父が来た
父が来たのは、土曜日の朝だった。
祖母の家の玄関に、スーツじゃなく地味な和装で現れた。俺は少し驚いた。父が和装をしているのを、生まれて一度も見たことがなかった。
「似合わないか」父は照れくさそうに言った。
「似合ってる」俺は正直に答えた。
父は小さな風呂敷包みを持っていた。中に何が入っているか、聞かなかった。聞かなくても分かる気がした。
「案内してくれ」
「ああ」
学校に着くと、朝倉と田村先生が校門の前で待っていた。
父は朝倉を見て、少し目を細めた。
「朝倉家の子か」
「はい」朝倉は静かに頭を下げた。「初めまして」
「こちらこそ」父も頭を下げた。「湊がお世話になっている」
「お世話というか——」朝倉は少し考えた。「一緒にやってます」
父は小さく笑った。俺は父が笑うのを久しぶりに見た気がした。
田村先生が一歩前に出た。
「田村です。桐島くんの担任を——」
「田村家の方ですね」父は先生を見た。穏やかな目だったけど、何かを確かめるような目でもあった。
「はい。田村家が白哉さんに——申し訳なかった」
「白哉さんは恨んでいないとおっしゃっていた」父は言った。「でも、私からも一つお願いがある」
「何でしょう」
「今日の儀式、一緒に立ち会っていただきたい。田村家として、最後まで」
先生は深く頷いた。
「もちろんです」
四人で山を登った。
父は無言だった。でも歩き方が違った。いつもの父じゃなかった。背筋が伸びて、足取りが静かだった。
山道の途中で、父が口を開いた。
「湊、一つ謝らないといけない」
「何を」
「お前をここに転校させたこと。黙っていたこと」父は歩きながら言った。「怖かったんだ。お前が怪異に関わることが」
「でも転校させた」
「桐島家の責任が、ずっと頭にあった。でも自分には力がなかった。だからお前に——」父は足を止めた。「お前を使ったのは、事実だ。それは謝る」
俺は父の横顔を見た。
「謝らなくていい」
「湊——」
「俺は、ここに来てよかったと思ってる」俺は正直に言った。「橘さんを帰せた。広斗くんを帰せた。白哉さんに会えた。全部、ここに来なければ起きなかった」
父はしばらく黙っていた。
「……そうか」
「ただ一つだけ言わせてくれ」
「何だ」
「次からは、最初から話してくれ」
父は小さく頷いた。
「約束する」
瀬戸神社に着いた。
白哉は台座の前にいた。
父を見た瞬間、白哉の目が変わった。懐かしむような、安堵するような目だった。
「桐島家の者が来てくれたか」
父は白哉の前に立って、深く頭を下げた。
「遅くなりました」
「いや」白哉は静かに言った。「来てくれた。それで十分だ」
父は顔を上げた。白哉をまっすぐ見た。
「儀式の前に、一つ確認させてください。白哉さんは——本当に帰りたいと思っていますか」
境内が静かになった。
白哉は少し間を置いた。
「帰りたい、という気持ちが正直なところだ」白哉は台座を見た。「でも、この土地が心配でもある。私がいなくなった後、誰が守るのか」
「それは——」父は俺たちを見た。「この子たちが、いる」
白哉が俺たちを見た。
俺は頷いた。朝倉も頷いた。先生も頷いた。
「私たちが続けます」と朝倉が言った。「白哉さんがやってきたことを」
白哉はしばらく俺たちを見ていた。
それから、静かに微笑んだ。
「……頼む」
父が風呂敷包みを開いた。
中に入っていたのは、古い木箱だった。桐島家の記録が入っていた箱とは別の、もっと小さな箱。
「これは?」と俺は聞いた。
「桐島家に代々伝わる、儀式道具だ」父は箱を開けた。「祖父から父へ、父から私へ。使われることなく、ただ受け継がれてきた」
中に入っていたのは、白い紙と、細い筆と、小さな砂が入った器だった。
「儀式は単純だ」父は言った。「神社を閉じる宣言を書いて、御神体の前で読み上げ、砂を撒く。それだけだ」
「それだけで、いいんですか」と朝倉が聞いた。
「形より、心だ」父は白い紙を広げた。「この土地への感謝と、送り出す気持ちがあれば——届く」
父が筆を取った。
宣言文を書き始めた。
境内が静かになった。風が止まって、木々が動かなくなった。まるで山全体が、息を止めて見ているみたいだった。
父の筆が動く音だけが聞こえた。
俺は白哉を見た。白哉は目を閉じて、台座の前に立っていた。百年待った人間の顔だった。穏やかで、静かで、もう怖いものが何もないような顔だった。
朝倉が俺の隣に立った。
小声で言った。
「緊張する」
「俺も」
「終わったら——」朝倉は少し考えた。「何か食べに行こう」
俺は少し笑った。
「急に現実的だな」
「お腹が空いてる」
「儀式が終わったらな」
「うん」
父が書き終えた。
白い紙に、細かい文字が並んでいた。
父は台座の前に立った。
俺たちは後ろに並んだ。父の背中、白哉の横顔、御神体の三つ。全部が一列に並んだ。
父が読み上げを始めた。
声が違った。普段の父の声じゃなかった。もっと低くて、もっと静かで、山に染み込んでいくような声だった。
桐島家の血が、そうさせているんだと思った。
読み上げが続いた。
風が戻ってきた。でも今度は穏やかな風だった。落ち葉が舞い上がって、境内をゆっくりと回った。
白哉の輪郭が、少しずつ薄くなり始めた。
白哉は目を開けた。
台座を見た。御神体を見た。それから俺たちを見た。
田村先生が一歩前に出た。
「白哉さん」
白哉は先生を見た。
「田村家のことを——本当に恨んでいないんですか」先生の声が震えていた。「あなたは三十三歳で死んだ。百年、一人でここにいた。それは——」
「恨んでいない」白哉は静かに言った。「あの男も、この土地を守ろうとしていた。ただ方法が違った。それだけのことだ」
「でも——」
「田村さん」白哉は先生の目を見た。「あなたは二十年間、痣を抱えて生きてきた。それがすでに、償いだ」
先生は唇を噛んだ。
「それに」白哉は続けた。「あなたが担任でなければ、この子たちはここに来なかった。すべては繋がっている」
父が最後の一節を読み上げた。
砂の器を手に取った。
台座に向かって、砂を撒いた。
白い砂が、秋の光の中に散った。
その瞬間、光が来た。
台座から。御神体から。三つの御神体が一斉に光を放った。鶴形の飾りが、鏡が、剣が、白く輝いた。
光が境内に広がった。
白哉の体が、光に包まれた。
白哉は最後に、もう一度俺たちを見た。
一人ずつ見た。
田村先生を見た。父を見た。朝倉を見た。
俺を見た。
口が動いた。
ありがとう
声は聞こえなかった。でも確かにそう言っていた。
それから白哉は、光の中に溶けていった。
百年分の重さが、境内から消えていくのが分かった
空気が軽くなった。
山が、深く息をした。
光が収まった後、境内は静かだった。
台座の上に、三つの御神体がある。でもそこにあった気配が、変わっていた。重さがない。怖さがない。ただ、温かかった。
父が深く頭を下げた。
田村先生も頭を下げた。
朝倉も。俺も。
誰も喋らなかった。でも同じものを感じていると分かった。
百年越しの、終わり。
山を下りた。
四人で並んで歩いた。落ち葉の道が続いていた。
父が口を開いた。
「白哉さんは、いい顔をしていたな」
「そうでしたね」と先生が言った。
「百年待って、あんな顔ができるのか」父は空を見た。「私には無理だな」
「父さんには、待つ理由がないから」と俺は言った。
「そうか」父は笑った。「そうだな」
朝倉が俺の隣を歩きながら、小声で言った。
「終わったね」
「ああ」
「本当に終わった?」
「白哉さんが帰れた。神社も閉じた。たぶん——」
「たぶん?」
「また何か出るかもしれない」
朝倉は少し考えた。
「出たら、また調べる」
「ああ」
「三人で」
「四人で」俺は先生と父を見た。「今度は最初から」
朝倉は頷いた。
校舎に戻ると、父は帰る支度をした。
玄関で、父は俺に言った。
「湊、よくやった」
「父さんこそ」
「私はただ、読み上げただけだ。難しいことをやったのはお前たちだ」父は風呂敷包みを抱えた。「また来る。今度は——黙って来るんじゃなく、連絡してから来る」
「そうしてくれ」
父が歩き出した。少し行って、振り返った。
「朝倉さん」
朝倉が顔を上げた。
「湊のこと、よろしく頼む」
朝倉は一瞬固まった。
「……頼まれなくても」朝倉は静かに言った。「します」
父は満足そうに頷いて、歩いていった。
俺は父の背中を見送った。
朝倉が隣に来た。
「お父さん、いい人だね」
「そうか?」
「そう思う」朝倉は父が消えた方向を見た。「桐島くんに似てる」
「俺が父さんに似てるんだろ」
「そっちか」朝倉は少し笑った。
夕方、俺と朝倉は二人で帰った。
駅に向かう道を並んで歩いた。
「さっき、何か食べに行くって言ってたな」と俺は言った。
「言った」
「今からでもいいか」
「いい」
俺たちは駅前の小さな食堂に入った。
向かい合って座って、メニューを見た。
朝倉が言った。
「第二シーズン、終わったね」
「ああ」
「第三シーズンはあると思う?」
俺はメニューから目を上げた。
「あると思う。この学校にいる限り」
「じゃあまだまだ続くね」朝倉はメニューを置いた。「一つ聞いていい?」
「何だ」
「桐島くんは——来年も、この学校にいる?」
俺は少し考えた。
「いる予定だけど、なんで」
「確認したかっただけ」朝倉は窓の外を見た。「いなくなったら、困るから」
俺は朝倉を見た。
朝倉は窓の外を見たまま、耳だけが赤かった。
「いなくならない」と俺は言った。
「そう」
「お前がいるから」
朝倉が俺を見た。
何か言いかけて、やめた。
代わりにメニューを手に取って、顔を隠した。
「……注文する」
「ああ」
俺も笑いながらメニューを持った。
窓の外に、秋の夕暮れが広がっていた。
この学校には、まだ何かが眠っているかもしれない。
でも今夜は、それでいい。
第二シーズン完了です。
第三シーズンをお待ち下さい。




