向こうから、一人の「少女」が姿を現した。

 白装束を纏い、長い黒髪で顔を隠した、絵に描いたような幽霊。彼女は、虚空を見つめながら、消え入りそうな声で呟いた。


「……うらめしや……。……私の、居場所は……どこ……」


 本物だ。

 八百万荘の強力な神気と、巡の「器」に引き寄せられた、迷い子の霊。

 俺が声をかけようとした、その瞬間だった。


「――やかましいわい! 深夜に人の眠りを妨げる不届き者は、どこのどいつじゃ!」


 二階から、寝起きのボサボサ頭でジャージを羽織ったヒノカが、猛烈な勢いで階段を下りてきた。

 彼女は幽霊を見るなり、怯えるどころか、腰に手を当てて仁王立ちになった。


「なんじゃ、お主。新入居者か? 管理人の巡に挨拶もなしに、勝手に廊下を掃除……やなくて、這いずり回るとは何事じゃ! 妾という正妻……やなくて、最古参がいるというのに、抜け駆けは許さぬぞ!」


 ヒノカの周囲に、怒りに呼応した猛烈な熱波が渦巻く。幽霊の放っていた寒気が、一瞬で蒸発して霧散していく。


「ヒノカ様、待って! 彼女、ただの幽霊ですから! 悪気はないみたいだし……」

「幽霊だろうが何だろうが、このアパートのルールは絶対だ! 主殿の安眠を妨げる者は、私の剣が、あるいはこの特製消臭スプレーが許さない!」


 隣の部屋から、暗視ゴーグルを装着し、なぜか全身を迷彩服パジャマで固めたシグルが飛び出してきた。

 彼女は幽霊の背後に回り込み、完璧なCQCの構えで幽霊の動きを封じようとする。

 だが、相手は幽霊。シグルの腕は、虚しく幽霊の体をすり抜けた。


「……っ!? 物理攻撃が無効だと? 管理人殿、この個体、なかなかの防御力を誇っているぞ。……よし、ならば私の『気合』を直接叩き込むまでだ!」


「シグルさん、物理が効かない相手に気合で勝とうとするのはやめてください! 彼女、困惑してるから!」


 そこへ、一〇三号室からミナトが、静かに滑るように現れた。

「ふふ……。……幽霊さん。……貴女も、寂しいのですか? ……でも、管理人さんの隣は、既に定員オーバーですわ。……私の水底プールで、冷やしてあげましょうか?」


 ミナトの放つ霧が、幽霊を包み込む。

 さらに、コトネがソロバンをパチパチと鳴らしながら階段を下りてきた。

「巡! この幽霊、なんや『未練』を溜め込んどるみたいやな。……よし、その未練、うちが適切な価格で買い取ったる。……成仏代行サービス、一回三万、分割払い可や!」


「コトネさん、幽霊から金を取ろうとしないで!」


 最後に、二〇四号室のスガワラが、分厚い文献を抱えて顔を出した。

「……民俗学的見地によれば……この幽霊は、土地の境界に縛られた『地縛霊』の変異体。……論理的な解決法は、彼女の未練の対象を特定し……って、皆さん、力技で解決しようとするのは非効率的です!」


 八百万荘の住人全員が、深夜の廊下に集結した。

 幽霊の少女は、自分を囲んで「焼くぞ」「斬るぞ」「沈めるぞ」「売るぞ」「分析するぞ」と口々に叫ぶ女神たちの気迫に、完全に圧倒されていた。

 彼女の「うらめしや」という言葉は、いつの間にか「……ごめんなさい」という小さな謝罪に変わっていた。


「……もう、いいよ。みんな、下がって」


 俺は、震える幽霊の少女の前に立ち、その透けた手を、俺の「器」の力で包み込んだ。

 ひんやりとした、けれどどこか切ない震えが伝わってくる。


「……怖かったね。……大丈夫だ。ここは八百万荘。……神様も、幽霊も、みんなどこかで行き場を失った奴らのたまり場なんだ。……あんたの未練が何なのかは分からないけど、今夜はゆっくり休んでいきなよ」


 俺が彼女の「澱み」を少しだけ吸い取ると、幽霊の少女の輪郭が、ふわりと穏やかな光に包まれた。

 彼女は、少しだけ顔を赤らめ、俺の顔をじっと見つめると、消え入るような声で囁いた。


「……温かい。……こんなに、温かく触れてもらったのは……初めて……。……私、あなたの、そばに……」


 その瞬間、ヒノカとシグルが同時に幽霊の少女を引き剥がした。


「ならぬ!! お主、成仏する前に何をさらりと告白しとるんじゃ! 巡の優しさに付け込むとは、どこの馬の骨よりも質が悪いわ!」

「主殿! 彼女を保護するのは吝かではないが、添い寝などのサービスは規約違反だ! 私がこの『除霊の御札(という名の粘着テープ)』で彼女を封印しよう!」


「コラ! 暴力反対! ……ああ、もう、夜が明けちゃうよ……」


 結局、その夜は幽霊の少女を囲んで、なぜか「八百万荘・深夜の女子会」が開催されることになった。

 幽霊の少女――通称『お菊さん』は、ヒノカから無理やりポテトチップスを食べさせられ(すり抜けるが、満足感だけは伝わるらしい)、シグルのゲーム実況を観戦させられ、ミナトのプールの横で涼み、コトネに「来世の貯蓄」について説法を受けることになった。


 翌朝。

 窓から差し込む眩しい朝日と共に、お菊さんは満足げな顔で薄れていった。


「……ありがとう、管理人さん。……私、なんだか、もう大丈夫みたい。……最後に、こんなに騒がしくて、楽しい夜を過ごせるなんて……」


 彼女は、感謝の言葉と共に、一筋の清らかな光となって空へと昇っていった。

 

 残されたのは、廊下で雑魚寝して爆睡している女神たちと、大量のゴミ。

 俺は、腰をさすりながら、窓の外の青空を眺めた。


「……はあ。幽霊よりも、うちの女神たちの独占欲の方が、よっぽど怪奇現象だよ」


 管理人の朝は、溜まったゴミの片付けから始まる。

 けれど、幽霊すらも笑顔で送り出せるこの場所が、俺にとってはどんな聖域よりも誇らしかった。


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