封印を解く夜
第一シリーズ完結
田村先生の実家は、学校から車で二十分ほどの場所にあった。
古い農家造りの屋敷で、母屋の裏に蔵が一棟ある。先生は一人暮らしで、実家には誰も住んでいない。
俺たちが訪ねたのは、土曜日の夕方だった。
先生が門を開けてくれた。いつもの学校での表情と違って、どこか憔悴して見えた。
「よく来たな」
「お邪魔します」
朝倉は和綴じの本を鞄に入れて来ていた。封印の解き方は、昨日二人で何度も読み直した。
手順は分かっている。でも——
「本当にできるのか」と俺は朝倉に小声で聞いた。
「やってみないと分からない」朝倉は小声で返した。「でもやるしかない」
蔵は母屋の裏にあった。
重い木の扉に、南京錠がかかっている。先生が鍵を開けようとして、手が震えた。
「貸してください」と朝倉が言った。
朝倉が鍵を受け取って、南京錠を外した。扉を引くと、長い間閉じられていた空気が漏れ出てきた。黴と木の臭い。
先生は扉の前で止まった。
「中には入れない。痣が——」
「外で待っていてください」と俺は言った。
先生は頷いた。その顔に、申し訳なさと安堵が混じっていた。
蔵の中は薄暗かった。
スマホのライトで照らすと、古い農具や家具が積み重なっていた。奥に進むほど空気が重くなった。
朝倉が立ち止まった。
「感じる?」
「ああ」俺も感じていた。引き寄せられるような、でも同時に押し返されるような感覚。
奥の棚の一番上に、細長い木箱があった。
近づくと、木箱の周りだけ空気が違った。冷たくて、静止しているみたいに。
これだ」と朝倉が言った。
俺は手を伸ばした。触れた瞬間、手の甲が熱くなった。鶴の痣が消えた場所が、また疼いた。
「大丈夫?」と朝倉が聞いた。
「問題ない」
木箱を棚から下ろした。思ったより軽かった。でも持った瞬間、蔵全体が低く唸ったような気がした。
蔵の外に出ると、日が傾いていた。
西の空が赤く染まって、田んぼの向こうに山のシルエットが見えた。
田村先生が木箱を見て、一歩後退った。
「二十年ぶりに、日の光を浴びるんだな」先生は静かに言った。「私が、あれを外に出したのも日が暮れた後だった」
「先生が蔵から出したんですか」と俺は聞いた。
「違う。私の祖父だ。私はまだ子どもだった。でも——見ていた」先生は目を伏せた。「祖父が蔵から木箱を持ち出して、呪文のようなものを唱えた。その夜から、祖父は変わった。別の人間みたいに」
「封印したことで、何かが祖父に憑いた」
「そうだと思う。祖父は三年後に死んだ。死ぬ前に私に言った。あの箱には絶対に触れるな、と」
先生は木箱から目を離せないでいた。
「でも私は——触れてしまった。祖父が死んだ日に。中を確かめたくて」
「それで痣が」
「そうだ。二十年間、ずっと」
庭の中央に、俺たちは木箱を置いた。
朝倉が和綴じの本を開いた。封印解除の手順が書いてあるページ。
「読み上げる。桐島くんは木箱を開けて、中の剣を出して」
「分かった」
「私は——」先生が一歩前に出た。「私にも、何かできることがあるか」
朝倉は本を見た。それから先生を見た。
「先生の痣、見せてください」
先生が袖をまくった。瀬戸家の家紋の痣。二十年間消えなかった。
「封印が解けるとき、この痣が反応するはずです」朝倉は静かに言った。「痛いかもしれない。でも——それが終わりの合図です」
「構わない」先生は袖を戻した。「二十年待った。痛みくらい、なんでもない」
朝倉が本を構えた。
俺は木箱の前に膝をついた。蓋に手をかける。
「始める」と朝倉が言った。
朝倉が読み上げ始めた。
古い言葉だった。現代語じゃない。でも意味は分からなくても、音の響きに力があった。庭の木々が揺れた。風がないのに。
俺は蓋を開けた。
中には白い布に包まれた、短い剣があった。三十センチほどの長さで、鞘に収まっている。鞘の表面に、細かい文様が彫られていた。
手を伸ばした。
触れた瞬間、衝撃が来た。
電流みたいなものが手から腕へ、肩から全身に走った。俺は思わず声を出しそうになった。歯を食いしばって、堪えた。
剣を両手で持ち上げた。
その瞬間、空気が変わった。
夕暮れの赤い光が、一瞬白くなった。
庭全体が、静止したみたいになった。
朝倉の声だけが続いていた。古い言葉が、庭に、空に、溶けていくように。
田村先生が声を上げた。
先生が右手首を押さえていた。痣が激しく疼いているんだろう。でも先生は膝をつきながらも、倒れなかった。
「続けて」先生は絞り出すように言った。「続けてくれ」
朝倉の声が大きくなった。
俺は剣を持ったまま立ち上がった。
その時、剣が光った。
白い光が鞘から漏れて、文様に沿って走った。光は細くて、でも確かで。夕暮れの中で、星みたいに瞬いた。
朝倉が最後の一節を読み上げた。
静寂が来た。
完全な静寂。蝉の声も、風の音も、何もない。
三秒ほど続いて——
剣の鞘が、ゆっくりと開いた。
自然に、誰も触れていないのに。
中から光が溢れた。白くて、温かい光。庭全体を包むような光。
先生が声を上げた。
今度は痛みじゃなかった。
「消えた」先生は信じられないという顔で右手首を見ていた。「痣が——消えた」
二十年分の痣が、光の中に溶けていった。
光が収まった後、庭は静かだった。
でも空気が違った。重さがなかった。さっきまで感じていた、押し返されるような圧迫感が消えていた。
俺は剣を持ったまま、立ち尽くしていた。
朝倉が本を閉じた。
「終わった」
先生が右手首を何度も見ていた。痣があった場所は、何もない。白い肌だけがある。
「二十年だ」先生は震える声で言った。「二十年、ずっと——」
先生の目から、涙が落ちた。
俺は何も言えなかった。朝倉も黙っていた。
ただ、夕暮れの風が庭を吹き抜けた。
一時間後、俺たちは瀬戸神社への道を登っていた。
三人で、剣を持って。
先生は蔵から出て以来、ずっと無言だった。でもその沈黙は暗くなかった。二十年間抱えてきたものを、少しずつ降ろしながら歩いているみたいだった。
山道の途中で、先生が口を開いた。
「村瀬のことが、ずっと引っかかっていた」
「二十年前に消えた生徒ですね」と朝倉が言った。
「あの子を助けられなかった。担任として、何もできなかった」先生は足元を見ながら歩いた。「橘のときも同じだ。二人とも、私が守れなかった」
「先生は封じられていた」と俺は言った。「動けなかったのは先生のせいじゃない」
「そうかもしれない。でも——」先生は立ち止まった。「それでも、私の生徒だった」
俺は何も言えなかった。
朝倉がゆっくり言った。
「村瀬くんも、きっとまだいます。この神社に」
先生が朝倉を見た。
「剣が戻れば、神社の力が完全に戻る。そうしたら——帰れなかった全員が、ちゃんと送られる」先生の目を見て、朝倉は続けた。
「村瀬くんも、橘さんも」
先生はしばらく動かなかった。
それから、また歩き始めた。
「……急ごう」
瀬戸神社に着いたのは、完全に日が落ちた後だった。
スマホのライトで照らした境内は、いつもより違って見えた。苔むした鳥居も、朽ちかけた社も、同じはずなのに——何かが変わっていた。
待っている、と感じた。
台座の前に立った。
鶴を返したとき、鏡を返したとき、亀を返したとき。いつもこの台座に置いてきた。でも今回は違う。剣は御神体の核だ。
「置けばいいのか」と俺は朝倉に聞いた。
「本にはそう書いてあった」朝倉は台座を見た。「でも——なんか、違う気がする」
「違う?」
「剣は核だから。置くだけじゃなくて、ちゃんと納めないといけない気がする」
先生が前に出た。
「私がやる」
俺たちは先生を見た。
「田村家がここから奪った。田村家の人間が返すべきだ」先生は俺から剣を受け取った。「それが筋というものだろう」
先生は台座の前に膝をついた。
両手で剣を持ち、頭を下げた。
「長い間、失礼をした」先生は静かに言った。「遅くなって、申し訳なかった」
それだけだった。飾りのない、ただの謝罪だった。
先生が剣を台座に置いた。
何かが、変わった。
音ではなかった。光でもなかった。
ただ、空気が——深呼吸したみたいになった。
境内全体が、息を吸って、それから静かに吐いた。
苔むした鳥居の向こうに、光が見えた。
小さな光が、一つ。また一つ。
蛍だ、と最初思った。でも違った。光は人の形をしていた。小さいもの、大きいもの、いくつもの光が境内に集まってきた。
俺には顔まで見えなかった。でも一つだけ、はっきりと見えた光があった。
男の子の光。高校生くらいの。
その光が、田村先生の前で止まった。
先生が息を呑んだ。
「村瀬……」
光が揺れた。ゆっくりと、頷くように。
先生が手を伸ばした。触れる前に、光は温かく揺らめいて——
消えた。
全ての光が、一つずつ、消えていった。
最後に一つだけ残った光が、俺の方を向いた。
セーラー服の輪郭。長い黒髪。
橘芽衣だ、と分かった。
光が揺れた。それから、朝倉の方を向いた。また揺れた。
ありがとう、と言っているみたいだった。二人に向かって。
それから橘さんの光も、夜空に溶けるように消えた。
三人は、しばらく境内に立っていた。
先生が顔を覆った。声は出していなかった。でも肩が震えていた。
朝倉は空を見上げていた。その横顔が、月明かりに照らされていた。
俺は台座を見た。剣が静かに収まっている。
風が吹いた。
山全体が、深く息をしているみたいだった。
山を下りる途中、先生が言った。
「お前たちに、謝らないといけない」
「何をですか」と俺は言った。
「ずっと、知っていて黙っていた。巻き込みたくなかった。でも——本当は怖かったんだ。自分一人で向き合うのが」
「先生も、ずっと一人だったんですね」と朝倉が言った。
「そうだな」先生は夜空を見た。「お前たちみたいに、隣に誰かがいたら——もっと早く動けたかもしれない
俺は朝倉を見た。
朝倉は前を向いたままだったけど、耳が少し赤かった。
校舎が見えてきた頃、先生が足を止めた。
「一つだけ聞いていいか」先生は俺を見た。「桐島、この学校に転校してきたのは——本当に親の都合だったのか」
俺は少し考えた。
「半分は、そうだと思います」
「半分は?」
「半分は——呼ばれたのかもしれない」
先生は小さく笑った。
「そうか」
三人で、夜の校舎に戻った。
昇降口の前で、先生が先に中に入った。
俺と朝倉は並んで立った。
夜の校庭は静かだった。虫の声がして、遠くで電車の音がした。どこにでもある、普通の夏の夜だ。
「終わったな」と俺は言った。
「終わった」と朝倉は言った。
少し間があった。
「朝倉」
「何」
「一年間、一人でよく続けたな」
朝倉は何も言わなかった。でもさっきより耳が赤い気がした。
「来年も、何か出るかもしれない」と俺は言った。
「出るかもしれない」と朝倉は言った。
「そのときはまた、二人でやるか」
朝倉はゆっくり俺を見た。
「二人じゃなくて」
「え?」
「三人」朝倉は昇降口の方を見た。先生が中から俺たちを待っていた。「先生も、今度は一緒に動ける」
俺は笑った。
「そうだな」
夏休みまで、あと一週間だった。
翌週の月曜日、いつも空っぽだった机に、誰かが座った。
転校生だった。
新しい生徒が自己紹介をする間、俺は朝倉と目を合わせた。
朝倉が小さく頷いた。
この学校は、まだ終わっていない。
でも今度は、一人じゃない。
完
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