表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
朝倉詩音の怪異録  作者: ゆるっとおやじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/11

三階にいる

三階に上がった。

俺と朝倉、二人で。始業式の朝、他の生徒がまだ教室に向かっている時間を使った。

三階は特別教室が並ぶ廊下だ。美術室、理科室、家庭科室。普段は授業以外で生徒が来ることは少ない。


廊下に出た瞬間、空気が変わった。

一階や二階と違う。重くて、湿っていて、どこか時間が止まっているみたいな感覚。

「いる」と朝倉が小声で言った。

「どこだ」

「奥」

廊下の突き当たり、一番端の教室。普段は鍵がかかっているはずの、旧理科準備室だ。


扉の前に立った。

すりガラスの向こうに、人影が見えた。

小さい。確かに小さい。立ったまま、動いていない。


俺は扉に手をかけた。鍵がかかっているはずなのに、すんなりと開いた。

中に入った。

誰もいなかった。


古い理科の器具が棚に並んで、埃が積もっていた。窓から朝の光が差し込んでいた。人が入った気配はない。

「消えた」と俺は言った。

「消えてない」朝倉は部屋の隅を見た。「隠れてる」

俺には何も見えなかった。でも朝倉は棚の陰に向かって歩いた。


棚の前にしゃがんで、静かに言った。

「怖くないよ」

沈黙が続いた。

それから——棚の陰から、小さな手が出てきた。


男の子だった。

写真で見た顔と同じだった。丸い顔に、短い髪。でも写真と違って、笑っていなかった。目が大きく開いて、俺たちを交互に見ていた。


ランドセルを背負っていた。黄色いランドセル。

「広斗くん?」と朝倉が聞いた。

男の子は答えなかった。でも小さく頷いた。

「怖かったね」朝倉は穏やかな声で言った。「ずっと、ここにいたの?」

広斗くんは首を横に振った。

「どこにいたの」

広斗くんは窓の方を向いた。それから、外を指差した。

裏山の方角だった。


朝倉が広斗くんに話しかけ続けた。

俺は少し離れて、二人を見ていた。朝倉は不思議だと思った。幽霊の子どもに対して、怖がる様子が全くない。まるで迷子の子を見つけた人みたいに、自然に接していた。


広斗くんは少しずつ、朝倉に近づいた。

最終的には、朝倉の隣に座った。棚に背中をつけて、二人並んで床に座った。

「山で、何かに会ったの?」と朝倉が聞いた。


広斗くんが頷いた。

「何に会ったか、教えられる?」

広斗くんは少し考えてから、床に指で何かを書いた。


俺は身を乗り出して見た。

ひらがなで、一文字ずつ。


お と こ の ひ と


「男の人に会ったの?」

広斗くんが頷いた。

「どんな人だった?」

また床に書いた。


し ろ い き も の


白い着物の男。

朝倉が俺を見た。俺も朝倉を見た。

瀬戸神社に関係する何かだ、と二人同時に思った。

「その人に、何かされたの?」と朝倉が続けた。


広斗くんは首を横に振った。

「何か、言われた?」

頷いた。

「何て言われたか、書ける?」

広斗くんはゆっくりと床に書いた。


* こ こ に い な さ い  で な い と  あ ぶ な い *


俺は息を呑んだ。

「ここにいなさい、危ない——閉じ込められたのか」

「違う」朝倉は静かに言った。「守られてたんだと思う」

「守られてた?」

「山で何かに出会って、危ない場所に迷い込んだ。それを、白い着物の男の人が見つけて——この学校に連れてきた。ここにいれば安全だから」朝倉は広斗くんを見た。「合ってる?」


広斗くんが、大きく頷いた。

始業式のホームルームが終わった頃、俺たちは旧理科準備室を出た。

広斗くんはついてきた。俺の少し後ろを、ちょこちょこと歩いた。


階段を下りながら、朝倉が小声で言った。

「白い着物の男、心当たりある?」

「ない。でも——」俺は考えた。「瀬戸家に関係する誰かだと思う。剣を返してから出てきた何かなら」

「守護的な存在、かもしれない」朝倉はノートにメモしながら歩いた。「神社の力が戻ったことで、守護する力も戻った。その力が広斗くんを助けた」

「でも広斗くんはまだ帰れていない」

「それは別の問題があるから」朝倉はペンを止めた。「広斗くんが山で出会った危ないもの。それがまだいる」


田村先生に報告した。

先生は広斗くんを見て、目を細めた。先生には見えているようだった。第一シーズンで封印が解けて、先生の感覚も戻ったのかもしれない。


「山で何かに出会った、か」先生はしばらく考えた。「夏休み中に、裏山で変なことがあった」

「何があったんですか」

「登山道の入り口に、お札が大量に貼られているのを坂本さんが見つけた。誰が貼ったか分からない。剥がそうとしたら——坂本さんの手が痺れて、触れなかったらしい」

「今もあるんですか」

「あると思う。誰も近づいていないから」

俺は朝倉を見た。


「見に行こう」

「放課後に」朝倉は頷いた。それから広斗くんを見た。「広斗くんも、一緒に来られる?」


広斗くんは少し躊躇してから、頷いた。

放課後、三人と一人で裏山に向かった。

登山道の入り口は、校庭の端にある。普段は誰も気にしない場所だ。


近づいた瞬間、分かった。

木の幹に、白いお札が何枚も貼ってあった。一枚や二枚じゃない。入り口の木という木、全部に。びっしりと。

「これは——」朝倉がお札を見た。「封じてる。山の中の何かを、外に出さないように」

「白い着物の男がやったのか」

「か、もっと別の誰かが」朝倉は一枚のお札をよく見た。「文字が——瀬戸家の家紋と同じ文様が入ってる」


俺は広斗くんを見た。

広斗くんはお札を見て、顔色が変わっていた。小さな体が、微かに震えていた。

「山の中に、まだいるのか」と俺は聞いた。

広斗くんが頷いた。

「白い着物の人が、これを貼って閉じ込めたんだな」

また頷いた。


「でも広斗くんは外に出られた」

今度は頷かなかった。

代わりに、自分の胸を指差した。

それから空を指差した。

「外に出たんじゃなくて——」朝倉が静かに言った。「広斗くんは、もうここにいないから」


俺は息を呑んだ。

「広斗くんは死んでいる、ということか」

朝倉は答えなかった。でも広斗くんが、静かに頷いた。


沈黙が続いた。

蝉の声が遠かった。

俺は広斗くんを見た。九歳の男の子。笑顔の写真。ランドセルを背負ったまま、死んでいた。

「山の中で、何に会ったんだ」と俺は静かに聞いた。


広斗くんは少し考えてから、お札が貼られた木を指差した。

それから、地面に書いた。


* お お き な く ち *


「大きな口——」


* き の な か に い る *


木の中に、大きな口がいる。

俺はお札が貼られた木を見た。

よく見ると、木の幹の節が——口の形に見えた。

 

朝倉がノートに書き込みながら言った。

「木に宿る怪異。口を持つもの。飲み込む性質がある」朝倉はペンを置いた。「古い話に出てくる類のものだ。山の木に宿って、近づいた者を飲み込む。子どもが特に狙われやすい」

「白い着物の男が封じたんだな」

「でも完全じゃない。広斗くんが犠牲になってしまった」朝倉は広斗くんを見た。「ごめんね」


広斗くんは首を横に振った。

「広斗くんを帰すには、この怪異を完全に封じないといけない」俺は言った。「それと——広斗くんの体が、まだ山の中にある可能性がある」

「そうだね」朝倉は山の方を見た。「ご両親が、まだ探してる」

田村先生に全部話した。


先生は長い沈黙の後、立ち上がった。

「警察に連絡しないといけない。広斗くんの体の場所が分かれば——」

「まず怪異を封じないと、誰も山に入れない」と俺は言った。


「封じ方は分かるのか」

朝倉が和綴じの本を出した。

「調べます。一晩あれば」

先生は朝倉と俺を見て、それから広斗くんを見た。

先生には見えていた。九歳の男の子が、黄色いランドセルを背負って立っているのが。

「……急いでくれ」先生は静かに言った。「あの子を、早く家に帰してあげないといけない」


その夜、俺と朝倉はメッセージでやり取りしながら、和綴じの本を読み込んだ。

日付が変わる頃、朝倉からメッセージが来た。


見つけた。木に宿る怪異の封じ方

どうするんだ

声を使う。特定の言葉を、怪異が宿る木に向かって唱える。でも——

でも?

唱えている間、怪異が反応する。口を開けて、引き込もうとする。唱え終わるまで、絶対に木に触れてはいけない

触れたら?


返信が少し遅かった。

飲み込まれる

俺はスマホを置いた。

窓の外に、夜の裏山が見えた。暗くて、静かで、その中に何かがいる。


広斗くんを、帰してやらないといけない。

俺はもう一度スマホを持った。

明日、やろう

すぐに返信が来た。

うん


それから一呼吸置いて、もう一行来た。

一緒に行くから、怖くない

俺は少し笑った。

朝倉らしくない言葉だと思った。でも、それが一番効いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ