第2話:社交担当は、王太子派の夜会を空席にする
王宮西翼の夜会場は、完璧に整えられていた。
銀の燭台。磨き上げられた杯。王太子派の紋章を織り込んだ卓布。楽団は軽やかな舞曲を奏で、料理人たちは温かな皿を次々と運び込んでいる。
何一つ、欠けてはいない。
ただ、人が少なかった。
「……まだ集まっていないだけだ」
王太子アルフォンスは、そう言った。誰に向けた言葉でもなかった。自分自身に言い聞かせるような声だった。
隣では、聖女リリアーナが不安そうに夜会場を見回している。白いドレスの裾が、床の上でかすかに揺れた。
中央には、彼女のための席が用意されていた。
王太子の隣。王家の庇護を示す位置。断罪された公爵令嬢の代わりに、今夜から誰が社交界の中心に立つのかを示すための席。
けれど、その周囲の席が空いていた。
主要家門の名札が置かれたまま、椅子だけが整然と並んでいる。
「殿下」
側近の一人が、青い顔で近づいてきた。
「何だ」
「主要家門からの返答ですが……まだ、保留のままです」
アルフォンスは、眉をひそめた。
「保留とは何だ。招待状は出した。断罪式にも出ていた者たちだぞ」
「はい。ですが、夜会への出席については、家中で確認が必要とのことで……」
「確認?」
アルフォンスの声が硬くなる。
「この私の夜会に出席することに、何の確認が必要だ」
側近は答えられなかった。答える代わりに、夜会場の入口へ目を向ける。
そこには、招かれた貴族たちがいないわけではなかった。来ている者はいる。だが、少ない。そして、来ている者ほど、中央へ近づかない。
壁際に立ち、杯だけを持ち、互いの顔色をうかがっている。まるで、この夜会場のどの席に座るかが、明日の立場を決めるかのように。
「音楽を止めるな」
アルフォンスは低く命じた。
「客が少ないように見える」
「は、はい」
楽団が、少しだけ大きな音を出した。しかし、音楽は空席を埋めない。
リリアーナが、アルフォンスの袖をそっとつかんだ。
「アルフォンス様……皆さまは、どちらに……?」
「来る」
アルフォンスは即答した。
「当然だ。彼らは、王太子派の勝利を見届けるために来る」
その言葉を聞いた壁際の男爵が、かすかに目を伏せた。勝利。その言葉だけが、夜会場でひどく浮いていた。
「本日より」
アルフォンスは、あえて声を張った。夜会場にいる者たちが、そろって彼を見る。人数は足りない。だが、それでも主催者が沈黙するわけにはいかない。
「聖女リリアーナは、王家の庇護のもと――」
ぱち、ぱち、と拍手が起きた。
遅い。薄い。
拍手すべき主要家門が、そこにいない。壁際にいる者たちは、隣が手を叩いたのを見てから、仕方なく指先を合わせている。
リリアーナの顔から、血の気が引いていく。
そのとき、夜会場の端で、誰かが小声で言った。
「西側応接室に……」
アルフォンスの目が動く。
「何だ」
声を出した子爵が、肩を震わせた。
「い、いえ。主要家門の方々は、西側応接室におられると」
「なぜ、夜会場に入らない」
答える者はいなかった。アルフォンスは杯を側近に押しつけると、大股で夜会場を出た。
リリアーナが慌てて後を追う。壁際の貴族たちは、誰も止めなかった。むしろ、王太子がどこへ向かうのかを確かめるように、そっと視線を動かした。
* * *
西側応接室には、夜会場よりも静かな熱があった。
大きな声で笑う者はいない。音楽もない。料理の皿も少ない。
それでも、そこには夜会場に足りないものがあった。
主要家門の当主たち。その代理人たち。王都の噂を一晩で動かせる、先ほどまで聖女を支持していたはずの夫人たち。
彼らは、欠席していなかった。王宮には来ている。招待を無視したわけではない。ただ、王太子派の夜会場にまだ入っていないだけだった。
部屋の中央に、セレスティア・ヴァレンティスが立っていた。
淡い青のドレスに、白い手袋。一年前、悪女として追放されたはずの令嬢は、追放される前よりもずっと穏やかな顔で微笑んでいる。
「皆さま、どうか急がれませんよう」
彼女は、何かを命じているわけではなかった。ただ、確認しているだけだった。
「今夜、どの席に座ったかは、明日の朝には派閥表になります。王太子殿下の中央席か。壁際か。あるいは、まだ座らないのか。社交界では、その差がたいへん長く残ります」
夫人の一人が、扇の陰で目を細める。
「欠席では、角が立ちますものね」
「はい」
セレスティアはうなずいた。
「欠席は敵対です。ですが、保留は判断です。皆さまは、まだ判断なさっているだけ」
その端で、エリザベート・ローゼンベルクが黒革の名簿を開いていた。彼女は中央に立っていない。今日は、セレスティアの番だからだ。
エリザベートは、一つの配置が機能しているかを見ているだけだった。
「セレスティア」
「はい、エリザベート様」
「社交担当。第一手は成功ですわね」
「空席は作れました」
セレスティアは微笑んだまま、夜会場の方へ視線を向ける。
「ですが、まだ奪っただけです」
「では、次は座らせる場所を変えましょう」
「承知しました」
短い会話だった。慰めも、感謝もない。ただ、役割と手順が確認される。
夫人の一人が、興味深そうにエリザベートを見た。
「ローゼンベルク公爵令嬢。わたくしたちは、あなたにつけばよろしいのかしら」
エリザベートは、そこで初めて顔を上げた。
「いいえ」
応接室がわずかに静まる。
「今夜、皆さまにお願いしたいのは、私につくことではありません」
「では?」
「殿下の勝利演出に、無償で席を貸さないことですわ」
夫人は、扇の奥で笑った。答えは、それで十分だった。
そこへ、応接室の扉が強く開いた。アルフォンスが立っていた。
その後ろに、リリアーナ。さらに、夜会場からついてきた数人の側近。
アルフォンスは部屋を見回し、顔色を変えた。夜会場にいるべき者たちが、ここにいる。自分の勝利を拍手で固定するはずだった者たちが、誰一人、中央席に座っていない。
「貴様ら」
アルフォンスの声が低く響いた。
「私の夜会に招かれておきながら、なぜ会場に入らない」
誰も即答しなかった。反逆ではない。欠席でもない。ただ、座っていない。だからこそ、処罰の言葉が見つからない。
エリザベートが静かに名簿を閉じた。
「殿下。招待状は、会場へ足を運ばせるための紙ですわ」
アルフォンスが彼女を睨む。
「座席に忠誠まで縫いつけるものではありません」
「エリザベート……!」
「あなたは本日、私から婚約者の席を奪いました。ですから私たちは、あなたから夜会の席を奪います」
リリアーナが小さく息を呑む。
「そんな……席くらいで……」
「席くらい?」
セレスティアが、穏やかに声を返した。その声音に、応接室の夫人たちがわずかに姿勢を正す。
「リリアーナ様。社交界では、誰が来たかより、誰がどこに座らなかったかの方が長く残ります」
リリアーナは言葉を失った。
アルフォンスは手を振り上げるように命じた。
「全員、夜会場に入れ。今すぐだ。これは王太子である私の夜会だぞ」
伯爵の一人が、深く頭を下げた。
「殿下。出席の意思はございます。ただ、家の者と相談を」
「わたくしも、体調が優れませんので、少しこちらで休ませていただいております」
「席は、まだ決めかねております」
「今夜は、どの位置に座るべきか判断が難しく」
誰も逆らわない。誰も王太子を否定しない。ただ、座らない。
それだけで、王太子の夜会は成立しなかった。
「ふざけるな……!」
アルフォンスの声が荒くなる。だが、怒鳴れば怒鳴るほど、応接室の空気は冷えていく。
主催者が、客を席に座らせられない。その事実だけが、貴族たちの目に静かに刻まれていった。
セレスティアは、一歩だけ前へ出る。
「殿下」
「何だ」
「空席は、欠席者の沈黙ではございません」
彼女は優雅に礼をした。
「主催者への評価です」
誰かが、息を呑んだ。
アルフォンスは返せなかった。返せば、その言葉を認めることになる。怒鳴れば、評価を恐れていると見える。命じれば、座らせられない主催者であることが広まる。
社交は、剣よりも遅い。だが、斬られたことに気づくころには、血が流れている。
* * *
その夜、王太子派の夜会は最後まで続いた。
音楽は止まらなかった。料理も運ばれた。燭台も明るく灯っていた。
けれど、中央席は埋まらなかった。聖女リリアーナへの紹介列はできず、王太子の乾杯には散発的な拍手だけが返った。
夜会場の壁際にいた貴族たちは、最後まで壁際にいた。西側応接室の者たちは、最後まで「保留」のままだった。
夜会が終わるころ、セレスティアはエリザベートの前で小さく礼をした。
「王太子派夜会、中央席の占有率、三割未満」
エリザベートは名簿を開く。
「紹介列は?」
「形成されず」
「拍手は?」
「散発」
「勝利演出は?」
セレスティアは、楽しげに目を細めた。
「失敗です」
エリザベートは、名簿の社交欄に短く印をつけた。
「社交導線、取得」
それは、慰めの言葉ではなかった。勝利の記録だった。
遠くの夜会場で、アルフォンスが側近を叱りつける声が聞こえた。
「金を使え。もっと大きな夜会を開く。贈答品も増やせ。欠席できないほどの格式にしろ」
側近の声は、ひどく弱かった。
「殿下……その予算ですが」
アルフォンスの声が止まる。
エリザベートは、名簿の次のページをめくった。社交の次。経理。
「席は奪いました」
セレスティアが言った。
「次は?」
エリザベートは、黒い手袋の指先で、経理の見出しを押さえた。
「席を奪えば、相手は金で埋めようとします」
彼女は微笑む。
「ですから次は、金庫を閉めます」
夜会の席は、空いた。
次に閉じるのは、王宮の金庫だった。




