三階にいる
三階に上がった。
俺と朝倉、二人で。始業式の朝、他の生徒がまだ教室に向かっている時間を使った。
三階は特別教室が並ぶ廊下だ。美術室、理科室、家庭科室。普段は授業以外で生徒が来ることは少ない。
廊下に出た瞬間、空気が変わった。
一階や二階と違う。重くて、湿っていて、どこか時間が止まっているみたいな感覚。
「いる」と朝倉が小声で言った。
「どこだ」
「奥」
廊下の突き当たり、一番端の教室。普段は鍵がかかっているはずの、旧理科準備室だ。
扉の前に立った。
すりガラスの向こうに、人影が見えた。
小さい。確かに小さい。立ったまま、動いていない。
俺は扉に手をかけた。鍵がかかっているはずなのに、すんなりと開いた。
中に入った。
誰もいなかった。
古い理科の器具が棚に並んで、埃が積もっていた。窓から朝の光が差し込んでいた。人が入った気配はない。
「消えた」と俺は言った。
「消えてない」朝倉は部屋の隅を見た。「隠れてる」
俺には何も見えなかった。でも朝倉は棚の陰に向かって歩いた。
棚の前にしゃがんで、静かに言った。
「怖くないよ」
沈黙が続いた。
それから——棚の陰から、小さな手が出てきた。
男の子だった。
写真で見た顔と同じだった。丸い顔に、短い髪。でも写真と違って、笑っていなかった。目が大きく開いて、俺たちを交互に見ていた。
ランドセルを背負っていた。黄色いランドセル。
「広斗くん?」と朝倉が聞いた。
男の子は答えなかった。でも小さく頷いた。
「怖かったね」朝倉は穏やかな声で言った。「ずっと、ここにいたの?」
広斗くんは首を横に振った。
「どこにいたの」
広斗くんは窓の方を向いた。それから、外を指差した。
裏山の方角だった。
朝倉が広斗くんに話しかけ続けた。
俺は少し離れて、二人を見ていた。朝倉は不思議だと思った。幽霊の子どもに対して、怖がる様子が全くない。まるで迷子の子を見つけた人みたいに、自然に接していた。
広斗くんは少しずつ、朝倉に近づいた。
最終的には、朝倉の隣に座った。棚に背中をつけて、二人並んで床に座った。
「山で、何かに会ったの?」と朝倉が聞いた。
広斗くんが頷いた。
「何に会ったか、教えられる?」
広斗くんは少し考えてから、床に指で何かを書いた。
俺は身を乗り出して見た。
ひらがなで、一文字ずつ。
お と こ の ひ と
「男の人に会ったの?」
広斗くんが頷いた。
「どんな人だった?」
また床に書いた。
し ろ い き も の
白い着物の男。
朝倉が俺を見た。俺も朝倉を見た。
瀬戸神社に関係する何かだ、と二人同時に思った。
「その人に、何かされたの?」と朝倉が続けた。
広斗くんは首を横に振った。
「何か、言われた?」
頷いた。
「何て言われたか、書ける?」
広斗くんはゆっくりと床に書いた。
* こ こ に い な さ い で な い と あ ぶ な い *
俺は息を呑んだ。
「ここにいなさい、危ない——閉じ込められたのか」
「違う」朝倉は静かに言った。「守られてたんだと思う」
「守られてた?」
「山で何かに出会って、危ない場所に迷い込んだ。それを、白い着物の男の人が見つけて——この学校に連れてきた。ここにいれば安全だから」朝倉は広斗くんを見た。「合ってる?」
広斗くんが、大きく頷いた。
始業式のホームルームが終わった頃、俺たちは旧理科準備室を出た。
広斗くんはついてきた。俺の少し後ろを、ちょこちょこと歩いた。
階段を下りながら、朝倉が小声で言った。
「白い着物の男、心当たりある?」
「ない。でも——」俺は考えた。「瀬戸家に関係する誰かだと思う。剣を返してから出てきた何かなら」
「守護的な存在、かもしれない」朝倉はノートにメモしながら歩いた。「神社の力が戻ったことで、守護する力も戻った。その力が広斗くんを助けた」
「でも広斗くんはまだ帰れていない」
「それは別の問題があるから」朝倉はペンを止めた。「広斗くんが山で出会った危ないもの。それがまだいる」
田村先生に報告した。
先生は広斗くんを見て、目を細めた。先生には見えているようだった。第一シーズンで封印が解けて、先生の感覚も戻ったのかもしれない。
「山で何かに出会った、か」先生はしばらく考えた。「夏休み中に、裏山で変なことがあった」
「何があったんですか」
「登山道の入り口に、お札が大量に貼られているのを坂本さんが見つけた。誰が貼ったか分からない。剥がそうとしたら——坂本さんの手が痺れて、触れなかったらしい」
「今もあるんですか」
「あると思う。誰も近づいていないから」
俺は朝倉を見た。
「見に行こう」
「放課後に」朝倉は頷いた。それから広斗くんを見た。「広斗くんも、一緒に来られる?」
広斗くんは少し躊躇してから、頷いた。
放課後、三人と一人で裏山に向かった。
登山道の入り口は、校庭の端にある。普段は誰も気にしない場所だ。
近づいた瞬間、分かった。
木の幹に、白いお札が何枚も貼ってあった。一枚や二枚じゃない。入り口の木という木、全部に。びっしりと。
「これは——」朝倉がお札を見た。「封じてる。山の中の何かを、外に出さないように」
「白い着物の男がやったのか」
「か、もっと別の誰かが」朝倉は一枚のお札をよく見た。「文字が——瀬戸家の家紋と同じ文様が入ってる」
俺は広斗くんを見た。
広斗くんはお札を見て、顔色が変わっていた。小さな体が、微かに震えていた。
「山の中に、まだいるのか」と俺は聞いた。
広斗くんが頷いた。
「白い着物の人が、これを貼って閉じ込めたんだな」
また頷いた。
「でも広斗くんは外に出られた」
今度は頷かなかった。
代わりに、自分の胸を指差した。
それから空を指差した。
「外に出たんじゃなくて——」朝倉が静かに言った。「広斗くんは、もうここにいないから」
俺は息を呑んだ。
「広斗くんは死んでいる、ということか」
朝倉は答えなかった。でも広斗くんが、静かに頷いた。
沈黙が続いた。
蝉の声が遠かった。
俺は広斗くんを見た。九歳の男の子。笑顔の写真。ランドセルを背負ったまま、死んでいた。
「山の中で、何に会ったんだ」と俺は静かに聞いた。
広斗くんは少し考えてから、お札が貼られた木を指差した。
それから、地面に書いた。
* お お き な く ち *
「大きな口——」
* き の な か に い る *
木の中に、大きな口がいる。
俺はお札が貼られた木を見た。
よく見ると、木の幹の節が——口の形に見えた。
朝倉がノートに書き込みながら言った。
「木に宿る怪異。口を持つもの。飲み込む性質がある」朝倉はペンを置いた。「古い話に出てくる類のものだ。山の木に宿って、近づいた者を飲み込む。子どもが特に狙われやすい」
「白い着物の男が封じたんだな」
「でも完全じゃない。広斗くんが犠牲になってしまった」朝倉は広斗くんを見た。「ごめんね」
広斗くんは首を横に振った。
「広斗くんを帰すには、この怪異を完全に封じないといけない」俺は言った。「それと——広斗くんの体が、まだ山の中にある可能性がある」
「そうだね」朝倉は山の方を見た。「ご両親が、まだ探してる」
田村先生に全部話した。
先生は長い沈黙の後、立ち上がった。
「警察に連絡しないといけない。広斗くんの体の場所が分かれば——」
「まず怪異を封じないと、誰も山に入れない」と俺は言った。
「封じ方は分かるのか」
朝倉が和綴じの本を出した。
「調べます。一晩あれば」
先生は朝倉と俺を見て、それから広斗くんを見た。
先生には見えていた。九歳の男の子が、黄色いランドセルを背負って立っているのが。
「……急いでくれ」先生は静かに言った。「あの子を、早く家に帰してあげないといけない」
その夜、俺と朝倉はメッセージでやり取りしながら、和綴じの本を読み込んだ。
日付が変わる頃、朝倉からメッセージが来た。
見つけた。木に宿る怪異の封じ方
どうするんだ
声を使う。特定の言葉を、怪異が宿る木に向かって唱える。でも——
でも?
唱えている間、怪異が反応する。口を開けて、引き込もうとする。唱え終わるまで、絶対に木に触れてはいけない
触れたら?
返信が少し遅かった。
飲み込まれる
俺はスマホを置いた。
窓の外に、夜の裏山が見えた。暗くて、静かで、その中に何かがいる。
広斗くんを、帰してやらないといけない。
俺はもう一度スマホを持った。
明日、やろう
すぐに返信が来た。
うん
それから一呼吸置いて、もう一行来た。
一緒に行くから、怖くない
俺は少し笑った。
朝倉らしくない言葉だと思った。でも、それが一番効いた。




