百年待っていた
十月に入った。
校庭の木が少しずつ色づいて、朝の空気が冷たくなった。怪異は静かだった。広斗くんが帰ってから、学校の空気が少し軽くなった気がした。
でも俺は知っていた。
終わっていない。
朝倉は白哉のことを調べ続けていた。
昼休みも、放課後も、図書室で資料を広げていた。俺も手伝った。二人で古い記録を読み漁った。
分かってきたことがあった。
瀬戸白哉は明治三十二年生まれ。瀬戸家の最後の当主として、神社を守り続けた。昭和七年、三十三歳で亡くなっている。死因の記録はなかった。
「三十三歳か」と俺は言った。「若いな」
「若い」朝倉はノートにペンを走らせた。「しかも死因が不明。当時の記録には、ある日突然倒れたとだけ書いてある」
「病気じゃないのか」
「病気なら死因が残る。残っていないということは——」朝倉は手を止めた。「誰かが意図的に消したか、普通の死に方じゃなかったか」
俺は白哉という名前を見た。
「白哉さんが死んだ後、瀬戸神社は急速に廃れている」朝倉は別のページを開いた。「氏子が離れて、建物が朽ちて、十年もしないうちに誰も近づかなくなった」
「白哉さんがいなくなったから」
「そう。白哉さんが一人で支えていた。でも——」朝倉はペンを置いた。「なぜ白哉さんは死んだ後も、神社に残ったんだろう」
俺は考えた。
「帰れなかったのか、帰らなかったのか」
朝倉は静かに言った。
「その違いが、重要だと思う」
翌週の水曜日、放課後に朝倉から呼び出された。
図書室じゃなかった。校庭の端、裏山の入り口の前だった。
「何かあったのか」
「白哉さんに、会えるかもしれない」朝倉は山の方を見ていた。「昨日の夜、夢を見た」
「夢?」
「白い着物の男が出てきた。顔は見えなかった。でも声が聞こえた」朝倉は俺を見た。「『山に来い』って」
俺は山を見た。秋の午後、木々が赤と黄色に染まっていた。
「夢の中の声を信じるのか」
「信じる」朝倉は迷いなく言った。「あの声は、白哉さんだった。確信がある」
「根拠は」
「ない。でも——」朝倉は少し考えた。「朝起きたとき、ノートに字が書いてあった。自分で書いた覚えがない字が」
朝倉がノートを開いた。
最後のページに、細い筆跡で書いてあった。
秋の山、夕暮れどきに
田村先生に話すと、先生は一緒に来ると言った。
四人で山道を登った。
秋の裏山は静かだった。落ち葉が積もって、足音が柔らかかった。木漏れ日が斜めに差し込んで、金色に光っていた。
瀬戸神社に近づくにつれて、空気が変わった。
重くなるんじゃなかった。反対に——澄んでいく感じがした。
「浄化されてる」と朝倉が言った。「剣を返してから、神社の力が本当に戻ってきてる」
境内に入った。
苔むした鳥居も、朽ちかけた社も同じだった。でも何かが違った。
台座の上に、剣が収まっている。鏡もある。鶴形の飾りもある。三つの御神体が揃っていた。
その前に、人が立っていた。
白い着物だった。
背が高くて、長い袖が風に揺れていた。
今日は顔が見えた。
三十代くらいの男性。細面で、目が静かだった。笑ってもなく、怒ってもなく、ただ穏やかに俺たちを見ていた。
田村先生が息を呑んだ。
「白哉さん——」
男は静かに頷いた。
「先生、知ってたんですか」と朝倉が聞いた。
「顔は——初めて見る。でも」先生は白哉を見た。「この感じは、ずっと近くにいた。気づいていなかっただけで」
白哉は口を開いた。
声は低くて、静かだった。でも空気に溶け込むように、はっきり聞こえた。
「来てくれた」
「来ました」朝倉が一歩前に出た。「白哉さんですね」
「そうだ」
「なぜ、ここに残ったんですか」
白哉は少し間を置いた。
「残らなければならなかった」
「なぜ」
「終わっていないから」白哉は台座を見た。「神社の仕事が、まだ終わっていない。私が死んだとき、この土地にはまだ帰れない者たちがいた。送り届けないまま、逝くわけにはいかなかった」
「だからずっと——」俺は言った。
「一人で、守り続けてたのか」
「守れていたかどうかは分からない。田村家が剣を持ち出してから、私の力は半分になっていた。できることに限界があった」白哉は俺を見た。「それでも、やれることをやるしかなかった」
「どうして死んだんですか」と朝倉が聞いた。
白哉は静かに答えた。
「田村家の先祖が剣を持ち出した夜、神社の力が大きく乱れた。その乱れを抑えようとして——私の体が、もたなかった」
「白哉さんが死んだのは、田村家のせいだったんですか」
白哉は首を横に振った。
「恨んでいない。あの男も、理由があってやったことだ。間違った方法だったが、神社を守ろうとしていた」
田村先生が一歩前に出た。
「田村家の末裔として——申し訳なかった」
白哉は先生を見た。
「あなたは剣を返してくれた。それで十分だ」
先生の目が、潤んだ。
「白哉さんを、帰してあげたい」と朝倉が言った。「でも何が必要か分からない。教えてほしい」
白哉はゆっくりと朝倉を見た。
「朝倉の家の者か」
「傍系ですが」
「そうか」白哉は少し目を細めた。「朝倉家には、昔から霊を見る力があった。あなたが調べ続けてくれたのは——血がそうさせたのかもしれない」
朝倉は何も言わなかった。でも視線を落とした。
「帰るために、必要なことは一つだ」白哉は台座を見た。「この神社を、正式に閉じること」
「閉じる?」俺は聞いた。
「廃社になっても、神社としての形が残っている限り、私はここを離れられない。正式な手順で神社を閉じれば——私の役目も、終わる」
「正式な手順って、どうやるんですか」と朝倉が聞いた。
「神主が必要だ。儀式を執り行える者が」
四人で顔を見合わせた。
神主なんて、どこにいる。
白哉が続けた。
「一人、心当たりがある」
「誰ですか」
「桐島家の者だ」白哉は俺を見た。「桐島、あなたの父親は——神道の作法を学んだことがあるはずだ」
俺は固まった。
「父が?」
「桐島家は代々、神社の儀式を補佐してきた。作法は伝わっているはずだ」白哉は静かに言った。「あなたの父親に、頼んでもらえないか」
山を下りながら、俺はスマホを握っていた。
父に電話する。また。
でも今回は違う。今回は全部話す。白哉さんのことも、神社を閉じる儀式のことも。
朝倉が隣を歩きながら言った。
「お父さん、来てくれると思う?」
「分からない」俺は正直に言った。「でも——頼むしかない」
「そうだね」
しばらく黙って歩いた。落ち葉が足の下で鳴った。
朝倉がぽつりと言った。
「白哉さん、かっこよかったね」
俺は朝倉を見た。
「お前、そういうこと言うんだな」
「たまには言う」朝倉は前を向いたまま言った。「百年、一人で守り続けたんだよ。かっこよくない?」
「かっこいいな」
「桐島くんも——」朝倉は少し間を置いた。「似てると思う」
「俺が?」
「関係ないのに、関わり続けてる。それって似てると思う」
俺は何も言えなかった。
朝倉の耳が、また赤かった。
校舎に戻った夕方、俺は父に電話した。
三コール目で出た。
「湊か」
「話がある。全部話す。聞いてほしい」
電話の向こうで、父が少し沈黙した。
「……聞く」
俺は話し始めた。第一シーズンから全部。鶴のことも、鏡のことも、広斗くんのことも、白哉さんのことも。
父は一度も遮らなかった。
全部話し終えると、父は長い沈黙の後に言った。
「白哉さんが、まだいるのか」
「います。俺、会いました」
「そうか」
また沈黙。
「父さん、儀式ができるのか」
「……祖父に教わった。でも、もう何十年もやっていない」
「やれるか」
父は深く息を吸った。
「いつ来ればいい」
電話を切った。
校舎の外はすっかり暗くなっていた。
朝倉にメッセージを送った。
父が来る
返信はすぐだった。
よかった
それから少し間があって、もう一行来た。
白哉さんに、伝えておく。もう少しだけ待っててって
俺は空を見上げた。
星が出ていた。
百年待った人に、もう少しだけ、と言う朝倉が——俺には少しおかしくて、でもそれが朝倉らしかった。




