第21話:落第の才女と、神様の家庭教師
八百万荘の夏は、止まることを知らない熱気に包まれていた。
管理人の神代巡は、一〇一号室の管理人室で、いつになく真剣な表情を浮かべる九十九所長と向き合っていた。
外ではセミが壊れたスピーカーのように鳴き続け、廊下ではヒノカが「暑い、アイスを寄越せ。さもなくばこのアパートを太陽光で蒸発させるぞ」と不吉な独り言を漏らしながら溶けかかっている。そんな日常の喧騒の中で、九十九が差し出した一枚の履歴書は、異様な重圧を放っていた。
「巡くん。実は、二〇三号室のコトネくんの隣――二〇四号室に、新しい入居者が決まってね。彼女、ちょっとという言葉では足りないくらい『こじらせて』いてね。僕の力でも、彼女の心の数式を解くことはできなかったんだよ」
九十九が困ったように笑いながら指し示した二〇四号室。
そこはアパートの最奥、コトネが入居するまでは長く物置同然だった場所だ。
俺はため息をつきながら、挨拶のための手土産――脳に効くと評判の、カカオ濃度の高い少し贅沢なチョコレート――を手に、二階へと階段を上がった。
二〇四号室の前。
そこには、他の部屋とは明らかに異なる「静謐だが重苦しい」神気が立ち込めていた。
まるで、試験会場の張り詰めた空気と、徹夜明けの絶望が混ざり合ったような匂いだ。古い木造の壁越しに、カリカリとペンを走らせるような、あるいは高速でキーボードを叩くような異質な音が響いている。
俺がドアをノックしようとした瞬間、中から「ひっ、ひいいいっ! 拒絶反応! 未知の個体による物理的接触を確認!」という、小動物が天敵に遭遇した時のような悲鳴が聞こえてきた。
「あ、あの、新しく管理人になった神代です。驚かせてすみません。挨拶に伺いました」
「来ないでください! 私、私、今はまだ想定外の質疑応答に対する『論理的な回答』を準備できていません! 抜き打ちの家庭訪問は校則違反、いえ、憲法違反です! 私を採点しないで、不採用通知を出さないで、履歴書を破り捨てないで!」
ドア越しに響く、切迫した絶叫。
俺は戸惑いながらも、隣の部屋からひょっこりと顔を出したコトネと目が合った。
「巡、無駄やで。その子、うちが『景気はどうや?』って挨拶しに行った時も『領収書の書き方が不適切、かつ税務署の査察対象です!』って叫んで押し入れに引きこもりおったわ。典型的な、頭が良すぎて一周回ったポンコツやな」
そこへ、騒ぎを聞きつけた二〇一号室のヒノカと、二〇二号室のシグルが合流してきた。
「なんじゃ、新しい女か! 巡、お主は少し目を離すとすぐに新しい居候を拾ってくるのう! 妾という最高神がいながら、なんと欲深い男じゃ! その女、妾より賢いというなら、今すぐこの知恵の輪を解いてみせよ!」
「管理人殿。二〇四号室の個体からは、高度な情報処理能力を感じる。だが、戦士としての根性に欠けているな。これより、私が『精神鍛錬』と称してドアを破壊し、強制的な外気浴と筋力トレーニングを強要しようか?」
「二人とも、やめてください! 逆効果だから!」
俺は女神たちを制止し、もう一度ドアに向き直った。
「スガワラさん。俺は、あなたを採点しに来たんじゃありません。あなたの偏差値も、合格可能性も、俺にはどうでもいいことです。ただ、今日の晩御飯、何がいいか聞きに来ただけです。腹が減っては、難解な数式も解けないでしょう?」
静寂。
数秒の沈黙の後、カチャリ、と鍵が開く音がした。
ゆっくりと、まるで警戒心の強い猫が隙間を作るように開いたドアから現れたのは、瓶の底のような分厚い眼鏡をかけ、ボサボサの黒髪を乱雑に束ねた少女だった。
彼女はヨレヨレのジャージ姿で、手には数冊の分厚い参考書――ではなく、最新のタブレットを握りしめていた。画面には、複雑なネトゲの攻略チャートがびっしりと書き込まれている。
「……晩御飯。それは、一日の栄養摂取における、最重要項目。ええと、私の計算によれば、現在の気温と湿度における最適な献立は……冷やし中華、または、脳の活性化を促すブドウ糖を含んだ……でも、私の計算式には『誰かと食べる』という変数が含まれていなくて……あうぅ」
スガワラは独り言を猛烈な勢いで吐き出し、パニックを起こしそうになった。
俺は彼女の瞳が泳ぐのを無視して、手に持っていたチョコレートをそっと差し出した。
「難しく考えなくていいですよ。俺の作ったものなら、何でも美味しく食べられるように『愛情』なんて不確かな調味料をかけてありますから。まずはこれを食べて、脳を休めてください」
スガワラは、眼鏡の奥の瞳をパチパチと瞬かせた。
彼女は恐る恐るチョコレートを受け取り、指先を震わせながら一口だけ齧る。
その瞬間、彼女の周囲に漂っていた「刺々しい数式のような神気」が、ふわりと柔らかい知性の光へと変わった。
「あ……美味しい。カカオの苦味と糖分が、脳のシナプスを優しく結合していく感覚。……あなた、もしかして……伝説の『器』の方ですか? 私の暴走する知識欲を、そのまま受け止めてくれるという……」
「伝説かどうかは知りませんが、ここの管理人です。スガワラさん、少しずつでいいから、このアパートの生活に慣れていってください。ここは、誰もあなたを採点したり、序列をつけたりしません。あなたがただそこにいるだけで、家賃さえ払ってくれれば合格です」
俺が微笑むと、スガワラは耳まで真っ赤になってドアの影に隠れた。
だが、その手はしっかりと、俺が渡したチョコレートの箱を、宝物のように握りしめていた。
「巡! その女ばかり贔屓するな! 妾にもその黒い菓子を寄越せ! さもなくばお主の朝飯を禁止するぞ!」
「主殿、私にも知力を高める栄養素を。ゲームの戦術理解に役立てたい。……おい、新入り。貴公、MVPの取り方を論理的に説明できるか?」
「ふふ。新しいお友達は、少し乾いていますわね。私がたっぷりの潤いと、冷たいお茶を差し上げましょう」
ミナトまでが現れ、二階の廊下は再び、収拾のつかない喧騒に包まれた。
スガワラは、驚いたように俺の背後の女神たちを見つめ、それから小さく、本当に小さく吹き出した。
「……ふふ。論理的帰結を超えた、カオスな場所。でも、計算できない未来の方が、少しだけ……面白いかもしれません。管理人さん、私の家庭教師……いえ、管理、よろしくお願いしますね」
八百万荘に、また一人、厄介で愛おしい居候が増えた。
俺は、五人分の冷やし中華の具材を豪華にするために、財布の中身と相談しながら台所へと向かった。
学問の神様が、いつか「自分自身の正解」を見つけるその日まで、俺の管理人としての挑戦は続いていく。
新しい風が、ボロアパートの廊下を、少しだけ爽やかに吹き抜けていった。




