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八百万荘の管理人 〜信仰を失った女神様たちに、温かいご飯と居場所を〜  作者: 寝不足魔王


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第18話:追憶の来訪者と、揺れる八百万荘

 夏の予感を含んだ風が、八百万荘の古びた風鈴を激しく揺らしていた。

 管理人、神代巡かみしろ・めぐるは、一階の廊下を雑巾がけしながら、ふと玄関の方を見やった。

 結界の境界線が、微かに波打っている。それは悪意ある侵入者というよりは、この場所を知り尽くしている者の「ノック」のような響きだった。


「……巡くん、いるかな?」


 鈴を転がすような、だが氷の結晶を思わせるほど冷ややかな声が、静かな廊下に響いた。

 俺が玄関を開けると、そこには初夏の陽光を撥ね付けるような、黒い日傘を差した少女が立っていた。

 純白のワンピースに、腰まで届く艶やかな黒髪。彼女は日傘を閉じると、紫がかった瞳で俺をじっと見つめ、小さく微笑んだ。


「……久しぶりね。……『神の捨て子』だった、巡くん」


 その言葉が耳に届いた瞬間、俺の脳裏に、土砂降りの雨と、冷たい神社の石畳の感触がフラッシュバックした。

 ――雪代ゆきしろ

 俺の遠い親戚であり、かつて俺の「器」としての体質を『忌まわしき呪い』として封じようとした、旧い神職の家系の娘。


「……雪代。どうしてここが分かった」

「九十九さんから聞いたのよ。貴方がまだ、そんなボロ屋で神様ごっこを続けているって。……巡くん、もうやめなさい。その体は、他人の澱みを吸い込むための器じゃないわ。そんな生活を続けていたら、貴方の心はいつか、彼女たちの『神聖さ』に焼き切られてしまう」


 彼女が敷居を跨ごうとした、その時だった。

 二階から、それこそ物理的な衝撃を伴うほどの凄まじい神気が、階下へと叩きつけられた。


「控えよ、下界の小娘。……巡の許可なく、この聖域に足を踏み入れる不敬、万死に値するぞ」


 赤い髪を逆立て、怒気も露わにヒノカが階段の中ほどに立っていた。彼女の周囲には、陽炎のような熱が渦巻き、アパートの空気が一瞬で乾燥し、爆ぜる。

 さらに、シグルが抜き身の刀こそ持っていないが、軍人としての完璧な殺気を放ちながら俺の背後に立った。


「主殿……この女子おなごは何者だ。……貴殿の魂に、不吉な楔を打ち込もうとしている気配を感じる。私の判断では、即刻排除すべき対象だが」

「……あら。……管理人さんの過去を、そんなに冷たい言葉で汚さないでいただけますか?」


 ミナトが廊下の水たまりから立ち上がるように現れ、雪代の足元に冷たい霧を纏わせる。

 コトネもまた、二階の縁側から「なんや、巡の昔の女か? うちの許可なく思い出話に花咲かせるんは、商売上の契約違反やで!」と、金の古銭を指先で弄びながら睨みつけていた。


 八百万荘の女神たちが、かつてないほど一致団結し、一人の少女を敵と見なして牙を剥いている。


「……あらあら。これが巡くんを囲っている『野良神』たちかしら。ずいぶんと躾がなっていないのね」


 雪代は、並の人間なら失神するであろう神々の威圧を、手に持った扇子一つでさらりと受け流した。

 彼女の家系――雪代家は、古来より「神を従える」のではなく「神を封じる」ための技術を磨いてきた一族だ。


「野良とはなんじゃ! 妾を誰だと思っておる!」

「戦乙女の誇り、侮辱は許さん!」


 一触即発。俺は慌てて彼女たちの間に割って入った。


「みんな、やめてください! 彼女は雪代、俺の従姉妹みたいなもんです。……雪代、君もそんな言い方はやめてくれ。彼女たちは俺の大切な住人だ」


 俺の言葉に、雪代は少しだけ寂しげに目を細めた。


「……巡くん。貴方はいつもそう。……捨てられた神様や、誰にも顧みられない霊のために、自分の器を削って……。貴方の両親が、なぜ貴方を雪代の家に預けたか、忘れたの? 貴方の器が溢れた時、貴方は人間でいられなくなるのよ」


 雪代の言葉は、俺の胸の奥にある、古く、重い扉を叩いた。

 幼い頃、俺は自分の「器」が吸い込みすぎた負の感情に耐えきれず、高熱を出して死にかけたことがある。その時、俺の命を繋ぎ止めるために雪代の家が行ったのは、俺の「心」を殺し、器を閉ざす儀式だった。

 それを拒み、逃げ出した先が、この八百万荘だったのだ。


「……分かってるよ。でも、今は違う。……俺は一人で吸い込んでるんじゃない。彼女たちが、俺を支えてくれてるんだ」


 俺は背後のヒノカたちを振り返った。

 ヒノカは、俺の視線を受けると、不器用に鼻を鳴らしながら俺の肩を抱き寄せた。


「……左様じゃ。巡は、妾たちが守る。……雪代と言ったか。お主が巡を連れ去ろうと言うなら、妾は全力でお主の家ごと、その歴史を焼き払ってやるわい」

「主殿は、私たちの光だ。……貴女のような冷たい過去に、彼を戻させるわけにはいかない」


 シグルが俺の前に一歩出た。

 女神たちの神気が、俺の「器」を通じて一つに溶け合い、雪代の放つ冷徹な結界を押し返していく。

 それは、支配でも隷属でもない。巡という「器」を中心に回る、温かな、血の通った循環だった。


「…………。……そう。……変わったのね、貴方も」


 雪代は、ふっと憑き物が落ちたように微笑んだ。

 彼女は日傘を再び開き、帰り支度を始める。


「今日は帰るわ。……でも、巡くん。覚えておいて。貴方の器は、彼女たちの熱を貯めるための場所じゃない。……貴方が壊れた時、泣くのは彼女たちなのよ。……大切にしなさい、自分のことも」


 彼女は風のように去っていった。

 残されたのは、静まり返った玄関と、いつになく真面目な顔をした女神たち。


「……巡。……お主、あんな冷たい女のところで、苦労しておったのか」


 ヒノカが、俺の頭を無造作に撫でた。


「……大丈夫ですよ。もう、あそこには戻りませんから」

「当たり前だ! 貴殿が去るというなら、私が担いででも連れ戻す。……主殿は、私たちの管理人なのだからな」

「……私も。……管理人さんの過去が冷たかったなら、私が一生分、潤してあげますわ」


 コトネも「なんや、しんみりしおって! 巡、景気付けに今夜は豪華な飯や! 雪代の女が持ってきた手土産の高級羊羹、これ勝手に食ってええな?」と、ちゃっかり奪い取った土産物を掲げた。


 自分の過去、自分の体質の呪い。

 けれど、この騒がしいアパートにいる限り、それはもう「不幸」ではなかった。

 俺は、彼女たちの温かな神気に包まれながら、夕飯の献立を考え始めた。


 過去を捨てる必要はない。

 それを糧にして、新しい「縁」を紡いでいけばいい。

 管理人の夜は、いつもより少しだけ、誇らしい気持ちで更けていく。


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