第11話:王太子派は、悪役令嬢なしで破綻する
「悪役令嬢一派の名を出すな」
翌朝、王宮東棟の執務室で、王太子アルフォンスはそう命じた。
机の上には、昨日の評議会で止まった資料が積まれている。王都治安回復案、追加予算案、魔法設備報告、警備配置図、救護計画書。どれも、印章が途中で止まったままだった。
「セレスティアにも、マルグリットにも、ルクレツィアにも、エレオノーラにも、ロザリンドにも、イリスにも確認を取るな」
アルフォンスは、資料を机に叩きつけた。
「王太子派だけで処理しろ。王国は、あの女たちがいなければ動かないなどという馬鹿げた話を、今日で終わらせる」
内務卿は、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
声は落ち着いていた。だが、その指は、机の端を強く押さえている。
彼は無能ではなかった。昨日の評議会で、何が止まったのかも理解している。
それでも、王太子の前で退けない。王太子派が自分たちだけで回せないと認めた瞬間、ここまでの断罪も、夜会も、舞踏会も、評議会も、すべて意味を失う。
「まず、諸侯への再招集状を出せ」
アルフォンスは言った。
「次に、支払いを通す。巡幸の準備も進めろ。警備は王都中央に厚く置け。記録は、昨日の評議会を混乱による保留として整えろ」
「はい」
内務卿は書記官へ合図した。
悪役令嬢たちは呼ばれなかった。助言も求められなかった。王太子派だけで回す一日が始まった。
* * *
最初に止まったのは、招集状だった。
昼前、側近が青い顔で執務室に戻ってきた。
「主要家門への再招集状ですが……返答が確認待ちに回っております」
アルフォンスは眉をひそめる。
「また保留か」
「欠席ではありません。ですが、宛名の序列について問い合わせが来ています」
「序列?」
「はい。ヴァレンティス侯爵家宛ての文面が当主宛てではなく夫人宛てになっており、ベルフォール伯爵家には同じ招集状が二通届き、グランヴェル家には旧称で送付されています。さらに、ヴァイスブルク家には返答期限が本日正午となっておりまして」
内務卿の顔が強張った。
「本日正午? それは無礼だ」
「書式の控えが古かったようで……」
アルフォンスは舌打ちした。
「書式など、どうでもよい。来るか来ないかを聞いている」
「来るとも来ないとも。各家とも、文面確認後に返答すると」
側近は、声を細くした。
「全件、確認待ちです」
王太子派に逆らってはいない。欠席でもない。ただ、まだ票を置かない。
昨日まで聞き飽きた言葉が、今日も戻ってきていた。
「次だ」
アルフォンスは苛立ちを押し殺した。
「支払いはどうなった」
* * *
会計局前では、王太子派の商人たちが列を作っていた。
昨夜の舞踏会、再断罪式、追加警備、聖女巡幸の準備。請求書だけは、正確に届いている。
「王太子殿下のお名前は、もちろん重く承っております」
商人の一人が、帽子を胸に当てて言った。
「ですが、こちらとしては支払日も頂戴したいのです」
会計官は、困りきった顔で書類をめくる。
「聖女庇護費からは出せない。式典費は未精算。王太子派臨時支出は承認前。協賛金は入金未確認」
「では、物資は出せません」
「王太子殿下の命令だぞ」
「王太子殿下のお名前で、倉庫の鍵は開きません」
会計局前に、沈黙が落ちた。
商人は頭を下げる。
「金貨か、承認印か、支払日の確約を。どれかをいただければ、すぐに納めます」
どれも、そこにはなかった。
報告を受けたアルフォンスは、机を叩いた。
「なぜだ。金ならあるはずだ」
内務卿が低く答える。
「ある金と、使える金は違います」
言ってから、彼は口を閉じた。その言い方が、誰に似ているのか気づいたからだ。
* * *
教会前広場では、小さな祈祷台が組まれていた。
聖女リリアーナの巡幸を、何としても形にするためだった。
補助魔法陣は薄く刻まれている。水晶も、目立たないよう布の下に置かれていた。ただし、調整役はいない。
神官が合図を出す。
「聖女様、祈りを」
リリアーナは両手を重ねた。
白い光が出た。
だが、強すぎた。
祈祷台の縁が一瞬だけ眩しく光り、周囲の民衆が目を細める。次に、置かれていた水晶の一つが、細く音を立ててひび割れた。
治療を受けるはずだった少年が、不安そうに母親の服をつかむ。
「光は出ました」
教会の魔法技師が、震える声で言った。
「ですが……傷は塞がっていません」
民衆の間に、ざわめきが走る。
「また仕掛けか?」
「昨日の広場と同じじゃないのか」
「偽聖女の方は、手を当てただけで血を止めたぞ」
リリアーナの顔が青くなる。
「私は……祈りました」
その声は、民衆のざわめきに沈んだ。
神官は慌てて水晶を隠そうとした。だが、隠そうとする動きそのものが、もう疑いを呼んでいた。
* * *
王都南倉庫から治療所へ向かう荷車は、西門前で止まっていた。
警備のため、王都中央部へ向かう道が封鎖されている。近衛兵たちは整然と並んでいた。見た目だけなら、王都は守られているように見えた。
だが、荷車は動かない。
「包帯と薬草を運んでいる。治療所へ通してくれ」
御者が言った。
近衛兵は困った顔で命令書を見る。
「王都中央部への出入りは、王太子派の臨時統制により制限されている」
「なら、どこを通ればいい」
「それは……」
命令書には書かれていない。
同じころ、食料馬車も西門で詰まっていた。王宮前の通りはきれいに空いている。だが、裏の道で物資が止まっている。
報告を受けた内務卿は、地図を見つめた。
「王宮前は安全です」
近衛関係者が言った。
「では、なぜ治療所に包帯が届いていない」
誰も答えられなかった。
兵は並んでいた。だが、道は守られていなかった。
* * *
記録室では、書記官たちが三種類の命令書を並べていた。
「どれが最新版だ」
内務卿の側近が聞く。
書記官は、青い顔で答えた。
「すべて最新版の印が押されています」
一枚目には、聖女巡幸は午前とある。二枚目には、午後とある。三枚目には、評議会承認後とある。
王都警備の責任者も違う。救護物資の受取先も違う。招集状の返答期限も違う。
「なぜこんなことになる」
「昨日の評議会の記録を、混乱による保留として整えようとしたのですが、部署ごとに解釈が分かれまして……」
「噂は」
「すでに、王太子派の命令書が三種類あると広がっています」
側近は目を閉じた。
記録を整えるための紙が、紙ごと食い違っている。その食い違いが、記録より先に噂になっていた。
「ロザリンド・アシュベリーの名を出すな」
側近は、誰にともなく言った。
だが、名前を出さなくても、穴だけはそこにあった。
* * *
昼を過ぎるころ、王宮執務室には失敗報告が積み上がっていた。
招集状、確認待ち。支払い、未処理。祈祷台、調整不良。物資、滞留。命令書、三種類。救護巡幸、混乱。
アルフォンスは、報告書の束を見下ろしていた。
「なぜ一つも進まない」
誰も答えない。
「招待状を出すだけだ。金を払うだけだ。祈らせるだけだ。兵を並べるだけだ。記録を書くだけだ。救護を行うだけだ」
彼は、拳を握った。
「なぜ、それだけのことができない!」
内務卿は、しばらく黙っていた。
それから、低く言った。
「進んでいなかったのではありません」
アルフォンスが睨む。
内務卿は、机の上の書類を見た。
「今まで、誰かが進めていたのです」
その言葉は、執務室の空気を凍らせた。
招待状の序列。支払いの名目。魔法具の調整。警備と補給路。命令書の整合。救護対象の選別。
王太子派が政務だと思っていたものは、誰かの手順の上に乗っていた。その誰かを、王太子派は悪役と呼んで捨てた。
「黙れ」
アルフォンスは言った。
「まだ終わっていない。整え直せ」
そのとき、扉が叩かれた。
入ってきた側近は、さらに青い顔をしていた。
「エリザベート・ローゼンベルク様が、廊下に」
「通すな」
「すでに、女王陛下の使者とご一緒です」
アルフォンスの顔色が変わった。
* * *
王宮廊下には、エリザベート・ローゼンベルクが立っていた。
黒革の名簿を手にしている。その背後には、六人の令嬢がいる。
誰も急いでいない。誰も慌てていない。誰も、助けに来た顔をしていない。
アルフォンスは、扉を乱暴に開けて廊下へ出た。
「何をした」
エリザベートは、静かに彼を見る。
「何も」
アルフォンスの眉が跳ねる。
「何もしておりません。殿下がお望みになった通り、私たちは手を貸しませんでした」
セレスティアは扇を閉じている。マルグリットは帳簿を開かない。ルクレツィアは水晶板を掲げない。エレオノーラは剣に触れない。ロザリンドは紙束を取り出さない。イリスは救護計画書を見ない。
全員が、何もしなかった。
それでも、王太子派は崩れた。
「悪役令嬢なしで回せると、おっしゃいましたので」
エリザベートは、名簿を開く。
「王太子派単独運用、失敗」
黒い手袋の指先が、紙の上をなぞる。
「敵陣営、破綻確定」
アルフォンスは、言葉を返せなかった。
その横で、女王陛下の使者が一歩前へ出る。
「エリザベート・ローゼンベルク様」
使者は、深く礼をした。
「女王陛下がお呼びです」
エリザベートは、少しだけ首を傾ける。
「謝罪ですか?」
「いいえ」
使者は、顔を上げた。
「招聘です」
廊下の空気が変わった。
王太子派だけで回るはずだった一日は、半日で崩れた。
次に開く扉は、謝罪の間ではなく、女王の執務室だった。




