第25話:黄金の天秤と、商売神の涙
八百万荘の家計を司る商売の女神、コトネの様子がおかしくなったのは、記録的な猛暑が続く八月の終わりのことだった。
普段なら、管理人室のちゃぶ台を占領して「今月のスパチャ収入は右肩上がりや! 巡、今夜は特売の肉をさらに三割引きで買い叩いてきたるからな!」と威勢よく叫んでいるはずの彼女が、ここ数日、暗い顔で算盤を弾き、溜息ばかりを吐いている。
管理人の俺、神代巡は、不自然なほどの静寂に包まれた二〇三号室の前で、お盆に乗せた冷たい麦茶を片手に足を止めた。
ドアの隙間から漏れ出してくるのは、活気溢れる黄金の輝きではない。まるで古い蔵の中に放置された、錆び付いた鉄屑のような、重苦しく冷徹な「停滞」の神気だった。
「……コトネさん。入りますよ。……熱中症にでもなったんですか?」
返事を待たずにドアを開けると、そこには床一面に広げられた領収書と、真っ赤な数字が書き込まれた帳簿の山に埋もれたコトネの姿があった。
彼女はトレードマークのツインテールをぐしゃぐしゃにかき回し、血走った目でタブレットの画面を凝視している。
「……アカン。計算が合わへん。……なんでや、なんでこんなに『信心』が冷え込んでるんや……!」
「コトネさん? 顔色が最悪ですよ。……何があったんですか」
「巡……。……終わったわ。八百万荘のバブル、崩壊や」
コトネが力なくタブレットを差し出す。そこには、彼女が運用していた神様たちの配信チャンネルや、商店街での委託販売の売上が、崖を転げ落ちるような急カーブを描いて激減しているグラフが表示されていた。
原因は、近隣に新しくオープンした巨大な外資系ショッピングモールと、そこで展開されている「ポイント還元」という名の現代的な疑似信仰システムだった。
「あいつら、人間の欲を完璧に数値化して管理しよる。……うちらみたいな『顔の見える商売』の入り込む余地なんて、一ミリも残ってへんのや。……うち、神様やのに、ただのシステムに負けたんや……」
コトネの目から、大粒の涙が溢れ出した。
商売の神にとって、数字で負けることは、己の存在意義そのものを否定されるに等しい。
そこへ、異変を察知したヒノカたちが雪崩れ込んできた。
「なんじゃ、コトネ! お主、そんなに泣いて……。もしや巡に、給料の中抜きでもされたか!」
「コトネ殿、報告せよ。……戦況が不利ならば、私がその『ショッピングモール』とやらに武力介入を行い、物流網を寸断してこようか?」
「ふふ……。……コトネさん。……涙を流すのは、私の役目ですわ。……貴女は、笑って銭を数えているのが一番似合っています」
仲間たちの不器用な励まし。だが、今のコトネには、それが逆に自分を惨めにさせていた。
「……みんな、悪いけど一人にして。……うち、商売の神様失格や。……このままやと、来月の家賃も払えへんようになる」
コトネは膝を抱えて、領収書の山の中に顔を埋めてしまった。
俺は、彼女の隣に静かに腰を下ろした。
俺の「器」が、彼女の絶望的な「停滞」を吸い込み始める。
それは、ただの借金の悩みではない。自分を信じてついてきた住人たちを、守れなくなることへの、強い責任感と自己嫌悪の澱だった。
「……コトネさん。あんた、最初にここに来た時、なんて言いましたっけ」
「……そんなん、覚えとらんわ」
「『巡とあんたたちが作ったこの縁を、特大の景気にする』って、そう言ったじゃないですか」
俺は、彼女の小さく震える手を、両手で包み込んだ。
ひんやりと冷え切った彼女の手に、俺の体温を、そして俺の中に溜まっている「皆と笑い合った記憶」を逆流させる。
「数字に負けたなら、数字じゃないところで勝負すればいい。……あんたを慕って、ここに集まってくるのは、システムなんかじゃない。……生きた、神様たちなんですから」
その瞬間、八百万荘の門の外から、地響きのような騒がしい音が聞こえてきた。
慌てて窓を開けると、そこには、商店街の八百屋のサキさんを筆頭に、コトネがこれまでに「商売のアドバイス」をしてきた近所の小さな神々や、零細店舗の店主たちが、両手いっぱいの差し入れを持って集結していた。
「コトネちゃーん! 最近、元気ないって聞いたから、みんなで持ってきたよ! モールなんて関係ない、うちらはあんたの『福』を信じてるんだから!」
「コトネ先生! あんたのおかげで、うちの潰れかけの定食屋、今月も無事に暖簾を出せました! これ、特製の大盛り唐揚げ弁当です!」
それは、コトネが「欲」で繋いだはずの縁が、いつの間にか「徳」へと変わっていた証明だった。
「……な、なんなん、あいつら。……うちは、あいつらから小銭を巻き上げようと思ってただけやのに。……なんで、こんなに温かいもん持ってくるんや……」
コトネは再び泣き出した。だが今度は、絶望の涙ではない。
自分が築いてきた「縁」が、自分を救いに来たことへの、驚きと感謝の涙だった。
「巡……。……あんたのせいや。……あんたが、こんな不採算極まりない『優しさ』なんて、うちに教え込むから……」
「……はいはい。管理人の責任ってことでいいですよ。……さあ、みんな待ってます。その顔を洗って、いつもの『守銭奴女神』に戻ってください」
コトネは力強く頷くと、立ち上がって鏡の前に立った。
彼女の全身から、再び眩いばかりの黄金の輝きが溢れ出す。
「よっしゃ! MDAやのうて、今度は外資系モールへの『逆転満塁ホームラン』や! 巡、みんな! 今夜は頂いた差し入れで、八百万荘の『大感謝祭』やで! 会費は……出世払いや!」
アパート中に、これまでにないほど明るい笑い声が響き渡った。
家計簿の赤字は、すぐには消えないかもしれない。
けれど、八百万荘の「心の収支」は、今この瞬間、過去最大の黒字を記録していた。
管理人の夜は、コトネが威勢よく算盤を弾き直す、心地よい音と共に更けていく。
どんなに巨大なシステムが立ちはだかろうとも、俺たちは、この泥臭い「縁」を回して、明日を生き抜いていくのだ。




