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朝倉詩音の怪異録  作者: ゆるっとおやじ


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9/10

口を開く木

翌朝、俺たちは始業前に登校した。

田村先生が昇降口で待っていた。珍しく私服だった。


「先生も来るんですか」と俺は言った。

「当たり前だ」先生は山の方を見た。「今回は最初から一緒に動く。そう決めた」

朝倉が小さく笑った。俺は初めて朝倉が笑うのを見た気がした。


広斗くんは俺の隣にいた。昨日より少し表情が柔らかかった。でもお札が貼られた木の方を向くと、体が強張った。

「怖かったら、ここで待っててもいい」と俺は言った。


広斗くんは首を横に振った。

行く、という顔だった。

登山道の入り口に着いた。

朝の光の中でも、お札が貼られた木は異様だった。白い紙が幹を覆って、まるで包帯を巻いたみたいに見えた。


朝倉が和綴じの本を開いた。

「確認する。唱える言葉はここに書いてある。旧字体が多いから、昨夜読み込んできた」

「一人で唱えるのか」と俺は聞いた。

「本にはそう書いてある。でも——」朝倉は俺を見た。「桐島くんに、一つお願いがある」

「何だ」

「唱えている間、私の後ろに立っていてほしい。触れなくていい。ただ、いてほしい」

俺は頷いた。


「分かった」

先生が一歩前に出た。

「私は広斗くんと、少し離れた場所で待つ。何かあったらすぐ動く」

朝倉が木の前に立った。

俺は朝倉の真後ろに立った。朝倉の肩越しに、お札が貼られた木が見えた。


朝の風が吹いた。お札がざわめいた。

朝倉が本を構えた。

深呼吸を一つ。

読み上げが始まった。

古い言葉だった。第一シーズンの封印解除のときより、さらに古い響き。音というより、振動に近い感じがした。


最初の一節が終わった瞬間——

木が、動いた。

幹の節が、ゆっくりと開いた。

口だった。

横に裂けるように開いた、大きな口。歯はなかった。でも内側が真っ暗で、奥が見えなかった。その暗闇が、ゆっくりと広がっていった。


俺は朝倉の背中を見た。朝倉の肩が、かすかに震えていた。でも声は止まらなかった。

二節目に入った。

口がさらに開いた。

風が変わった。外から吹く風じゃなく、口の中に向かって吸い込まれる風。朝倉の髪が、木の方に引っ張られた。


俺は本能的に一歩前に出た。

朝倉の肩に手を置きそうになって——止めた。

触れてはいけない。朝倉に触れたら、朝倉が木に触れているのと同じになるかもしれない。


俺は拳を握った。

後ろに立っているだけでいい。朝倉が言った。ただ、いてほしい。

朝倉の声が続いていた。

三節目。

口が最大まで開いた。

暗闇の奥から、音がした。

低い、唸るような音。言葉じゃない。でも意味が伝わってくるような音。

よこせ よこせ よこせ

広斗くんが小さな声を上げた。


振り返ると、広斗くんが田村先生の後ろに隠れていた。先生が広斗くんの前に立って、両腕を広げていた。

「来るな」先生は静かに、でも強い声で言った。「この子には触れさせない」


口が、先生の方を向いた。

先生の顔が青ざめた。でも動かなかった。

朝倉が四節目に入った。

声が少し乱れた。吸い込まれる風が強くなって、朝倉の体が前に引っ張られていた。

「朝倉」

「大丈夫」朝倉は言った。声が震えていた。「もう少し」

俺は朝倉の真後ろで、足を踏ん張った。


風が強くなった。木の葉が全部、口の方に吸い込まれていった。地面の砂が舞い上がった。


朝倉の髪が激しく揺れた。本のページがめくれそうになった。朝倉は本を両手で押さえながら、声を続けた。

五節目。

最後の節だ。


口が震えた。怪異が抵抗しているのが分かった。唸り声が大きくなった。吸い込む力が最大になった。

朝倉の体が、一歩前に引きずられた。

俺は反射的に動いた。

朝倉の肩を掴む寸前で——止めた。

代わりに、朝倉の後ろに体を寄せた。触れない。でも、すぐそこにいる。風に負けないように、俺が壁になった。


朝倉が最後の一行を読み上げた。

静寂が来た。

口が、閉じた。


ゆっくりと、節が元に戻って、木の幹に溶け込んだ。

吸い込む風が止まった。

朝倉が本を下ろした。肩で息をしていた。俺も気づいたら息を止めていた。


お札が、一枚ずつ、風もないのに木から剥がれていった。地面に落ちて、白い光を放って——消えた。

木が、普通の木に戻った。

ただの、山の木だった。

朝倉がその場に座り込んだ。

俺はしゃがんで、朝倉の顔を覗き込んだ。

「大丈夫か」

「大丈夫」朝倉は息を整えながら言った。「ちょっと、足が震えてる」

「怖かっただろ」

「怖かった」朝倉は素直に言った。「あの口、本当に飲み込もうとしてた」

「お前が止めた」

「私たちが止めた」朝倉は俺を見た。「後ろにいてくれたから、できた」


俺は何も言えなかった。

田村先生が広斗くんを連れて近づいてきた。

「終わったか」

「終わりました」朝倉は立ち上がろうとした。足がふらついた。俺は手を差し伸べた。朝倉は一瞬躊躇してから、その手を掴んだ。


登山道の入り口が、開いた。

お札も怪異も消えて、ただの山道が続いていた。

広斗くんが、道の奥を見た。

それから俺を見た。朝倉を見た。先生を見た。


床に書くものがないから、広斗くんは空中に指で書いた。

俺は目を凝らして読んだ。

ありがとう

「どういたしまして」と朝倉が言った。

 広斗くんは山道を見た。

「行けるか?」と俺は聞いた。

 広斗くんは頷いた。でも動かなかった。

「怖い?」

首を横に振った。


じゃあ、なぜ、と思った瞬間——広斗くんが俺の手を握った。

冷たかった。でも確かに、握られた感触があった。


それから朝倉の手も握った。

三人で、山道の入り口に立った。

その瞬間、山の奥から光が来た。

白い光。温かい光。

光の中に、人影が見えた。

白い着物の男だった。


背が高くて、顔が見えなかった。でも光の中に立って、広斗くんに向かって手を差し伸べていた。

「あの人が、守ってくれてた人だな」と俺は言った。

広斗くんが頷いた。

「行っていいんだぞ」

広斗くんは俺の手を離した。朝倉の手も離した。


一歩、踏み出した。

二歩、三歩。

白い光に向かって、走り出した。ランドセルが揺れた。


白い着物の男が、広斗くんを受け止めた。

二つの光が重なって——

消えた。


山が、静かになった。

鳥の声がした。風が吹いた。普通の、秋の始まりの山だった。


田村先生が、山道を見ながら言った。

「……よかった」

その声が、かすれていた。

午後、田村先生が警察に連絡した。

山の中を捜索した結果、その日の夕方に広斗くんの体が見つかった。山道を外れた、木の根元だった。


ニュースで流れた。

行方不明の南広斗くん、遺体で発見。死因は調査中

俺はニュースを見ながら、広斗くんが笑って走っていく姿を思い出した。


帰れた。ちゃんと、帰れた。

翌日、朝倉が図書室で待っていた。

俺が席に着くと、朝倉は開いていたノートを閉じた。


「白い着物の男のこと、調べた」

「分かったのか」

「たぶん」朝倉はノートの表紙を指でなぞった。

「瀬戸家の最後の当主、昭和の初めに亡くなったって話、覚えてる?」

「ああ」

「名前が残ってた。瀬戸 白哉」

しろや

「白い、という字が入ってる」

「そう」朝倉は俺を見た。「白哉さんが、ずっとこの土地を守り続けてたんだと思う。神社が廃れても、誰も管理しなくなっても——一人で」


俺は山の方を見た。窓から、裏山の稜線が見えた。

「剣を返したことで、白哉さんも力を取り戻したんだな」

「そう思う。広斗くんを助けられたのも、その力があったから」朝倉は窓の外を見た。「でも——白哉さんが一人で守れる範囲には、限界がある」

「まだ何か出るということか」

「この土地には、まだ帰れない者がいるかもしれない」朝倉はノートを開いた。新しいページに、白哉という名前が書いてあった。「それと——白哉さん自身も、まだ帰れていない」

俺は朝倉を見た。


「白哉さんを、帰してあげないといけないのか」

「それが——」朝倉は静かに言った。「第二シーズンの、本当のテーマだと思う」

図書室の窓から、秋の空が見えた。

青くて、高くて、どこまでも続いていた。

その空の向こうに——白哉さんが、まだいるのかもしれない。

                  

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