先生が隠しているもの
七月の後半、梅雨が明けた。
校舎に蝉の声が戻ってきて、教室の空気が重くなった。窓を開けても風が通らない。そういう季節だった。
俺と朝倉は、田村先生のことが気になっていた。
鶴のとき、鏡のとき、プールのとき。先生はいつも「知っていた」。でも自分では動かなかった。動けなかった。その理由を、先生はまだ話していない。
「聞きに行こう」と俺は言った。
「断られる」と朝倉は言った。
「それでも聞く」
朝倉は少し考えてから、ノートを閉じた。
「……放課後にしよう」
職員室に行くと、田村先生は一人で残業していた。俺たちの顔を見た瞬間、先生は小さく息をついた。覚悟していたような顔だった。
「来ると思ってた」
「話してもらえますか」と朝倉が言った。「先生が動けない理由を」
先生は長い沈黙の後、立ち上がった。
「職員室じゃない方がいい。来い」
連れて行かれたのは、旧校舎の一角にある小さな和室だった。昔は来賓室として使われていたらしいけど、今は物置になっている。
先生は古い座布団を三枚出して、床に並べた。三人で向かい合って座った。
「どこから話せばいいか」先生は天井を見た。
「……私がこの学校に赴任したのは、二十年前だ」
「最初から怪異のことを知っていたんですか」と俺は聞いた。
「知らなかった。最初の一年は、何も起きなかった。でも二年目の秋に——」
先生は手のひらを見た。
「生徒が一人、消えた」
先生が語ったのは、二十年前の話だった。
当時三年生だった男子生徒が、ある日突然いなくなった。登校していたのに、昼休みを境に誰も見ていない。荷物は教室に残ったまま。
警察が動いたが、手がかりはなかった。
「名前は村瀬 陽。明るくて、友達が多い子だった」先生の声が低くなった。「私が担任だった」
「その生徒も、何かに触れたんですか」と朝倉が聞いた。
「そうだと思う。後から考えれば、징兆があった。消える三日前から、右手をよく見ていた。でも私は気づかなかった」
俺は自分の右手を見た。鶴の痣が消えた場所。
「先生はその後、怪異のことを調べたんですか」
「調べた。でも分からなかった。何が起きているのか、どうすれば止められるのか」先生は顔を上げた。「そしてまた生徒が消えた。十年後に」
「橘さんですか」と朝倉が言った。
「そうだ。橘芽衣。あの子も私のクラスだった」
沈黙が落ちた。
蝉の声が遠くから聞こえた。
「二人も、消えたのに」俺はゆっくり言った。「先生はなぜ自分で動かなかったんですか」
先生は答えなかった。
朝倉が静かに言った。
「動こうとしたとき、何かが起きたんじゃないですか」
先生がゆっくり朝倉を見た。
「……さすがだな、朝倉は」
先生は右手の袖をまくった。
手首の内側に、痣があった。
鶴じゃない。
もっと複雑な形。俺には何の形か分からなかった。でも朝倉が息を呑んだ。
「それは——」
「二十年前からある」先生は袖を戻した。「村瀬が消えた日から、ずっと。消えない。動かない。でも——私が怪異に近づこうとすると、疼く」
「封じられてるんだ」と朝倉が言った。
「先生が動けないように」
「そう思う。私に動かれると困る何かが、この学校にいる」
「つまり」と俺は言った。「鶴も鏡もプールも、全部バラバラの怪異じゃなくて——」
「一つの根っこから出ている」と朝倉が続けた。「瀬戸家に関係する、もっと大きな何かが、この学校の下にある」
先生は頷いた。
「私はずっとそう思っていた。でも動けなかった。だから——」先生は俺を見た。「お前たちが来たとき、正直ほっとした。特に桐島、お前が転校してきたとき」
「俺が?」
「お前の苗字、桐島だろ」
「はい」
「桐島という名前の家が、昔この辺りにあった。瀬戸家と深い関わりを持っていた家が」
俺は固まった。
「俺の家と、瀬戸家が?」
「確かめてはいない。でも——偶然じゃないかもしれない」
和室を出たのは、日が完全に落ちた後だった。
廊下を歩きながら、朝倉が小さな声で言った。
「桐島くん、知ってた? 自分の家のこと」
「全然知らない」俺は正直に答えた。「親に聞いたことも、聞かれたこともない」
「聞いてみる?」
「……ああ」
でも、もう一つ気になることがあった。
「朝倉、先生の痣の形、分かったのか。息を呑んでたけど」
朝倉は少し歩いてから、答えた。
「分かった」
「何の形だった」
「家紋」朝倉は静かに言った。「瀬戸家の家紋と、同じ形だった」
俺は立ち止まった。
「それって——先生も、瀬戸家と関係があるってことか」
「か、それとも」朝倉も立ち止まって、俺を見た。「瀬戸家の何かに、二十年間囚われているってことか」
その夜、俺は父親に電話した。
三コール目で繋がった。
「どうした、湊。珍しいな」
「一つ聞いていいか。桐島家って、昔この辺りに住んでたことあるのか」
電話の向こうで、父が黙った。
一秒。二秒。三秒。
「……なんでそれを聞く」
その声が、いつもと違った。低くて、慎重で。
「学校で、ちょっと気になることがあって」
「湊」父の声がさらに低くなった。「その話は——今はするな」
「なんで」
「いつかする。でも今じゃない。いいな」
電話が切れた。
俺はしばらくスマホを見つめていた。
父は知っている。
桐島家と瀬戸家の関係を、父は知っている。
翌朝、朝倉に報告した。
朝倉は話を聞いてから、ノートに何かを書いた。
「つまり」朝倉はペンを置いた。「桐島くんがこの学校に転校してきたのは、偶然じゃない可能性がある」
「親が意図的に、ここに転校させたってことか」
「もしくは——」朝倉は窓の外を見た。「呼ばれた」
教室の外で、蝉が鳴いていた。
空席の机が、朝の光を静かに受けていた。




