第14話:太陽の女神、路地裏の覇者と対決す
梅雨の合間の、暴力的なまでの晴天。
八百万荘の庭先では、湿った空気を一気に焼き払うような初夏の光が降り注いでいた。
管理人の俺、神代巡は、縁側に腰を下ろし、昨夜の雨漏りで湿ってしまった座布団を干しながら、至福の時を過ごしていた。
「……ん、そこか。そこがいいのか」
俺の膝の上では、一匹の野良猫が、まるで自分の定位置であるかのように丸まっていた。
茶トラの、少し太り気味な猫だ。近所では『大将』と呼ばれている路地裏の主らしいのだが、なぜか昔から俺にだけは異常に懐いている。
俺の「器」の体質は、負の感情を吸い込むだけでなく、どうやら動物たちにとっても「居心地の良い淀みのない場所」として認識されるらしい。
ゴロゴロと喉を鳴らす大将の首元を指で掻いてやると、彼は満足げに目を細め、俺の太ももにふにふにとした肉球の感触を押し付けてくる。
平和だ。このまま一生、猫を撫でて暮らしたい。そんな逃避行じみた思考が脳裏をよぎった、その時だった。
「巡ー! 巡はおるか! 妾の……ひっ!? お、お主、それは何じゃ!」
二階から飛び出してきたヒノカが、俺の膝の上の「毛玉」を見るなり、雷に打たれたような衝撃を受けた顔で硬直した。
彼女の赤い髪が、驚きと微かな怒りで逆立っている。
「何って、ただの猫ですよ。近所の大将です。ほら、ヒノカ様も撫でてみますか? 意外と柔らかいですよ」
「な、撫でる……!? 妾が、そのような、どこの馬の骨とも知れぬ四足歩行の獣をか!? 控えよ巡! お主のその膝は、妾が昼寝をするための、聖域ではなかったのか!」
ヒノカは地団駄を踏みながら、縁側の柱をバシバシと叩いた。
その音に驚いた大将が、一瞬だけ目を開けてヒノカを凝視する。しかし、相手が太陽の女神であろうとなかろうと、大将にとってはどうでもいいことらしい。彼はフンと鼻を鳴らすと、より深く俺の腹に顔を埋め、完全に寝る体制に入った。
「ぬ、ぬぬぬ……! 見たか巡! 今、この毛玉、妾を馬鹿にしおったぞ! 妾を、最古参のヒロイン……やなくて、最高神の末端たるこの妾を無視しおった!」
そこへ、騒ぎを聞きつけたシグルが、手に竹ぼうきを持ったまま駆けつけてきた。
「報告する! 庭先に未確認の生命体を確認。主殿、その個体は貴殿を拘束しているのか? 救助が必要ならば、私がこの『ほうき旋風斬』で速やかに排除しよう」
「シグルさん、物騒なこと言わないで。ただの猫ですから。……ほら、二人とも静かに。寝てるんだから」
「……管理人さん。その猫さん、私より可愛がられていませんか?」
いつの間にか足元に這い出していたミナトが、じっと俺の膝の上を見つめていた。彼女の周囲には、嫉妬を反映したような湿った霧がじわりと漂い始め、せっかく乾きかけていた座布団を再び湿らせようとしている。
「あー、もう、みんな落ち着いて! 猫一匹に嫉妬してどうするんですか。神様でしょ、あんたたち」
「神様だからこそ、許せんのじゃ! 巡、お主は知らぬのか。古来より、猫という生き物は『神の使い』を気取り、民の信仰を横取りする卑劣な輩であることを!」
ヒノカは、俺の隣に無理やり座り込み、大将を指差して説教を始めた。
「よいか、毛玉よ。巡は妾の管理人なのじゃ。お主に与える飯はないし、その膝もお主のものではない。さあ、速やかに立ち去るがよい! さもなくば、妾の放つ『神威』によって、その毛を逆立たせてくれるわ!」
ヒノカが、少しだけ手のひらに熱を込めて、大将に近づける。
普通の動物なら、本能的な恐怖で逃げ出すはずの神気だ。
しかし、大将は逃げるどころか、ヒノカの温かな手の方へと頭を擦り付け、「にゃ〜ん」と、それはそれは甘ったるい声で鳴いたのだ。
「……へ?」
ヒノカの動きが止まった。
大将は、彼女の指先をぺろりと舐め、まるで「いい温度だな、おばさん」とでも言うかのように、彼女の手のひらに自分の顎を預けた。
「……あ。……柔らかい。……あったかい」
ヒノカの表情が、一瞬でとろけた。
先ほどまでの敵意はどこへやら、彼女の指は吸い寄せられるように大将の耳の後ろを撫で始め、その口元からは「ふふ、ふふふ……」という、締まりのない笑みが漏れ始めた。
「管理人殿……状況が変わったようだ。ヒノカ殿が、敵軍に取り込まれた。……くっ、致し方ない。私も、この獣の『精神汚染能力』を調査せねば……」
シグルもまた、警戒心を解いて大将の背中を恐る恐る指で突っつき始めた。
ミナトまでもが、「あら……。水の流れのように、滑らかな毛並みですわね」と、いつの間にか霧を消して大将を眺めている。
「コトネさんも、来ればいいのに」
俺がリビングの方を振り返ると、コトネが窓の影から、羨ましそうにこちらを覗いていた。
「……うちはええわ。猫一匹に構う時間があるなら、一銭でも多く稼ぐ方法を考える。……でも、なんや。その猫、金の招き猫に似てんこともないな……」
そう言ってコトネが加わると、縁側は五人の神様(と一人の管理人)と一匹の猫による、異様な密集地帯となった。
ヒノカは大将を撫でながら、誇らしげに俺を見た。
「巡、見ておれ。この毛玉も、妾の偉大さにひれ伏したようじゃ。……どうじゃ、この猫を、八百万荘の『副管理人』として雇ってやるのは」
「勝手なこと言わないでください。……それに大将、あんた、女神様たちを手玉に取るなんて、いい度胸してるな」
俺は大将の頭を撫でながら、苦笑した。
特殊な体質のせいで、孤独に生きていくしかないと思っていた俺の人生。
それが今では、こんなに騒がしい、そして温かな日常に塗り替えられている。
ふと、大将が俺の手を甘噛みし、そのままヒノカの膝の上へと移動した。
ヒノカは「ひゃっ!?」と声を上げた後、至福の表情で大将を抱きかかえた。
「巡。……妾、決めたぞ。明日の供物は、この毛玉の分も用意せよ。最高級の『かつおぶし』を用意するのじゃ!」
「俺の財布を、これ以上いじめないでください……」
俺の愚痴も、晴れ渡った空へと溶けていく。
アパートはボロボロで、屋根は雨漏りし、家計は常に火の車。
けれど、こうして猫一匹の扱いに一喜一憂し、笑い合えるこの場所が、俺にとってはどんな宮殿よりも価値のある場所に思えていた。
管理人の休日は、まだ終わらない。
俺は、ヒノカと大将の隣で、穏やかな陽光を浴びながら、そっと目を閉じた。
そこには、どこまでも温かな、神様たちの寝息が満ちていた。




