第20話:管理人への感謝祭。女神たちの(壊滅的な)おもてなし
七月半ば。八百万荘の朝を支配していたのは、耳を疑うほどの不気味な静寂だった。
管理人の神代巡は、一〇一号室の布団の中で、妙な胸騒ぎと共に意識を浮上させた。
いつもなら、目覚まし時計が鳴るよりも早くヒノカが廊下を軍靴のような音を立てて走り回り、「巡! 起きよ! 供物が遅れておるぞ!」とドアを蹴破るのが恒例のモーニングコールだ。それが今日は、廊下からネズミの足音一つ聞こえてこない。
「……嫌な予感がする。まさか全員で寝坊か? あるいはミナトさんの湿気でアパートごと腐り落ちたか」
不吉な懸念を抱きつつ起き上がろうとした瞬間、部屋の引き戸が、それこそ絹糸を引くような丁寧さで、静かに、ゆっくりと開かれた。
現れたのは、これまでに見たこともないほど神妙な、それでいて隠しきれない期待で鼻息を荒くした四人の女神たちだった。
「巡、おはよう! 今日は、お主は一歩も布団から出てはならぬ! これは、太陽の女神たる妾が下した、絶対の勅命じゃ!」
ヒノカが、真っ赤な法被の代わりに、どこで拾ってきたのか「本日、主役」と手書きされたタスキを俺に投げ寄せてきた。
その後ろではシグルがエプロンを軍服の上から無造作に締め、ミナトが巨大な水差しを両手で恭しく捧げ、コトネがソロバンをパチパチとリズミカルに弾きながら、不敵な商人の笑みを浮かべている。
「管理人殿、本日我ら住人一同は、深夜に及ぶ軍議の結果、一つの決議に達した。日頃、我ら不肖の居候を支え、炊事洗濯から悩み相談まで引き受ける貴殿に対し、感謝を形にする『管理人感謝祭』を挙行する! 今日一日、貴殿は八百万荘の王として君臨するがいい!」
「そうや巡! あんたは今日一日、指一本、まつ毛一本動かさんでええ! うちが完璧な収支計算と人員配置で、あんたに最高のおもてなしを叩き込んだるわ!」
嫌な予感が確信に変わる。
俺が口を開き、制止しようとするよりも早く、ヒノカが俺の胸を布団の上から力任せに押し戻した。
「よいか、まずは朝食じゃ! お主がいつも作っているような、質素で栄養重視なものではないぞ。妾たちの神力を総動員した、最高級の朝餉を持ってきてやる。お主ら、準備はよいな! 突撃じゃ!」
女神たちが嵐のように去っていく。
直後、台所から聞こえてきたのは、「あーっ! 火力が足りぬ! 妾が直接火を噴いてやる!」「熱すぎますわ、ミナト・ウォーターを最大放水です!」「シグル殿、その包丁の構えは敵軍を斬る時のそれだ! キャベツは敵ではない、食材だ!」「あーっ! レンジの中で卵が爆発した! 誰や、殻のまま温めたんは!」という、この世の終わりを予感させる絶叫と爆辞の応酬だった。
「みんな、手伝うよ! 本当に! 死人が出る前に!」
「「「「寝ていろと言っておるだろうが!!」」」」
一〇一号室の壁が振動するほどの怒号に、俺は再び布団を被り、震えて待つしかなかった。
一時間後。
運ばれてきた「朝食」は、ある意味で神話的な光景を具現化していた。
「さあ、食え巡! これが妾たちの愛と情熱、そして物理的爆発の結晶じゃ!」
テーブルに並べられたのは、表面が墨のように黒焦げで、中からマグマのような半生の液体が溢れ出す厚焼き玉子(ヒノカ作・太陽熱直接加熱)。なぜか表面に氷の結晶が浮いている、キンキンに冷え切った味噌汁(ミナト作・調整ミス)。そして、戦場のおにぎりというよりは、投石用の石礫に近いほど硬く握り固められた米の塊(シグル作・握力三〇〇キロ超)。さらに、コトネが「景気付けや!」と金粉をこれでもかと振りかけた、キラキラと輝くが味の想像がつかない野菜炒め。
「どうじゃ? 感動で言葉も出ぬか?」
「主殿。私の握りには、不屈の守護意志を込めた。歯を折らぬよう、一噛み一噛みに全神経を集中させて摂取してほしい」
「管理人さん。冷たすぎるようでしたら、私の熱い視線で温め直しますわ」
四人の、一点の曇りもない期待に満ちた瞳。
俺は覚悟を決め、まずはシグルの「石」……いや、おにぎりを口に運んだ。
ガキィッ、という、人体から発してはいけない音がしたが、必死に噛みしめると、そこには不器用なほど真っ直ぐな彼女の忠誠心が詰まっていた。
「美味しい。いや、本当に。みんな、ありがとう」
俺が本心を伝えると、ヒノカが露骨に肩の力を抜き、崩れ落ちるように座り込んだ。
「良かった。お主が一口目で昇天しなくて、本当に良かったわい!」
朝食の後、さらなる「おもてなし」が俺を襲った。
「次は、管理人殿の疲労を根源から断つべく、マッサージ任務を遂行する!」
シグルが俺の肩に手を置く。だが、彼女の「揉む」という行為は、軍隊格闘術の関節技そのものだった。
「グッ、待って、シグルさん! 骨! 骨が今、聞いたことないメロディを奏でてる!」
「案ずるな、これは好転反応だ! 耐えろ、主殿! 筋肉の断末魔こそが再生への産声だ!」
続いてミナトが「私は、耳かきを」と、しっとりした太ももを差し出してきた。
彼女の膝に頭を乗せると、ひんやりとした冷気が心地よい。だが、彼女が耳に竹串を入れようとした瞬間、ヒノカが「ずるいぞ! 妾は巡の顔を洗ってやる!」と沸騰した洗面器を持って乱入し、コトネが「マッサージの延長料金は……いや、今日は特別に全額寄付や!」と、なぜか俺の財布の中身を勝手に整理して、レシートの仕分けを始めた。
カオスだった。
自分の部屋が、自分のものではないような、猛烈な嵐の中に放り出されたような感覚。
けれど、四人がかりで俺を世話し、あーだこーだと言い合いながら、俺の顔色一つで一喜一憂しているその姿は、どうしようもなく愛おしかった。
「みんな、もう十分だよ。本当に、伝わったから」
俺は強引に立ち上がり、四人の頭を順番に、丁寧に撫でて回った。
「お主、何を勝手に終わらせようとしとるんじゃ。まだ、妾とお主の『二人きりの日光浴』という名の儀式が残っておるのに!」
「主殿、私の任務はまだ完遂されていない。肩の脱臼は、今すぐ私が責任を持ってハメ直す!」
「管理人さん。私の膝、まだ十分に冷えておりますわよ?」
「巡、あんた、感謝されるんそんなに照れるんか? まだおもてなし予算、半分も消化してへんで!」
コトネが少しだけ寂しげに笑った。
俺は首を振って、彼女たちの手を取った。
「照れてるんじゃなくて、怖かったんだよ。でも、嬉しい。あんたたちがこうして笑って、ここにいてくれる。それ以上の感謝なんて、俺には必要ないんだ」
俺の言葉に、四人は一瞬呆然とし、それから一斉に顔を赤くして視線を逸らした。
「全く、お主は。こういう時だけ、神主みたいな殺し文句を吐きおって」
「主殿。貴殿のその器、やはり我らが一生をかけて満たし続けねばならんようだな。覚悟しておけ」
「ふふ、管理人さんがそう言うなら、仕方ありませんわね。今夜は、私たちが作った、とびきりのカレーは一旦忘れて、管理人さんの手料理を、私たちに食べさせてくださいね?」
「そうやな。結局、巡の飯が一番景気がええわ。ほら、巡! 第二部の打ち上げや! 今夜はパーッと肉焼くで!」
夕暮れ時の八百万荘。
家計簿の赤字も、老朽化した屋根も、何も解決はしていない。
けれど、ここにある「縁」だけは、どんな神話よりも強く、深く、俺の魂を繋ぎ止めていた。
「よし、今夜は宴会だ! 好きなだけ焼かせてもらうよ!」
「「「「うおおおお、肉じゃー!!」」」」
阿吽の呼吸で響いた答えに、俺は心から笑った。
八百万荘の日常。それは、誰に忘れられても、ここにある限り永遠に輝き続ける、俺たちだけの奇跡だった。




