第7話:偽聖女は、本物の治癒を民衆の前で使う
教会前広場には、昨日よりも多くの民衆が集まっていた。
聖女リリアーナの奇跡には、補助魔法陣があった。祈祷台には水晶が仕込まれていた。再断罪の台本は、事前に用意されていた。
噂は、疑問形のまま王都を回っていた。
本物の奇跡とは何なのか。本物の聖女とは誰なのか。教会が認めたものだけが、真実なのか。
だから教会は、火消しを急いだ。
「昨日の儀式は、悪役令嬢一派の妨害により混乱しただけである」
教会前の階段で、神官が声を張っていた。
「聖女リリアーナ様の力に疑いはない。補助具は正式な儀式補助であり、聖女の奇跡を否定するものではない。教会が認めた者こそ、王国の聖女である」
その隣に、リリアーナが立っていた。
白い衣装。伏せられた目。胸の前で重ねられた両手。聖女らしく見える姿勢は、今日も崩れていない。
けれど、昨日までとは違う。
民衆の視線が、彼女ではなく、その足元を見ている。水晶はあるのか。魔法陣は隠されているのか。光はどこから来るのか。
奇跡を待つ目ではなかった。確かめる目だった。
「皆、惑わされるな」
王太子アルフォンスが、階段の上から民衆を見下ろした。
「聖女は教会が認める。王家が庇護する。噂や悪役令嬢の言葉で、揺らぐものではない」
民衆の中から、小さな声が上がる。
「でも、補助魔法陣はあったんだろう」
「再断罪の台本もあったって」
「じゃあ、本物の治癒って、何なんだ」
神官の顔が歪んだ。
「静粛に」
そのとき、広場の後方から、エリザベート・ローゼンベルクが現れた。
セレスティア。マルグリット。ルクレツィア。エレオノーラ。ロザリンド。
悪役令嬢パーティーは、すでに五つの役割を得ている。
エリザベートは、黒革の名簿を開いた。
「六人目」
その声に、広場の空気が変わる。
一人の少女が、エリザベートの隣へ進み出た。
淡い緑の簡素な服。聖女の衣装ではない。宝石も、杖も、認定紋もない。髪は飾られておらず、手袋もしていなかった。
それでも、その手だけは、まっすぐ前を向いていた。
「イリス・レインフォード」
エリザベートは、名簿の文字をなぞる。
「役割は、聖女候補」
教会の神官が、すぐに叫んだ。
「その娘は偽聖女だ!」
民衆がざわめく。
「教会認定を受けていない。治癒能力を詐称した罪で追放された者だ。聖女を名乗る資格などない!」
イリスは、泣かなかった。怒りもしなかった。ただ、自分の手を見下ろしてから、顔を上げた。
「はい。認定はありません」
神官が勝ち誇る。
「ならば――」
「でも」
イリスは、静かに言った。
「認定がなくても、血は止められます」
広場が、静まった。
* * *
最初に前へ出されたのは、荷車から落ちて腕を切った職人だった。昨日、中央広場に集まっていた民衆の一人である。治療所へ向かう途中で、教会前の騒ぎに巻き込まれたらしい。
腕には布が巻かれている。赤い染みが、じわじわと広がっていた。
「こんな者を使うつもりか」
神官が言った。
「正式な治癒判定も、儀式準備もない。聖女の場を乱すだけだ」
イリスは、その言葉を聞き流した。
職人の前に膝をつく。
「見せてください」
「お、俺は……」
「偽者かどうかは、治してからお決めください」
イリスは、布をほどいた。
傷は浅くない。死ぬほどではないが、放っておけば熱を持つ。昨日のリリアーナの儀式で選ばれていた軽傷者より、ずっと分かりやすい傷だった。
イリスは両手を傷口に添えた。
派手な光は出なかった。
祈祷台もない。
水晶もない。
補助魔法陣もない。
教会の祈りもない。
ただ、彼女の掌の下で、血の流れが静かになった。
赤く開いていた皮膚が、少しずつ寄っていく。
痛みに歪んでいた職人の顔が、ゆっくりと緩んだ。
「……痛く、ない」
誰かが息を呑む。
ルクレツィアが水晶板を掲げた。
「補助魔法陣なし」
水晶板には、余計な反応がない。
「外部魔力供給なし」
神官たちが顔を見合わせる。
「水晶反応なし」
ルクレツィアは、イリスの手元を見た。
「治癒効果、直接発現」
広場がざわめいた。
イリスは、職人の腕から手を離す。
傷は完全に消えたわけではない。
けれど、血は止まり、皮膚は閉じていた。
動かしても、もう痛みに顔を歪めない。
職人は、自分の腕を見て、呆然とした。
「治ってる……」
神官が慌てて声を上げる。
「一度だけでは、聖女の力とは認められない!」
「では」
エリザベートは、広場を見渡した。
「二人目を」
神官の顔が固まった。
次に連れてこられたのは、熱で頬を赤くした子どもだった。
母親が不安そうに抱えている。
イリスは母親に頭を下げる。
「触れてもよろしいですか」
母親は、少しだけ迷ってから、子どもを前へ出した。
イリスは子どもの額に手を当てる。
光は、やはり派手ではなかった。
けれど、子どもの荒い呼吸が落ち着いていく。
赤くなっていた頬が、少しずつ戻っていく。
母親が口元を押さえた。
「外部補助なし。二例目」
ルクレツィアが告げる。
神官は何かを言おうとして、言葉を見つけられない。
マルグリットが帳簿を閉じた。
「補助具費、不要ですね」
セレスティアが扇の陰で笑う。
「民衆は、見たものを噂にしますわ」
ロザリンドが、広場のざわめきを聞いていた。
「今回は、台本より先に傷が塞がっています」
イリスは、三人目の前へ進んだ。
今度は、膝を痛めた老女だった。
完全に歩けるようになるわけではない。
だが、腫れは引き、立ち上がるときの痛みが軽くなる。
「外部補助なし。三例目」
ルクレツィアの声が響く。
広場のざわめきは、もう疑いだけではなかった。
「本当に、何も使っていないのか」
「光っていないのに、治った」
「教会認定がなくても?」
「じゃあ、偽聖女って何だ」
神官が青ざめる。
リリアーナは、階段の上で、イリスを見つめていた。
「どうして……」
小さな声だった。
「あなたは、何も使わずに……」
イリスは顔を上げる。
「使っています」
リリアーナが息を止める。
「手です。祈りです。あとは、少しだけ力があります」
その言葉に、リリアーナの顔が揺れた。
イリスは、彼女を責めなかった。
勝ち誇りもしなかった。
ただ、治した。
それが、彼女の職能だった。
* * *
「認められぬ!」
神官が叫んだ。
「教会の認定なき治癒を、聖女の力とは呼べぬ! その娘は偽聖女だ!」
「偽者でも」
イリスは、老女の手を支えながら言った。
「痛みは軽くできます」
民衆のざわめきが大きくなる。
神官の言葉と、目の前の治癒。どちらを信じるべきか、もう民衆は考え始めていた。
アルフォンスは、リリアーナの方を見た。
「リリアーナ。君も治癒を」
リリアーナは、両手を胸の前で握った。
だが、足が前に出ない。
祈祷台はない。水晶もない。補助魔法陣も見られている。民衆の視線は、祈りではなく、仕組みを探している。
「私は……」
リリアーナは、声を震わせた。
「私は、祈れます。でも……」
続きは出てこなかった。
アルフォンスの顔が歪む。
「黙れ。聖女は君だ。教会がそう認めている」
エリザベートが、静かに口を開いた。
「認定は、看板ですわ」
彼女は、治癒を受けた職人と子どもと老女を見る。
「ですが、痛みは看板では止まりません」
民衆の空気が、そこで変わった。
聖女とは何か。教会が認めた者か。目の前の血を止めた者か。
問いは、もう戻らない。
ルクレツィアが報告する。
「補助魔法陣なし。外部魔力供給なし。治癒効果、直接発現。三例確認」
ロザリンドが微笑む。
「噂導線、拡散開始」
セレスティアが、広場を見渡す。
「教会前の空気、変わりましたわ」
エリザベートは、黒革の名簿を開いた。
「聖女候補。第六手、成功ですわね」
イリスは、自分の手を一度だけ見下ろし、小さく息を吐いた。
「今度は、間に合いました」
イリスは、静かに礼をした。
「治しました」
「よろしい」
エリザベートは、名簿の聖女候補欄に印をつける。
「民衆人気、取得」
それは、救済の記録ではなかった。王国攻略の記録だった。
教会が偽者と呼んだ娘は、民衆の前で本物の治癒を使った。王太子派が聖女の看板で取り戻そうとした熱は、別の手に移った。
イリスは泣かない。信じてもらえたことに縋らない。ただ、次の怪我人へ視線を向けていた。まだ治せる者がいるかを、確認していた。
* * *
「もう一度だ」
アルフォンスは、低く言った。その声に、神官が振り返る。
「もう一度、正式な断罪式を開く。王家と教会の名で、あの女たちを裁く。偽聖女を担ぎ、民衆を惑わし、王国の秩序を乱した罪で」
神官は一瞬だけためらい、それから深く頭を下げた。
「正式な場であれば、教会も証言を整えられます」
「今度こそ、終わらせる」
アルフォンスは、エリザベートを睨んだ。
「悪役令嬢ごっこも、ここまでだ」
エリザベートは、少しだけ首を傾けた。
「ごっこ?」
彼女の背後には、六人の令嬢がいた。
社交。経理。魔法。騎士。情報。聖女候補。
王国が悪役と呼んで切り捨てた機能が、すべて一つの列に並んでいる。
「よろしいですわ」
エリザベートは微笑んだ。
「今度こそ、こちらも全員で出ます」
民衆の前で、本物は治した。
次に奪うのは、王太子派が最後に残した断罪の舞台だった。




