第24話:ミナトと、消えゆく小さな社
八月も終わりに差し掛かり、うだるような暑さの中にも、夕暮れ時にはどこか物悲しい秋の予感が混じり始めていた。
管理人の俺、神代巡は、一〇三号室の住人であるミナトに誘われ、商店街の裏手にある古い住宅街の路地を歩いていた。
「……管理人さん、こちらです。……この先に、とても小さくて、でもとても懐かしい匂いがする場所があるんです」
ミナトはいつになく真剣な表情で、俺のシャツの袖を小さく掴みながら案内を続ける。
彼女は水の女神として、この土地に流れる微かな「霊脈」の異変を感じ取ったらしい。辿り着いたのは、袋小路の突き当たり。生い茂る雑草と、不法投棄された古い自転車に囲まれるようにして、それは鎮座していた。
大人の腰ほどの高さしかない、石造りの小さな社。
屋根は苔むし、刻まれた文字は長年の風雨で削り取られ、もはや誰を祀っているのかさえ判別できない。周囲には誰かが供えたらしい枯れ果てた花が散らばり、時が止まったような静寂が支配していた。
「……これ、は……」
「……はい。この土地の、小さな湧き水を守っていた神様です。……でも、今はもう、水の音さえ聞こえませんわ」
ミナトが社の前に跪き、そっと石の肌に手を触れる。
その瞬間、俺の「器」が、社の内側から漏れ出す「終わりの気配」を感知した。
それは恐怖や怒りではなく、ただただ静かな、諦めに似た冷たさだった。
「――どなたですか。……もう、ここには何もありませんよ。……お参りに来る方も、とうの昔にいなくなりました」
社の影から、陽炎のように揺らめきながら、一人の少女が現れた。
ミナトよりもさらに幼く見えるその姿は、今にも夕風に吹かれて消えてしまいそうなほど透明で、着物の裾はボロボロに擦り切れている。
「……貴女は……」
「私は、ただの『名無し』です。……昔は、この井戸の水を飲んでくださる方たちが、名前を呼んでくれましたが……。水道が通り、井戸が埋められ……私はもう、自分が誰だったのかも思い出せないのです」
少女は寂しげに微笑み、自分の透けた手を見つめた。
ヒノカやシグルのように、ネットや現代の手段で「再定義」されることも叶わず、ただ人々の記憶から零れ落ちていく。それが、現代における「無名の神」の、最も一般的な最期だ。
「……巡。……お主、なんとかできぬのか」
いつの間にか背後についてきていたヒノカが、ポテトチップスの袋を抱えたまま、珍しく沈痛な面持ちで口を開いた。彼女の後ろには、シグルとコトネ、そしてスガワラまでもが揃っている。
「……私の知識ベースにも、この社の記録はありません。……歴史の層から、完全に剥離してしまっています」
「うちの勘でも、これは赤字や。……もう、この子の『縁』の残高はゼロに近い」
女神たちがそれぞれの視点で、少女の「死」を肯定していく。
だが、ミナトだけは首を振り、少女の手をそっと握りしめた。
「……いいえ。……覚えていますわ。……かつて、私が大きな河を流れていた頃、貴女は小さな雫となって、私の元へ遊びに来てくれました。……貴女は、この街の喉を潤していた、とても優しい『雫』……」
ミナトの神気が、彼女の中に眠る古き記憶を呼び起こしていく。
俺は、ミナトのその必死な願いに応えるように、一歩前へ出た。
俺の「器」の中に溜まった、これまでの生活の熱――みんなで囲んだ食卓、喧嘩した後の仲直り、誰かに必要とされる喜び。
その「生きた人間の体温」を、社の石肌を通じて、消えゆく少女へと流し込んだ。
「……俺は、あんたを知らない。……でも、ミナトさんが、あんたを覚えている。……なら、あんたはここにいていいんだ。……誰にも忘れられたとしても、この八百万荘の住人が、あんたを忘れない」
俺は、彼女の透けた頬に触れた。
ひんやりとした感触の中に、微かな、本当に微かな拍動を感じる。
「……あんたの名前は、今日から『雫』だ。……俺が、そう決めた。……だから、勝手に消えるのは、管理人が許さない」
俺が彼女の名前を明確に呼んだ瞬間、周囲の空気が一変した。
どこからか、地底の奥底を流れる水脈が、再び脈打つような音が響く。
少女――雫の体が、青白い光に包まれ、その輪郭がみるみるうちに確かな質量を取り戻していった。
「……あ。……名前。……私の、名前……」
雫の瞳に、大粒の涙が溢れ出した。
それは彼女が失っていた「水分」であり、この土地に再び命が宿った証でもあった。
「……ありがとうございます。……管理人、さん。……私……まだ、ここにいてもいいんですね」
雫が俺の胸に飛び込んできた。
その体は驚くほど小さく、けれどミナトの抱擁のように優しい湿り気を帯びていた。
***
その日の夜、八百万荘の一〇一号室には、また一人、小さくて騒がしい「居候」が増えていた。
「巡! この『しずく』とかいう小娘、妾のアイスを勝手に溶かして水にしおったぞ! 教育がなっておらん!」
「主殿。雫殿の隠密能力は極めて高い。……気がつくと背後に立って、私の湯飲みを補充してくれている。……なかなか、優秀な補給兵だ」
「ふふ。……妹ができたみたいで、私、嬉しいですわ」
リビングの隅で、新しく加わった少女・雫が、ミナトの隣で恥ずかしそうに微笑んでいる。
彼女の社は、翌日、俺とシグルで丁寧に掃除をし、九十九所長に頼んで「八百万荘の分社」として正式に管理することになった。
人々は、まだ彼女を思い出さないかもしれない。
けれど、このアパートの住人たちが、毎日彼女の名前を呼び、「おはよう」と声をかける。
それだけで、彼女はこの現代という乾いた世界で、永遠に生き続けることができるのだ。
「……巡。……お主のその『器』、やはりただのゴミ箱ではないようじゃな。……消えゆく縁を繋ぎ止める、お節介な紡ぎ車じゃ」
ヒノカが俺の隣に座り、そっと肩を寄せてきた。
「……管理人の仕事ですから。……どんなに小さくても、ここに来たなら、俺が最後まで面倒を見ますよ」
夕闇の八百万荘。
庭の隅にある小さな社から、清らかな水の音が聞こえてくる。
管理人の夜は、新しく増えた「縁」の温もりを感じながら、穏やかに更けていくのだった。




