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八百万荘の管理人 〜信仰を失った女神様たちに、温かいご飯と居場所を〜  作者: 寝不足魔王


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第13話:雨漏りと室内キャンプと、女神の涙

 六月の空は、まるで誰かがバケツをひっくり返したまま忘れてしまったかのように、重く、鉛色の雲に閉ざされていた。

 八百万荘の管理人、神代巡かみしろ・めぐるは、朝から一〇一号室の管理人室で、かつてない強敵と対峙していた。


「……またここか」


 ポタリ、と。

 鈍い音を立てて、天井のシミから一滴の雫が落ち、俺が用意した洗面器のど真ん中に命中した。

 築年数不明のこのアパートにとって、梅雨は文字通りの「天災」だ。昨夜から続く記録的な豪雨は、八百万荘の老朽化した屋根の限界を、容赦なく抉り出していた。


 俺はため息をつきながら、バケツと雑巾を抱えて廊下に出た。

 廊下のあちこちには、既にシグルやコトネが置いたのであろう鍋や空き缶が並び、不揃いな雨音のオーケストラを奏でている。

 そこへ、二階からドタドタと騒がしい足音が響いてきた。


「巡ー! 巡はおるか! 妾の城が、妾の聖域が、浸水被害に遭っておるぞ! これでは『すまーとふぉん』が壊れてしまうではないか!」


 階段を滑り落ちるような勢いで現れたのは、パジャマ姿のヒノカだった。彼女の自慢の赤髪は、湿気と焦りのせいで少しだけシュンと垂れ下がっている。


「ヒノカ様、落ち着いてください。スマホは防水じゃないんですか?」

「そんな問題ではない! 天井から垂れてくる水滴が、妾の頬を直撃したのじゃぞ! 太陽を司るこの妾に、天が水を差すとはどういうことじゃ! 巡、今すぐ天に向かって説教してこい!」

「俺にそんな権限はありません。……それより、二〇一号室もひどいんですか?」

「ひどいどころではない! 既にポテトチップスの袋が三袋、水没の危機に瀕しておる!」


 深刻な顔で訴えるヒノカを宥めていると、隣の二〇二号室からシグルが、完全武装(といっても、レインコートにバケツを装備した姿)で現れた。


「管理人殿! 報告する。二階廊下、北西方向に新たな漏水を確認。もはや既存のバケツだけでは防衛ラインの維持は困難だ。これより、第二拠点への戦略的撤退を提案する!」

「戦略的撤退って……どこへ行くんですか。ここ、アパートですよ」

「ふふ……。皆様、何をそんなに慌てていらっしゃるの? 雨は、空からの恵み。私は、今のこのお部屋の感じ、嫌いじゃありませんわ」


 一〇三号室から、水の女神ミナトがひょっこりと顔を出した。

 彼女にとっては、この異常な湿気と雨漏りこそが最高のコンディションなのだろう。彼女の背後にある部屋からは、もはや「霧」というレベルを超えた、白い蒸気が溢れ出している。


「ミナトさん、あんたが喜ぶと、さらに湿気が増して畳が腐るんです! ほら、コトネさんも何とか言って……」

「……無理や。うちはもう、諦めたわ」


 リビング(俺の部屋)の隅で、コトネが魂の抜けたような顔で、最新のタブレットを防水袋に入れて抱きしめていた。


「巡……このアパート、不動産価値としてはもうマイナス一億円やな。雨漏りの修理費を計算しただけで、うちの神気が枯渇しそうや。……もういっそ、一階に全員集まってキャンプでもせえへんか? 二階はもう、屋根がいつ抜けてもおかしくないで」


 商売の神であるコトネの言葉には、不気味な説得力があった。

 確かに、一箇所ずつバケツを置くよりも、比較的雨漏りが少ない俺の部屋(一〇一号室)に全員避難し、一晩やり過ごす方が現実的かもしれない。


「……分かりました。今夜は、管理人室で全員雑魚寝です。キャンプだと思って、楽しむしかありませんね」


 俺の決断に、女神たちが一瞬だけ顔を見合わせた。


「きゃんぷ……。それは、あの『まりねっせんす』という道具を使って、外で不自由を楽しむという、下界の贅沢な遊びのことか?」

「ヒノカ殿、違う。キャンプとは、戦場において天幕を張り、明日の決戦に備える神聖な儀式だ。主殿の部屋を本陣とするわけだな。理解した!」

「ふふ。……管理人さんと、一晩中一緒。……雨の音を聞きながら。……素敵ですわね」


 ミナトの言葉に、ヒノカとシグルが同時にピクリと反応した。


「ま、待て! ミナト、お主、さらりと不穏なことを言わなかったか! 巡の隣で眠るのは、この妾の特権じゃ!」

「否! 主殿の護衛を完遂するには、私が最も近くに配置されるべきだ。ミナト殿は、廊下の水たまりで冷却に専念していてもらいたい!」

「あら。……私がいれば、管理人さんの喉が乾くことはありませんわ。ねえ、管理人さん?」


 三人が俺の両腕を掴み、小競り合いを始めようとした時、コトネが鋭い一撃を叩き込んだ。


「あんたら! 浮ついとる場合か! ほら、巡、飯や! キャンプ言うたら、カレーか缶詰やろ! うちが商店街から『非常食』という名の特売品を仕込んできたで!」


 ***


 その夜、一〇一号室の真ん中には、カセットコンロの上に置かれた大きな鍋が鎮座していた。

 雨音はますます激しさを増し、天井のバケツが「トントン、ポツポツ」と、不思議なリズムを刻んでいる。

 電灯をあえて消し、キャンプ用のランタン(シグルの備品)一つで照らされた部屋の中、俺たちは鍋を囲んでいた。


「……よし、できましたよ。キャンプ風・具沢山カレーです。ジャガイモはサキさんの店でもらったやつですからね」


 俺が鍋の蓋を開けると、スパイスの香りが狭い部屋いっぱいに広がった。

 女神たちは、まるで見知らぬ魔法を見るかのような瞳で、黄金色のカレーを凝視している。


「おお……! この、鼻を突く芳醇な香りと、食欲を暴力的に刺激する黄金の輝き。……巡よ、お主はやはり天才じゃ。雨の憂鬱が、この一皿で吹き飛ぶようじゃな!」

「主殿、感謝する。この熱量……まさに戦士の糧食。一口食べるごとに、私の魂の防衛力が底上げされるのを感じるぞ!」


 ヒノカがふうふうと熱いカレーを吹き、口いっぱいに頬張る。

 シグルが姿勢を正し、一匙ごとに深く噛み締める。

 ミナトが、おっとりとした動作で野菜の甘みを楽しみ、

 コトネが、「これで一皿五〇〇円は取れるな……」と呟きながら完食する。


 天井から水が漏れ、アパートはボロボロで、明日の天気も分からない。

 けれど、この狭い部屋に集まって、一つの鍋を囲んでいる今の時間は、これまでにないほど満ち足りていた。

 

「……巡。……お主、さっきから黙って何を笑っておる」


 ヒノカが、口の端にカレーをつけたまま、俺をジロリと見た。


「……いや。雨漏りも、悪くないなって思って。……一人で住んでたら、今頃俺、真っ暗な部屋でバケツの音を聞いて、明日が来るのが嫌だって思ってたはずですから。……皆がいると、雨の音すら賑やかですね」


 俺が本音を漏らすと、女神たちは一瞬だけ静まり返った。

 ランタンの揺れる光の中で、彼女たちの瞳が、言葉にならない感情で揺れている。


「……ふん。お主、たまにそういう小っ恥ずかしいことを言うのう。……まあ、妾がいてこその八百万荘じゃ。お主が寂しくないよう、永遠にここにいてやってもよいぞ」

「主殿。貴殿が望むなら、私はどのような暴風雨からも貴殿を守り抜こう。……このバケツが、溢れることがあってもな」

「私は、管理人さんが溺れないように、ずっとそばで見守っていますわ。……雨の日も、晴れの日も」

「うちは……まあ、あんたが路頭に迷わんように、しっかり稼いだるわ。……せやから、明日の朝食も期待しとるで」


 夜が更けていく。

 俺たちは、一階に敷いた布団を並べ、文字通りの雑魚寝を始めた。

 俺を中心に、右にはヒノカ、左にはシグル。俺の足元にはミナトが丸まり、コトネは「うるさいわ!」と言いながら、ちゃっかり一番端のいい場所を確保している。


 天井を叩く激しい雨の音。

 バケツに落ちる雫の音。

 そして、隣から聞こえてくる、女神たちの安らかな寝息。


 俺は、重くなったまぶたを閉じながら、心から思った。

 俺の「器」は、彼女たちのわがままを受け止めるためにあるんじゃない。

 彼女たちと一緒に、こんななんてことない日常を、一秒でも長く刻んでいくためにあるのだと。


 窓の外では、まだ雨が降り続いている。

 けれど、八百万荘の管理人室は、どの宮殿よりも温かな、神様たちの安らぎの地となっていた。


「……おやすみなさい、みんな」


 俺の小さな呟きは、雨の音に溶けて消えた。

 けれど、繋いだ手の先から伝わってくる確かな熱が、何よりも確かな「縁」を、俺の心に刻み続けていた。


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