第3話:経理担当は、王宮の金庫を閉める
「金を使え」
王太子アルフォンスの声が、王宮東棟の臨時作戦室に響いた。
昨夜の夜会で使われた卓布も、銀杯も、燭台も、まだ片づけきれず、廊下の隅に積まれている。だが、そのすべてが勝利の残骸には見えなかった。
空いた中央席。形成されなかった紹介列。散発的な拍手。
王太子派の夜会は、華やかに整えられていた。だからこそ、空席が目立った。
「もっと大きな夜会を開く。主要家門には贈答品を送れ。欠席できないほどの格式を用意しろ。聖女リリアーナの慈善事業も同時に発表する」
側近たちは、机の周りで顔を見合わせた。
「殿下……その予算ですが」
「またそれか」
アルフォンスは苛立ったように振り返った。
「王太子裁量費を使え。式典費でもよい。聖女庇護費もあるだろう。金が必要なら、王太子派の家門に出させればいい」
聖女リリアーナは、アルフォンスの隣で不安そうに立っていた。昨日の夜会で、自分のために用意された中央席は、最後まで中心にならなかった。それがまだ、彼女の顔色から消えていない。
「アルフォンス様……私、次の慈善式典では、きっと皆さまに……」
「分かっている」
アルフォンスは強くうなずいた。
「君の奇跡を見れば、皆戻る。その前に場を整える。金でいくらでも整えられる」
そのとき、作戦室の扉が叩かれた。
側近の一人が、紙束を抱えて入ってくる。顔が青い。
「殿下。王宮会計局より、支出申請の差し戻しが届いております」
「差し戻し?」
アルフォンスの眉が跳ねた。
「何を差し戻した」
「王太子裁量費の追加支出申請。聖女庇護費の装飾関連支出。慈善寄付金の前払い。式典費の追加計上。護衛増強費。贈答品発注。以上、すべてです」
部屋が静まり返った。
「すべて?」
「はい」
「誰が許可した」
「許可ではなく、差し戻しです」
「誰が差し戻したと聞いている!」
側近は、紙束を握りしめたまま答えた。
「王宮会計局です」
アルフォンスが机を叩いた。
「会計局ごときが、王太子である私の支出を止めるのか!」
その声に、扉の外の者たちが身をすくめる。
だが、扉はもう一度開いた。
入ってきたのは、役人たちだった。その先頭に、一人の令嬢がいる。
深緑のドレス。銀の縁取り。手には分厚い帳簿。宝石よりも冷たい目をしたその令嬢は、作戦室の入口で静かに礼をした。
「マルグリット・ベルフォール。元王宮会計補佐でございます」
アルフォンスの顔が歪む。
「ベルフォール……貴様は追放されたはずだ。冷酷な取り立て令嬢として、社交界から処理された女だろう」
「はい」
マルグリットは、まったく傷ついた顔をしなかった。
「王宮予算の不自然な流れを指摘したため、そのように呼ばれました」
彼女は帳簿を机に置く。
「ですが、帳簿は追放されませんでした」
その後ろから、エリザベート・ローゼンベルクが入ってきた。黒革の名簿を手にしている。
隣にはセレスティアもいた。昨夜、王太子派の夜会から席を奪った社交担当は、今日は一歩下がって立っている。今日の番は、別の女だった。
「二人目」
エリザベートは名簿を開いた。
「マルグリット・ベルフォール。役割は、経理」
「また悪役令嬢か」
アルフォンスが吐き捨てる。
「ええ」
エリザベートは微笑んだ。
「今回は、金庫を閉める悪役ですわ」
* * *
マルグリットは、机の上に帳簿を並べた。
王太子裁量費。式典費。聖女庇護費。慈善寄付金。護衛増強費。外交接待費。それぞれの帳簿に、細い付箋が挟まれている。
「まず、王太子裁量費の追加支出申請」
マルグリットは一枚目の紙を取り上げた。
「昨夜の夜会費用が未精算です。料理、楽団、燭台、卓布、装花、臨時侍従。支払い先への確認が終わっておりません。未精算の式典費が残っている状態で、次の夜会費用を追加計上することはできません」
「私が必要だと言っている」
「必要かどうかではありません」
マルグリットは、顔色を変えずに言った。
「未精算です」
側近の喉が鳴った。
「次に、聖女庇護費」
リリアーナの肩がわずかに揺れた。
「庇護費は、生活、警護、治癒活動補助に限られます。真珠の髪飾り、銀糸の礼装、夜会用の香油、舞踏会用の靴。以上は庇護費の対象外です」
「わ、私は……必要だと聞いて……」
リリアーナが小さく言った。
マルグリットは、彼女を責めるようには見なかった。ただ、帳簿を見た。
「治癒活動用の外套なら認めます。真珠の髪飾りは認めません」
「そんな……」
「名目が違います。差し戻しです」
部屋の空気が、また一段冷えた。
「慈善寄付金について」
マルグリットは、別の紙を取る。
「聖女リリアーナ様の慈善事業発表に伴う前払い申請。受益者名簿が空欄です。治癒対象者、配布先、物資数量、責任者印、すべて未記入。寄付金として支出する根拠がありません」
アルフォンスが苛立つ。
「慈善事業なのだぞ。聖女の名で行うものだ」
「名があっても、受益者がありません」
マルグリットの声は平坦だった。
「差し戻しです」
「護衛増強費はどうだ。昨夜の混乱を見ただろう。警備は必要だ」
「警護対象、危険評価、配置予定、任務記録が未提出です」
「王太子の命令だ」
「書類がありません」
「貴様……!」
アルフォンスが立ち上がった。
マルグリットは、少しも下がらなかった。
「殿下。金庫は、怒鳴っても開きません」
作戦室の端で、誰かが息を呑んだ。
「これは王家の金だ!」
「いいえ」
マルグリットは即答した。
「王家の金ではありません。王国の金です」
その一言で、作戦室の空気が変わった。
アルフォンスは、すぐには返せなかった。王太子である自分の声よりも、帳簿の数字が強い。その事実を、部屋にいる全員が理解してしまったからだ。
エリザベートは、マルグリットの横で静かに見ていた。彼女は口を挟まない。経理の戦場で、王太子を斬るのはマルグリットの役割だった。
「王国の金庫は、恋の演出装置ではございません」
マルグリットは、最後の帳簿を閉じた。
「殿下がどなたを隣に座らせるかと、王国予算をどこへ流すかは、別の話でございます」
リリアーナの顔が青ざめる。アルフォンスは、怒りで肩を震わせた。
「ならば私費で払う。王太子派の家門に出させる。昨日の夜会に来なかった連中にも、協賛金を出させればよい」
側近が、さらに青ざめた。
「殿下……その協賛金ですが」
「今度は何だ!」
「主要家門からの協賛返答も、保留に回っております」
セレスティアが、扇の奥で微笑んだ。
「昨日、席を保留なさった皆さまですもの。財布だけ先に開くことは、なさらないかと」
アルフォンスがセレスティアを睨む。
だが、睨んでも席は埋まらなかった。睨んでも金庫は開かなかった。
昨日、王太子派は社交の席を失った。今日、その空席は、そのまま資金の穴になっていた。
* * *
マルグリットは、帳簿を順に閉じていった。
「王太子裁量費、追加支出停止」
一冊目。
「式典費、未精算につき追加不可」
二冊目。
「聖女庇護費、装飾関連支出差し戻し」
三冊目。
「慈善寄付金、受益者名簿不備により保留」
四冊目。
「護衛増強費、危険評価未提出」
五冊目。
「協賛金、主要家門返答保留」
最後の帳簿が閉じられた。
「以上。現時点で、王太子派の追加支出は通りません」
作戦室に、重い沈黙が落ちた。
アルフォンスは歯を食いしばっている。リリアーナは、自分の髪飾りへ無意識に手をやり、すぐに下ろした。
エリザベートは黒革の名簿を開く。
「経理担当。第二手、成功ですわね」
マルグリットは静かに礼をした。
「金庫は閉まりました」
「よろしい」
エリザベートは、名簿の経理欄に短く印をつける。
「資金線、取得」
それは慈悲ではなかった。断罪でもなかった。王国攻略の記録だった。
アルフォンスが低く唸る。
「金など……金などなくとも構わん」
彼はリリアーナの方を向いた。
「リリアーナ。君の奇跡を見せればよい。金で飾る必要などない。本物の聖女の力を見せれば、民も貴族も戻る」
リリアーナは、一瞬だけ怯えたように目を揺らした。だが、すぐに両手を胸の前で重ねる。
「はい……私の奇跡なら……」
エリザベートは、名簿の次のページをめくった。社交。経理。次は、魔法。
「金で飾れないなら、奇跡で飾る」
彼女は、薄く微笑んだ。
「分かりやすい順番ですわね」
王宮の金庫は、閉じた。
次に分解するのは、聖女の奇跡だった。




