第12話:管理人の休日と、商店街包囲網
久しぶりの、雲一つない快晴だった。
八百万荘の管理人、神代巡は、鏡の前で少しだけ時間をかけて髪を整えていた。といっても、普段の寝癖を抑える程度だが、今日ばかりはそうもいかない理由がある。
「よし。……あ、もうこんな時間か。急がないと」
俺は、お気に入りの――といっても数年前の型落ちだが、洗濯したてのシャツに袖を通した。
今日は一カ月ぶりに九十九所長から許可をもらった『完全休暇』の日だ。しかも、数日前から八百屋のサキさんに「最近、巡くん忙しそうだから、お礼も兼ねて駅前の喫茶店でも行かない?」と誘われていた。
俺にとってサキさんは、就活で心が折れ、この世界の誰からも必要とされていないと感じていた時期に、唯一「人間」として接してくれた恩人だ。そんな彼女からの誘いを無下にするわけにはいかない。
しかし、玄関に向かう俺を阻むように、三つの……いや、四つの影が立ちはだかった。
「巡。……お主、どこへ行く。その『よそ行き』の格好はなんじゃ。妾には、不吉な予感しかせぬぞ」
「主殿! 報告せよ。本日の装備は明らかに『非戦闘・親睦特化』だ。偵察の必要がある。どこへ、誰と、何をしに行くつもりだ!」
「ふふ……管理人さん。そんなに爽やかな匂いをさせて、私をおいて、どこかへ『流れて』いってしまうおつもりですか……?」
「巡、あんた、まさかうちの許可なく『経済協力者』と密会するんやないやろな? 抜け駆けは、商売の道に反するで!」
ヒノカ、シグル、ミナト、そして新入居者のコトネまでが、リビングの入り口でスクラムを組んでいた。
「ただの休日ですよ! サキさんと、ちょっとお茶してくるだけです。いいですか、皆さん。冷蔵庫に昼飯は作っておいたから、今日はお留守番ですよ。絶対ですよ!」
俺は強引に彼女たちの間をすり抜け、脱兎のごとく八百万荘を飛び出した。
後ろから「待てい!」「退却は許さん!」という叫びが聞こえてきたが、俺は耳を塞いで駅前へと全速力で自転車を漕いだ。
***
駅前の喫茶店『カフェ・ルミエール』。
サキさんは、既にテラス席で待っていた。
「あ、巡くん! こっちこっち!」
夏らしい白いブラウス姿の彼女は、いつもの八百屋の割烹着姿とはまた違った、眩しいほどの透明感を放っていた。
俺は照れ隠しに軽く会釈をして、向かいの席に座る。
「すみません、待たせちゃって」
「ううん、私も今来たところ。……なんだか、巡くん、最近顔色が良くなったね。アパートの管理、大変だって言ってたけど、充実してるんだ?」
「……まあ、大変なのは間違いじゃないんですけど。でも、なんだかんだで……」
俺が彼女と他愛もない話を始めようとした、その時だった。
ふと、背後の植え込みから「ガサッ」という、明らかに不自然な音が響いた。
さらに、隣の席に座っている、不自然なほど巨大なサングラスと、怪しげなトレンチコートを着込んだ「二人組」が、メニュー表で顔を完全に隠しながら、ヒソヒソと話し始めたのだ。
「おい、シグル。あの女の笑顔、あれは間違いなく『精神攻撃』の一種じゃ。巡の防衛ラインが突破されようとしておるぞ」
「了解した、ヒノカ殿。これより『救出作戦』に移行する準備を開始する。私の指が、マウス(引き金)を求めて震えている……!」
……バレバレだ。
ヒノカの隠しきれない赤髪がトレンチコートからはみ出し、シグルの背中からは模造刀の柄が突き出ている。さらに、テラス席の足元には、なぜか不自然な水たまりが広がり、そこからミナトの声が響いた。
「ふふ……サキさん、でしたっけ。彼女、あんなに幸せそうに笑って。……もし今、私の力で足元を滑らせたら、どんな顔をするかしら……」
「ミナト、あんたは極端やねん! まずはうちが『経済的格差』を見せつけて、巡を引き剥がすんや! ほら、巡、こっちの高級パンケーキのチラシを見ろ!」
……コトネまでいる。
彼女たちの声は、神気が漏れているせいか、俺の耳にだけはっきりと届いていた。
「巡くん? どうしたの、後ろ見て」
「あ、いや! なんでもないです! 景色がいいな、と思って!」
俺は必死にサキの視線を逸らそうとしたが、事態はさらに悪化した。
嫉妬がピークに達したヒノカの神気が、無意識に太陽の熱を呼び寄せてしまったのだ。
突如として、テラス席だけがサウナのような熱気に包まれ始める。
「あ、暑……!? なに、急に気温が上がった?」
「あ、ああ、きっとフェーン現象ですよ! 最近の異常気象は怖いですね、ははは!」
俺は冷や汗を流しながら、テーブルの下で背後の植え込みに向けて足を伸ばし、そこに隠れているであろうシグルの脛を軽く蹴った。
「ぐっ……!? 伏兵か! 敵軍による物理攻撃を確認! 管理人殿、これは反撃の合図と見てよろしいか!」
「やめろって言ってるんだよ!」
思わず叫んでしまった俺を、サキが不思議そうに見つめる。
「巡くん……? 誰と話してるの?」
「あ、いや……ええと、独り言です。最近、独り言がブームで……」
絶体絶命のその時、コトネが不敵な笑みを浮かべて飛び出してきた。彼女の変装は、なぜか成金の社長秘書風だった。
「おーっほっほ! 巡くん、こんなところにいたのね! ほら、次の『配信会議』の時間が迫ってるわよ! 早く戻りなさい!」
「コトネさん!? なんで……」
さらに、ヒノカが「もはやこれまでじゃ!」とトレンチコートを脱ぎ捨てて乱入し、シグルが「主殿の護衛を完遂する!」と模造刀を抜き(かけ)て続き、ミナトが足元の水たまりからヌウッと立ち上がった。
喫茶店のテラス席は、一瞬で「現代の異界」へと変貌した。
サキは呆然として、代わる代わる俺の腕を掴もうとする四人の美少女たちを見つめている。
「え……ええと、巡くん? この子たち、やっぱり……親戚じゃ、ないよね?」
「……サキさん、説明します。説明しますから、まずは……その、通報だけは待ってください」
結局、俺の貴重な休日は、女神たちの「巡争奪戦」という名のカオスによって、文字通り灰燼に帰した。
サキさんには「巡くんって、本当に大変なんだね……。頑張ってね」という、これまでで一番深い同情の言葉を残して帰られてしまった。
夕暮れの帰り道。
自転車の周りを「ごめんなさいじゃ」「悪気はなかったのだ」「寂しかったのよ」「収支はプラスや!」と騒ぎながらついてくる四人の神様たち。
俺の平穏な未来は、今日もまた遠のいていく。
だが、俺の腕を競うように掴んでくる彼女たちの手の温もりだけは、本物だった。
「……はあ。お前ら、夕飯抜きにするぞ、本当に」
俺の言葉に、四人が同時に「それだけは勘弁して!」と叫ぶ。
その賑やかな声に、俺は呆れながらも、口元が少しだけ緩んでしまうのを止められなかった。




