地下に眠る声
朝倉家と瀬戸家の関係とは
朝倉詩音の動機は贖罪?
朝倉詩音シリーズ3部目になります。
七月の第二週、学校のプールが使えなくなった。
理由は「設備点検」と張り紙に書いてあったけど、朝倉は違う見方をしていた。
「プールの底に、ひびが入ったらしい」放課後の図書室で、朝倉はノートを広げながら言った。
「でもひびの形が変なんだって」
「変って?」
「文字の形をしてる」
俺は顔を上げた。
「誰かが彫ったんじゃないのか」
「深さが均一じゃない。内側から割れたみたいな形らしい」朝倉はノートにメモを書き足した。
「それと、プールの監視員をやってた用務員の坂本さんが、今週から休んでる」
「関係あるのか」
「坂本さん、先週から独り言が増えたって他の先生が言ってた。内容は——」
朝倉がノートを俺に向けた。
水の下に、まだいる
翌朝、俺は早めに登校した。
誰もいない時間のプールサイドに立って、水面を見た。夏の朝日を受けて、水は静かに光っていた。どこにも異常はない。
でも水の底が、妙に暗く見えた。
プールの深さは一番深いところで一・五メートル。底は白いタイルのはずだ。なのに底の中央部分だけ、影が溜まっているように暗い。
俺はしゃがんで、水面に顔を近づけた。
暗い部分が、動いた。
水の底から、こちらを見上げている目と目が合った。
「やっぱりプールか」
朝倉に報告すると、朝倉は静かにそう言った。驚いていなかった。
「知ってたのか」
「予想してた。このプール、昭和五十年代に改築されてる。その前にあった旧プールで、一度水難事故があった」
「死者が出たのか」
「一人。当時三年生の男子生徒」朝倉はファイルから古い新聞のコピーを出した。「名前は瀬戸 光」
また瀬戸だ。
「瀬戸家の関係者か」
「傍系の子孫だと思う。瀬戸家は昭和の初めに本家が絶えたけど、分家は残ってた」朝倉はコピーを指でなぞった。「事故の状況が変で、監視員がいたのに誰も気づかなかった。気づいたときにはもう——」
「なんで気づかなかったんだ」
「監視員が居眠りをしていた。でも本人は眠った覚えがないって言ってた。あと——」
朝倉が顔を上げた。
「引き上げたとき、光くんの手に何かを握っていた。水に濡れてぼろぼろだったけど、紙片だったって記録がある」
俺は嫌な予感がした。
「赤い紙か」
「色は分からない。でも」
朝倉は一拍置いた。
「折り紙だったって書いてある」
昼休み、俺たちはプールサイドに戻った。
水面は穏やかだった。でも近づくと、かすかに音がした。水の中から、何かが響いてくるような、低い音。
「聞こえるか」と俺は言った。
「聞こえる」と朝倉は言った。「声、だと思う」
俺たちは耳を澄ませた。
水の音に混じって、言葉が聞こえた。
* ……ここに、いる……*
* ……誰か、……気づいて……*
子どもの声だった。男の子の。
朝倉がプールサイドにしゃがんで、水面に手を近づけた。
「触るな」と俺は言った。
「分かってる。でも——」
朝倉の指先が水面に届く前に、水がさざ波を立てた。波紋が広がって、底の暗い部分が揺れた。
そこに文字が浮かんだ。
水面に、波で書かれたように。
たすけて
「ただ成仏させればいいわけじゃない気がする」
図書室に戻って、朝倉がそう言った。
「どういう意味だ」
「鶴も鏡も、返すべき場所に返したら解決した。今回も同じはずだよ。光くんが持っていた折り紙——それが鍵だと思う」
「でも折り紙は水に濡れてぼろぼろになってたんだろ。もう残ってない」
「折り紙そのものじゃなくていい」朝倉はペンを持った。「折り紙に込められていた願いが、まだ果たされていないんだと思う。光くんはプールで死ぬ直前、何を願っていたんだろう」
俺は考えた。
「助けを求めてた、とか」
「それだけじゃない気がする」朝倉はノートに何かを書いた。「溺れながら折り紙を持っていたって、変じゃない? 飛び込んだとき持っていたのか、それとも水の中で誰かに渡されたのか」
「渡された? 誰に」
朝倉は答えなかった。代わりに立ち上がって、棚の奥から一冊の古いアルバムを取り出した。図書室の郷土資料コーナーに置いてある、学校の記念誌だ。
昭和五十年代のページを開くと、プール竣工の写真があった。当時の生徒たちが並んでいる。
朝倉が一点を指した。
「この子」
写真の端に、一人だけ離れて立っている男の子がいた。他の子たちが笑っているのに、その子だけが水面を見つめていた。
キャプションに名前があった。
瀬戸 光
俺は写真をよく見た。光くんの手に、何かが握られていた。小さくて見えにくいけど——
「折り紙だ」
「そう。竣工式の日の写真。つまり事故の前から持っていた」朝倉は静かに言った。「この折り紙、自分で折ったものじゃないと思う。形が複雑すぎる」
「誰かに貰ったのか」
「瀬戸神社に関係する誰かに。そしてその折り紙には、神社への奉納という意味があった。光くんはそれを知らずに受け取って——プールに落ちたとき、水の神様みたいなものに引き込まれた」
俺は水難事故の記事を読み返した。
「監視員が居眠りした、っていうのも」
「引き込むために、周りの人間の意識を奪ったんだと思う」
放課後、田村先生を訪ねた。
先生は職員室の自分の席で、何かを読んでいた。俺たちの顔を見ると、すぐに立ち上がった。
「また何か出たか」
「プールです」
先生は表情を変えなかった。でも手の中の書類を、そっと裏返した。
「先生、光くんのことを知ってますよね」
沈黙が続いた。
「……私が赴任する前のことだ」先生はゆっくり言った。「でも、記録は読んだ。この学校に来たとき、一番最初に」
「折り紙のことも?」
「折り紙が引き金だったとは、記録には書いていない。でも——」先生は窓の外を見た。「光くんの遺品の中に、折り紙の本があった。付箋がたくさん貼ってあって、難しい折り方のページにだけ印がついていた」
「折り紙が好きだったのか」
「そうじゃない」先生は俺を見た。「印がついていたのは全部、奉納用の折り方だった。神社に供えるための、特別な折り方だ」
瀬戸神社への道を、三度目に登った。
今回は俺と朝倉だけだ。田村先生は来なかった。来られない理由があるようだったけど、俺は聞かなかった。
朝倉は道すがら、折り紙を折っていた。
「何を折ってるんだ」
「亀」朝倉は手元を見ずに折り続けた。「水に関係する奉納品として、亀は鶴と並ぶ。光くんが持っていたのも、たぶん亀だったと思う」
「根拠は?」
「竣工式の写真、もう一度見た。折り紙の形、亀に見えた」
俺は何も言わなかった。朝倉の指が迷いなく動いて、白い和紙が形を作っていく。
「折り紙、習ったのか」
「子どもの頃、祖母に」朝倉は少し間を置いた。「祖母が神社の家の出だった。奉納の折り方も教わった」
「だからこの学校のことを調べてたのか」
「……関係あるかもしれない、とは思ってた」
朝倉はそれ以上言わなかった。俺も聞かなかった。
神社に着くと、境内の空気が変わっていた。
前の二回より、空気が重い。
台座の前に立つと、水音がした。近くに川も池もないのに、確かに水の音がする。
朝倉が折り上げた亀を、両手で持った。
「私が置く」
「いいのか」
「私がやらないといけない気がする」
朝倉は台座に近づいた。
その瞬間、境内の木々が一斉に揺れた。風じゃない。下から突き上げるような揺れだ。
朝倉の足元に、水が滲み出てきた。土の中から湧き出るように。
俺は朝倉の腕を掴もうとした。
「大丈夫」朝倉は振り返らずに言った。「下がってて」
俺は止まった。
朝倉が亀を台座に置いた。
その瞬間水が、止まった。
木々の揺れが収まった。
静寂の中で、水音だけが続いていた。
でも今度は違う音だった。怖い音じゃなく、川の音みたいな、穏やかな音。
ふと気付くと台座の前に、男の子が立っていた。
小学生くらいの年齢だろうか。半袖シャツに短パン。昭和の子どもみたいな格好だ。
光くんだ、と俺は思った。
男の子は朝倉を見て、少し首を傾げた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
朝倉が小さな声で言った。
「ごめんね、遅くなって」
男の子は首を横に振った。
ありがとう、と口が動いた。
それから——夕暮れの光の中に、溶けていった。
水音も、消えた。
帰り道、朝倉は黙っていた。
山を下りて校舎が見えてきた頃、朝倉が口を開いた。
「祖母が言ってた。瀬戸家の人間は、水と縁が深いって」
「朝倉の祖母が、瀬戸家の出なのか」
「傍系の。だから私、ずっと気になってた。この学校で起きてることが、うちの家と無関係じゃない気がして」
俺は少し考えた。
「朝倉が一年間調べ続けてたのは」
「贖罪、かもしれない」朝倉は静かに言った。「瀬戸家が管理できなくなったせいで、ずっと帰れない人たちがいる。それを知っていながら、誰も動かなかった」
「動いてる人間がここにいる」
朝倉が俺を見た。
「桐島くんは、瀬戸家と関係ない」
「関係なくても、動ける」
朝倉はしばらく俺を見つめてから、前を向いた。
「……ありがとう」
朝倉が素直に礼を言ったのは、初めてだった。
職員室の前を通ると、田村先生が窓から外を見ていた。
俺たちに気づいて、先生は静かに頷いた。
それだけだった。でも俺には分かった。
先生はずっと、誰かが動いてくれるのを待っていたんだ。一人では動けないまま、ずっと。
翌朝、プールの使用禁止の張り紙が外されていた。
底のひびは、一晩で消えていた。
誰も理由を説明できなかったけど、誰も不思議がらなかった。
ただ用務員の坂本さんが、久しぶりに出勤してきた。顔色がよくて、独り言もなかった。
プールサイドを掃除しながら、坂本さんは空を見上げた。
「いい天気だな」
水面が、朝の光を反射して輝いていた。




