第19話:夏だ! 庭だ! ビニールプールだ!
七月。八百万荘の周囲には、アスファルトの照り返しによる暴力的なまでの陽炎が揺らめいていた。
管理人の俺、神代巡は、朝から一〇一号室の管理人室で、ジリジリと肌を焼くような日差しに目を細めていた。セミの声が降り注ぐ中、このボロアパートの廊下を抜ける風ですら、サウナのような熱を帯びている。
「……暑い。もはや、暑いという言葉すら、熱に溶けて消えてしまいそうだ」
俺は首に巻いたタオルで汗を拭い、庭へと出た。
そこには、昨夜から準備していた「巨大な青い塊」が横たわっている。九十九所長が「これ、商店街の福引で余ってたやつ。巡くんのところの『水の子』が喜ぶと思ってさ」と言って持ち込んできた、直径三メートルを超える巨大な家庭用ビニールプールだ。
「管理人さん……。本当に、あの中で泳いでもいいのですか?」
一〇三号室の引き戸が、ひたり、と静かに開いた。
そこから現れたミナトは、いつもの藍色の着物を着崩し、白い鎖骨を汗で濡らしながら、期待と不安の入り混じった瞳で庭を見つめていた。彼女は水の女神だ。この数週間の猛暑で、アパートの室内湿度が低下し、彼女の存在自体が乾いた砂のように脆くなっていた。
「もちろんです。ミナトさんを元気づけるための『八百万荘・夏祭り』ですから。さあ、みんなも手伝ってください!」
俺が呼びかけると、二階からドタドタと賑やかな足音が響き、女神たちが雪崩れ込んできた。
「巡! 妾を待たせるとは何事じゃ! 太陽の化身たる妾ですら、この下界の暑さには辟易しておったのじゃ。その『ぷーる』とやらで、妾の熱を冷まさせよ!」
「管理人殿。……報告する。本日の作戦行動に備え、私はこの『みずぎ』という名の軽量装束を入手した。コトネ殿によれば、これは現代における『水場での礼装』であるとのことだが、いかんせん防御力が低すぎるのではないか?」
「アホやなシグル。それは防御力やなくて『魅力』のステータスを全振りした装備や! 巡、見てや。うちがプロデュースした、女神たちの『水着コレクション』。これ、配信したらスパチャが止まらへんで!」
コトネが鼻を鳴らし、自信満々に四人の女神たちを並べた。
俺は、彼女たちの姿を見た瞬間、危うく持っていた空気入れを落としそうになった。
ヒノカは、燃えるような赤髪をポニーテールに結び、まぶしいほど真っ赤なビキニを身に纏っている。露出の多さに顔を真っ赤にし、腕で胸元を隠そうと必死だ。
シグルは、紺色のスクール水着のような機能性重視のスタイルだが、その肢体は鍛え抜かれたアスリートのようにしなやかで、白銀の髪が陽光に輝いている。
コトネは、これでもかとフリルがついた派手な黄色の水着で、既に浮き輪を二つも装備している。
そしてミナトは――。
「……管理人さん。……どう、でしょうか。……私、変じゃありませんか?」
ミナトは、透き通るような白いレースが施された、薄青色のワンピース水着を着ていた。それは彼女の儚げな美しさを引き立て、まるで湖から現れた精霊そのもののような神々しさを放っている。
「……ええ。皆さん、とても、その……似合ってます。……さあ、空気、入れましょうか!」
俺は照れ隠しに、必死でポンプを動かした。
シュコ、シュコという規則正しい音が庭に響き、次第に巨大なプールが形を成していく。女神たちも、最初は戸惑っていたが、次第に好奇心が勝ったのか、ポンプを奪い合うようにして手伝い始めた。
「巡! もっと空気を送れ! 妾の城を、もっと立派にするのじゃ!」
「了解した。私が加圧を担当しよう。……ぬんッ! このゴムの抵抗、なかなか手強い敵だな!」
「ふふ……。水は、私が用意しますわね。……古びた蛇口さん、少しだけ、私の『流れ』に付き合ってください」
ミナトが庭の蛇口にそっと手をかざすと、チョロチョロとしか出なかったはずの水道水が、一瞬にして清冽な滝のような勢いへと変わった。
ゴーッという音を立てて、巨大なプールに水が満たされていく。それはただの水道水ではない。ミナトの神気が溶け込み、触れるだけで魂が洗われるような、冷たくて心地よい「神の水」だ。
水が満杯になった瞬間、女神たちが一斉にプールへと飛び込んだ。
「ひゃっほーい! 涼しい! 極楽じゃ、ここは極楽じゃぞ!」
「冷たっ……! だが、心地よい。……主殿、見ろ! 水面での高速移動も、この装束ならば容易だ!」
「ふふ……。体が、潤っていきます。……管理人さん、あなたも。……あなたも、早く来てください」
ミナトが水の中から手を伸ばし、俺を誘う。
俺はTシャツを脱ぎ、短パン姿でプールに足を入れた。
――冷たい。
それは、外の熱気を一瞬で忘れさせるような、慈悲深い冷たさだった。
そこからは、言葉通りの大騒ぎだった。
ヒノカが水鉄砲を乱射し、「妾の熱線を防げると思うなよ!」と叫びながら俺を追いかけ回す。
シグルは、潜水艦のような動きで水底を這い、コトネの足を掴んで「水中での奇襲訓練だ!」と笑い転げる。
コトネは「やめーや! うちの浮き輪に穴が開くやろ!」と言いながら、ちゃっかりクーラーボックスから冷えたジュースを取り出して売り始めようとしている。
ミナトは、プールのど真ん中でゆったりと浮きながら、空を見上げていた。
彼女の体からは、かつてないほどの清らかな神気が溢れ出し、アパートの庭全体を、涼やかな霧が包み込んでいく。
「……管理人さん。私……幸せです」
ミナトが、水面から俺の隣に寄ってきた。
俺の腕に、彼女のひんやりとした、けれど確かな熱を宿した肌が触れる。
「ダムの底で、ずっと一人でいた時は……こんなに誰かと笑い合う日が来るなんて、思ってもみませんでした。……雨の日も、晴れの日も、あなたのそばにいられるなら、私はもう、消えたりしません」
ミナトの言葉に、俺はそっと彼女の手を握りしめた。
ふと、ヒノカとシグルが「巡! 妾を放っておいて何をしとるんじゃ!」「主殿、私とも水球の特訓を行うべきだ!」と割り込んできた。
コトネも「商売繁盛の祝杯や!」と、大量の水飛沫を俺たちの顔に浴びせかける。
青い空。
白い入道雲。
そして、水飛沫の中で弾ける、女神たちの輝くような笑顔。
アパートはボロボロで、水道代の請求書は恐ろしいことになっているだろう。
けれど、この瞬間のために、俺は管理人をやっているのだと、心の底から思えた。
「……よーし、みんな! お昼は、庭でそうめんパーティにするぞ!」
「「「賛成じゃー!!」」」
女神たちの元気な声が、夏の空に響き渡った。
八百万荘の夏休みは、まだ始まったばかり。
俺は、彼女たちの賑やかな水音を聞きながら、いつまでも終わらないでほしいと願う「今」を、全力で噛みしめるのだった。




