第5話:騎士担当は、近衛隊を正面から黙らせる
王都中央広場に、近衛兵たちの槍先が並んだ。
先ほどまで聖女の奇跡を見ようとしていた民衆は、悲鳴を上げて後ずさっている。祈祷台の下に浮かび上がった補助魔法陣は、まだ薄く光っていた。水晶の輝きも、完全には消えていない。
奇跡の場だったはずの広場は、今や王太子の怒りを隠す場所になっていた。
「王太子殿下の命令である」
近衛隊長が、一歩前へ出た。
銀の胸当て。白い外套。王家の紋章を刻んだ長剣。その声はよく鍛えられていたが、先ほどの奇跡認定官ほどには落ち着いていなかった。
「武器を捨て、退去せよ」
エリザベート・ローゼンベルクは、動かなかった。
セレスティアは扇を閉じたまま、横へ一歩退く。マルグリットは帳簿を抱え直す。ルクレツィアは水晶板を下ろし、祈祷台から目を離した。
社交。経理。魔法。その三つは、すでに仕事を終えている。
エリザベートは、黒革の名簿を開いた。
「奇跡を分解されると、今度は剣で片づけようとなさる」
彼女は、近衛兵たちを見た。
「本当に、分かりやすい順番ですわね」
「ふざけるな、エリザベート!」
アルフォンスが叫ぶ。
「聖女の儀式を妨害し、民衆の前で王家の権威を傷つけた。近衛が動くには十分な理由だ!」
「王家の権威」
エリザベートは、静かに繰り返した。
「奇跡を記録しろと怒鳴ることを、そう呼ぶのでしたら」
近衛隊長の眉がわずかに動いた。その一瞬だった。
広場の奥で、重い靴音が鳴った。群衆が割れる。
そこから現れたのは、一人の令嬢だった。
濃赤の騎士礼装。黒革の手袋。腰には細剣。飾りの少ない服装なのに、誰よりも目立っていた。高く結い上げた髪も、まっすぐな背筋も、広場に並ぶ近衛兵たちよりよほど戦場に近い。
彼女はエリザベートの前に立つと、軽く膝を折った。
「お待たせしました」
エリザベートは名簿のページをめくる。
「四人目。エレオノーラ・ヴァイスブルク」
金の文字を、黒い手袋の指先でなぞる。
「役割は、騎士」
近衛隊長が、短く笑った。
「女が騎士役か」
エレオノーラは、彼を見た。
「役ではありません」
細剣の柄に、指をかける。
「職能です」
広場の空気が、変わった。近衛隊長の笑みが消える。
「エレオノーラ・ヴァイスブルク……。婚約者を訓練場で叩き伏せた乱暴者か」
「はい」
エレオノーラは否定しなかった。
「剣を抜いた相手に勝ちました」
「そのせいで婚約破棄された女だろう。女らしくないと、騎士団にも嫌われた」
「剣に負けた男が」
エレオノーラは、静かに言った。
「礼儀で勝ったことにしただけです」
民衆の中から、息を呑む声が上がる。アルフォンスの顔が赤くなった。
「近衛隊長。やれ」
「はっ」
近衛隊長が片手を上げる。前列の三名が、槍を構えて進んだ。
エレオノーラは、その場から動かなかった。槍先が届く寸前、彼女の細剣が抜かれた。
銀の線が、空中を走る。
最初の槍の穂先が横へ弾かれた。二本目の槍は、柄の中心を押され、隣の盾へぶつかる。三人目は踏み込む前に、膝裏を軽く払われた。
倒れない。だが、前列の三人は、同時に足を止められていた。
広場が静まり返る。
「近衛隊の前列は、王族を背にして守るための配置です」
エレオノーラは、細剣の切っ先を下げたまま言った。
「民衆の前で、女を黙らせるための配置ではありません」
「貴様……!」
隊長が剣を抜く。エレオノーラは、彼の足元を見た。
「右足が浅いです」
「何?」
「怒って踏み込むと、盾役との距離が開きます」
隊長が斬りかかる。エレオノーラは一歩だけ半身をずらした。剣を受けるのではなく、手首の外側を細剣の柄で押さえる。
隊長の剣が、地面へ落ちた。音が、広場に響く。
近衛兵たちが動こうとする。だが、隊長の剣が地面に落ちた瞬間、誰も次の一歩を出せなくなった。
民衆が見ている。教会も見ている。そして、王太子が怒りで近衛を動かしたことも、もう見られている。
「構え直してください」
エレオノーラは言った。
「今のは、排除命令ではなく、八つ当たりです」
アルフォンスが歯を剥く。
「近衛隊だぞ! 王国最強の護衛だ!」
「護衛としてなら、優秀です」
エレオノーラは、近衛兵たちを見渡した。
「ですが、群衆の前で政治的な沈黙を強制する訓練は受けていません」
近衛兵の一人が、槍を握る手を強くした。だが、前へ出ない。
彼らは弱くない。鍛えられている。王族を守るために、隊列も、距離も、合図も叩き込まれている。
だからこそ、分かってしまう。今、自分たちが守っているのは、王太子の命ではない。王太子の怒りだ。
「近衛隊は」
エレオノーラは、隊長の落とした剣を足で軽く押し、彼の前へ戻した。
「王太子殿下の怒りを守る部隊ではありません」
隊長の顔が歪む。拾えない。拾えば、もう一度斬りかかる意思を見せることになる。拾わなければ、王太子の命令に応じられないことを認めることになる。
どちらにしても、近衛隊の剣は止まっていた。
* * *
広場の空気が、変わっていた。
先ほどまで、民衆は近衛兵の槍に怯えていた。今は、その槍がどこへ向けられているのかを見ている。
聖女の奇跡を信じるかどうか。魔法陣をどう記録するか。それを、剣で黙らせようとしたのは誰か。
視線は、エレオノーラではなく、アルフォンスへ集まっていた。
「近衛隊長」
エレオノーラは、静かに呼んだ。
「王族を守るなら、構えはそのままで構いません」
隊長が彼女を睨む。
「ですが、この場から民衆を遠ざけ、証言を封じ、見えたものをなかったことにするために動くなら」
彼女は細剣を鞘に戻した。
「その剣は、王族ではなく、失敗を守る剣になります」
隊長は何も言わなかった。アルフォンスが怒鳴る。
「何をしている! 命令を聞け!」
近衛兵たちは動かない。完全に退いたわけではない。しかし、もう前へは出ない。
王太子の命令が、広場の中央で止まっていた。
エレオノーラはエリザベートへ向き直る。
「近衛隊、前列停止」
「排除命令は?」
「実行不能」
「民衆への威圧は?」
エレオノーラは、少しだけ目を細めた。
「失敗です」
エリザベートは黒革の名簿を開く。
「騎士担当。第四手、成功ですわね」
エレオノーラは短く礼をした。
「剣は止めました」
「よろしい」
エリザベートは、名簿の騎士欄に印をつける。
「戦力配置、取得」
それは、勝利の宣言だった。
王太子派は、社交で座らせられなかった。経理で払えなかった。魔法で奇跡を守れなかった。そして今、剣でも黙らせられなかった。
「エリザベート……!」
アルフォンスの声は、怒りで震えていた。だが、もう広場の空気は彼だけのものではない。
民衆は見ていた。教会は黙っていた。近衛隊は止まっていた。
エリザベートは、名簿を閉じた。
「殿下。剣は、命令を大きく見せるための飾りではありませんわ」
アルフォンスは、返せなかった。返す代わりに、側近へ目を向ける。
「記録を作れ」
低い声だった。
「この女たちが聖女の儀式を妨害し、近衛隊に暴力を振るった。民衆を扇動した。王家に反逆した。そう記録しろ」
側近が息を呑む。
「殿下……」
「今すぐだ」
アルフォンスは、押し殺した声で言った。
「事実など、後で整えればいい」
その言葉を、エリザベートは聞いていた。
セレスティアが扇を開く。マルグリットが帳簿に視線を落とす。ルクレツィアが水晶板を軽く持ち上げる。エレオノーラは、剣から手を離したまま、近衛隊の前に立っている。
エリザベートは、黒革の名簿をもう一度開いた。社交。経理。魔法。騎士。次は、情報。
「剣で黙らせられないなら、紙で罪を作る」
彼女は、薄く微笑んだ。
「本当に、分かりやすい方ですわね」
王太子の剣は、止まった。
次に読むのは、まだ書かれていない断罪台本だった。




