↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/13

第2話:社交担当は、王太子派の夜会を空席にする

 王宮西翼の夜会場は、完璧に整えられていた。

 銀の燭台。磨き上げられた杯。王太子派の紋章を織り込んだ卓布。楽団は軽やかな舞曲を奏で、料理人たちは温かな皿を次々と運び込んでいる。

 何一つ、欠けてはいない。

 ただ、人が少なかった。


「……まだ集まっていないだけだ」


 王太子アルフォンスは、そう言った。誰に向けた言葉でもなかった。自分自身に言い聞かせるような声だった。

 隣では、聖女リリアーナが不安そうに夜会場を見回している。白いドレスの裾が、床の上でかすかに揺れた。


 中央には、彼女のための席が用意されていた。

 王太子の隣。王家の庇護を示す位置。断罪された公爵令嬢の代わりに、今夜から誰が社交界の中心に立つのかを示すための席。

 けれど、その周囲の席が空いていた。

 主要家門の名札が置かれたまま、椅子だけが整然と並んでいる。


「殿下」


 側近の一人が、青い顔で近づいてきた。

「何だ」

「主要家門からの返答ですが……まだ、保留のままです」

 アルフォンスは、眉をひそめた。

「保留とは何だ。招待状は出した。断罪式にも出ていた者たちだぞ」

「はい。ですが、夜会への出席については、家中で確認が必要とのことで……」

「確認?」


 アルフォンスの声が硬くなる。

「この私の夜会に出席することに、何の確認が必要だ」

 側近は答えられなかった。答える代わりに、夜会場の入口へ目を向ける。

 そこには、招かれた貴族たちがいないわけではなかった。来ている者はいる。だが、少ない。そして、来ている者ほど、中央へ近づかない。

 壁際に立ち、杯だけを持ち、互いの顔色をうかがっている。まるで、この夜会場のどの席に座るかが、明日の立場を決めるかのように。


「音楽を止めるな」

 アルフォンスは低く命じた。

「客が少ないように見える」

「は、はい」

 楽団が、少しだけ大きな音を出した。しかし、音楽は空席を埋めない。

 リリアーナが、アルフォンスの袖をそっとつかんだ。

「アルフォンス様……皆さまは、どちらに……?」

「来る」


 アルフォンスは即答した。

「当然だ。彼らは、王太子派の勝利を見届けるために来る」

 その言葉を聞いた壁際の男爵が、かすかに目を伏せた。勝利。その言葉だけが、夜会場でひどく浮いていた。


「本日より」

 アルフォンスは、あえて声を張った。夜会場にいる者たちが、そろって彼を見る。人数は足りない。だが、それでも主催者が沈黙するわけにはいかない。

「聖女リリアーナは、王家の庇護のもと――」

 ぱち、ぱち、と拍手が起きた。


 遅い。薄い。

 拍手すべき主要家門が、そこにいない。壁際にいる者たちは、隣が手を叩いたのを見てから、仕方なく指先を合わせている。

 リリアーナの顔から、血の気が引いていく。

 そのとき、夜会場の端で、誰かが小声で言った。

「西側応接室に……」


 アルフォンスの目が動く。

「何だ」

 声を出した子爵が、肩を震わせた。

「い、いえ。主要家門の方々は、西側応接室におられると」

「なぜ、夜会場に入らない」


 答える者はいなかった。アルフォンスは杯を側近に押しつけると、大股で夜会場を出た。

 リリアーナが慌てて後を追う。壁際の貴族たちは、誰も止めなかった。むしろ、王太子がどこへ向かうのかを確かめるように、そっと視線を動かした。


* * *


 西側応接室には、夜会場よりも静かな熱があった。

 大きな声で笑う者はいない。音楽もない。料理の皿も少ない。

 それでも、そこには夜会場に足りないものがあった。

 主要家門の当主たち。その代理人たち。王都の噂を一晩で動かせる、先ほどまで聖女を支持していたはずの夫人たち。

 彼らは、欠席していなかった。王宮には来ている。招待を無視したわけではない。ただ、王太子派の夜会場にまだ入っていないだけだった。


 部屋の中央に、セレスティア・ヴァレンティスが立っていた。

 淡い青のドレスに、白い手袋。一年前、悪女として追放されたはずの令嬢は、追放される前よりもずっと穏やかな顔で微笑んでいる。

「皆さま、どうか急がれませんよう」


 彼女は、何かを命じているわけではなかった。ただ、確認しているだけだった。

「今夜、どの席に座ったかは、明日の朝には派閥表になります。王太子殿下の中央席か。壁際か。あるいは、まだ座らないのか。社交界では、その差がたいへん長く残ります」

 夫人の一人が、扇の陰で目を細める。

「欠席では、角が立ちますものね」

「はい」

 セレスティアはうなずいた。

「欠席は敵対です。ですが、保留は判断です。皆さまは、まだ判断なさっているだけ」


 その端で、エリザベート・ローゼンベルクが黒革の名簿を開いていた。彼女は中央に立っていない。今日は、セレスティアの番だからだ。

 エリザベートは、一つの配置が機能しているかを見ているだけだった。

「セレスティア」

「はい、エリザベート様」

「社交担当。第一手は成功ですわね」

「空席は作れました」

 セレスティアは微笑んだまま、夜会場の方へ視線を向ける。

「ですが、まだ奪っただけです」

「では、次は座らせる場所を変えましょう」

「承知しました」


 短い会話だった。慰めも、感謝もない。ただ、役割と手順が確認される。

 夫人の一人が、興味深そうにエリザベートを見た。

「ローゼンベルク公爵令嬢。わたくしたちは、あなたにつけばよろしいのかしら」

 エリザベートは、そこで初めて顔を上げた。

「いいえ」


 応接室がわずかに静まる。

「今夜、皆さまにお願いしたいのは、私につくことではありません」

「では?」

「殿下の勝利演出に、無償で席を貸さないことですわ」

 夫人は、扇の奥で笑った。答えは、それで十分だった。


 そこへ、応接室の扉が強く開いた。アルフォンスが立っていた。

 その後ろに、リリアーナ。さらに、夜会場からついてきた数人の側近。

 アルフォンスは部屋を見回し、顔色を変えた。夜会場にいるべき者たちが、ここにいる。自分の勝利を拍手で固定するはずだった者たちが、誰一人、中央席に座っていない。

「貴様ら」

 アルフォンスの声が低く響いた。

「私の夜会に招かれておきながら、なぜ会場に入らない」


 誰も即答しなかった。反逆ではない。欠席でもない。ただ、座っていない。だからこそ、処罰の言葉が見つからない。

 エリザベートが静かに名簿を閉じた。

「殿下。招待状は、会場へ足を運ばせるための紙ですわ」

 アルフォンスが彼女を睨む。

「座席に忠誠まで縫いつけるものではありません」

「エリザベート……!」

「あなたは本日、私から婚約者の席を奪いました。ですから私たちは、あなたから夜会の席を奪います」


 リリアーナが小さく息を呑む。

「そんな……席くらいで……」

「席くらい?」

 セレスティアが、穏やかに声を返した。その声音に、応接室の夫人たちがわずかに姿勢を正す。

「リリアーナ様。社交界では、誰が来たかより、誰がどこに座らなかったかの方が長く残ります」

 リリアーナは言葉を失った。


 アルフォンスは手を振り上げるように命じた。

「全員、夜会場に入れ。今すぐだ。これは王太子である私の夜会だぞ」

 伯爵の一人が、深く頭を下げた。

「殿下。出席の意思はございます。ただ、家の者と相談を」

「わたくしも、体調が優れませんので、少しこちらで休ませていただいております」

「席は、まだ決めかねております」

「今夜は、どの位置に座るべきか判断が難しく」


 誰も逆らわない。誰も王太子を否定しない。ただ、座らない。

 それだけで、王太子の夜会は成立しなかった。

「ふざけるな……!」

 アルフォンスの声が荒くなる。だが、怒鳴れば怒鳴るほど、応接室の空気は冷えていく。

 主催者が、客を席に座らせられない。その事実だけが、貴族たちの目に静かに刻まれていった。


 セレスティアは、一歩だけ前へ出る。

「殿下」

「何だ」

「空席は、欠席者の沈黙ではございません」

 彼女は優雅に礼をした。


「主催者への評価です」


 誰かが、息を呑んだ。

 アルフォンスは返せなかった。返せば、その言葉を認めることになる。怒鳴れば、評価を恐れていると見える。命じれば、座らせられない主催者であることが広まる。

 社交は、剣よりも遅い。だが、斬られたことに気づくころには、血が流れている。


* * *


 その夜、王太子派の夜会は最後まで続いた。

 音楽は止まらなかった。料理も運ばれた。燭台も明るく灯っていた。

 けれど、中央席は埋まらなかった。聖女リリアーナへの紹介列はできず、王太子の乾杯には散発的な拍手だけが返った。

 夜会場の壁際にいた貴族たちは、最後まで壁際にいた。西側応接室の者たちは、最後まで「保留」のままだった。


 夜会が終わるころ、セレスティアはエリザベートの前で小さく礼をした。

「王太子派夜会、中央席の占有率、三割未満」

 エリザベートは名簿を開く。

「紹介列は?」

「形成されず」

「拍手は?」

「散発」

「勝利演出は?」

 セレスティアは、楽しげに目を細めた。

「失敗です」


 エリザベートは、名簿の社交欄に短く印をつけた。

「社交導線、取得」

 それは、慰めの言葉ではなかった。勝利の記録だった。

 遠くの夜会場で、アルフォンスが側近を叱りつける声が聞こえた。

「金を使え。もっと大きな夜会を開く。贈答品も増やせ。欠席できないほどの格式にしろ」

 側近の声は、ひどく弱かった。

「殿下……その予算ですが」

 アルフォンスの声が止まる。


 エリザベートは、名簿の次のページをめくった。社交の次。経理。

「席は奪いました」

 セレスティアが言った。

「次は?」

 エリザベートは、黒い手袋の指先で、経理の見出しを押さえた。

「席を奪えば、相手は金で埋めようとします」

 彼女は微笑む。


「ですから次は、金庫を閉めます」


 夜会の席は、空いた。

 次に閉じるのは、王宮の金庫だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。