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朝倉詩音の怪異録  作者: ゆるっとおやじ


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2/13

「もう一人の私が笑っている」

七月に入って最初の月曜日、朝倉詩音は珍しく遅刻してきた。


 ホームルームが終わった後、俺の席の横を通り過ぎながら小さな声で言った。

「放課後、音楽室に来て」

 それだけ言って、自分の席に座った。表情は読めなかった。でも朝倉が遅刻するのは、入学してから一度もなかったと誰かが言っていた。


何かあった、と俺は思った。

音楽室は三階の端にある。放課後はほとんど使われない。

俺が行くと、朝倉はすでに来ていた。室内の一番奥、グランドピアノの隣に立って、壁を見ていた。


壁には大きな鏡があった。音楽室には珍しい、床から天井まである全身鏡だ。

「これを見て」

 朝倉が鏡を指した。

 俺は近づいて、鏡を見た。自分の顔が映っている。朝倉も隣に映っている。普通の鏡だ。


「何が——」

「じっと見てて。三十秒くらい」

 俺は黙って鏡を見続けた。自分の顔。朝倉の横顔。音楽室の天井。ピアノ。

 二十秒が過ぎた頃、気づいた。

 朝倉が、鏡の中で笑っていた。

 隣に立っている本物の朝倉は、無表情のままだ。でも鏡の中の朝倉だけが、口の端を上げて、ニヤリと笑っていた。

 俺は思わず一歩後退した。


「見えた?」と朝倉が言った。

「……ああ」

「今朝、一人で気づいた。登校途中に店のガラスで自分の顔を見たら、笑ってた」朝倉は鏡から目を離さずに続けた。「私は笑ってなかったのに」


 朝倉のノートが広げられた。今度は新しいページだ。

「音楽室のこの鏡、調べたら変な話が出てきた。十年くらい前から、ここで練習していた生徒が体調を崩すことが続いた。倦怠感、頭痛、それから——」

「それから?」

「人格が変わる、って報告が三件」

 俺は鏡を見た。今は二人とも普通に映っている。


「人格が変わるって、どういうことだ」

「最初は小さなことから始まるらしい。自分がしていない行動を指摘される。覚えのない言葉を言ったと言われる。それが段々エスカレートして——最終的には、本人が自分じゃない誰かに乗っ取られたみたいになる」

「鏡の中の自分が、外に出てくるってことか」

「そう思う」

 朝倉は静かに言った。でもその声が、わずかに震えていた。

朝倉が怖がっているのを見たのは初めてだった。


「今朝から、変なことが起きてる」

「何が」

「授業中、自分が何を書いているか分からない瞬間があった。気づいたらノートに知らない文字が書いてあった」

 朝倉がノートを開いた。ページの隅に、細い文字で何度も繰り返し書かれていた。


かえして かえして かえして


「書いた記憶がない」

 俺たちは音楽室の鏡の前に並んで立った。

 鏡の中の俺は普通に映っている。でも鏡の中の朝倉は——さっきとは違う。笑っていない。代わりに、口が動いていた。


 本物の朝倉は何も喋っていないのに。

「朝倉、鏡の中のお前、口が動いてる」

「見えてる」朝倉は顔色一つ変えずに言った。「何て言ってるか分かる?」

 俺は目を細めて鏡を見た。口の動きを読もうとした。同じ言葉を繰り返している。

か、え、し、て

「返して、って言ってる」

 朝倉が息を呑んだ。


「また、か」

「赤い鶴のときと同じだ。何かを返してほしがってる」

「鏡の中の私が? それとも鏡そのものが?」

 俺には分からなかった。でも一つだけ気になることがあった。

「この鏡、いつからここにあるんだ」

 朝倉がノートをめくった。


「それも調べた。昭和四十年代に寄贈されたって記録がある。寄贈者の名前は——」

 朝倉の指が止まった。

「瀬戸、蓮司」

 俺たちは同時に顔を見合わせた。

「瀬戸神社と、同じ名前だ」

 図書室で調べると、瀬戸蓮司という人物の記録がすぐに出てきた。


 地元の旧家で、昭和の初めまでこの辺りの土地の大半を所有していた。瀬戸神社はその家が代々管理していた神社で、廃社になったのは昭和三十年代、瀬戸家が没落した後だ。

「鏡を寄贈したのが昭和四十年代ってことは、廃社になった後か」朝倉が言った。「なんで廃社になってから学校に鏡を?」


「神社に置いてあったものを、持ってきたんじゃないか」

 朝倉がはっとした顔をした。

「神社の御神体、って可能性がある」

「御神体が鏡?」

「鏡は神道では特別なものだよ。三種の神器の一つも鏡だし、神社に御神体として祀られていることは多い」


俺は古い資料を読みながら続けた。

「瀬戸家が没落して神社を管理できなくなって、御神体をどこかに移さなきゃいけなくなった。それで学校に寄贈した」

「でも御神体を、ちゃんとした手続きなしに動かしたら——」

「怒る、よな。祀られてたものが」

 朝倉は黙って鏡の方向を見た。

音楽室はここからは見えない。


「鶴と同じだ」と俺は言った。「返すべき場所に返してない。だから——」

「だから鏡の中の私が、返してって言ってる」

 問題は、瀬戸神社はすでに廃社だということだ。


「廃社でも、戻せるのか」と俺は聞く。

「分からない。でも」朝倉は少し考えた。「鶴のときは、廃社の神社に返しても解決した。場所に宿っているものは、まだそこにある」

「じゃあ鏡を神社に持っていけばいい」

「この鏡、相当重いよ」

「二人でやれば運べる」

 朝倉がじっと俺を見た。

「桐島くん、なんでそんなに積極的なの」

「は?」

「前回は自分が呪われてたから必死だったのは分かる。今回は関係ないのに」

 俺は少し考えた。


「橘さんのことが、気になってる」

「橘さん?」

「あの子、ずっと一人で待ってた。誰かが気づいてくれるまで。俺はたまたまそこにいただけだったけど——気づいたなら、動かないといけない気がする」

 朝倉は何も言わなかった。でも視線が少し柔らかくなった。


「……放課後、二人で運ぼう」

 音楽室に戻ると、鏡の様子が変わっていた。

 鏡の表面が、薄く曇っていた。まるで誰かが内側から息を吹きかけているみたいに。その曇りの中に、指で書いたような文字が浮かんでいた。


まだ、いる

 朝倉が鏡の端に手をかけた。

「手伝って」

 俺も反対側を持った。鏡は思ったより重かった。でも動かせないほどじゃない。

 その瞬間、音楽室の窓が全部一斉に開いた。


 七月の風が吹き込んで、楽譜が舞い上がった。ピアノの蓋が独りでに開いて、誰も触れていないのに鍵盤が鳴った。低い音から高い音へ、音階を上るように。

 朝倉が俺を見た。

「急いで」

 二人で鏡を抱えて廊下に出た。重い。腕が痛い。でも止まれない。


 階段を下りながら、俺は鏡面をちらりと見た。

 鏡の中に、知らない景色が映っていた。

 音楽室じゃない。薄暗い森の中。木々の間に、石造りの鳥居が見えた。

 瀬戸神社だ。


「朝倉、鏡の中見るな」

「なんで」

「引き込まれる気がする」

 朝倉は黙って前を向いた。

 昇降口を出て、校庭を横切って、裏山への道に入った。前回より鏡の分だけ重くて、息が上がった。朝倉も無言で歯を食いしばっていた。


十分かかるはずの道を、無我夢中で登った。

瀬戸神社に着いたとき、社の前に人影があった。

 田村先生だった。

先生は驚いた様子もなく、ただ静かに立っていた。

「また来たか」

「先生、この鏡のことも知ってましたか」

 先生は少し間を置いた。

「……知ってた。でも動かせなかった。重くて、一人では」

「なんで誰かに頼まなかったんですか」

「話せるか。こんなこと」

 俺は何も言えなかった。

 先生が鏡の端に手をかけた。

「三人でやろう」


社の前の石畳に、鏡を立てかけた。

鳥居に向けて、神社の中心に面するように。

三人で手を離した瞬間、鏡の曇りが晴れた。

透き通った鏡面に、今度は正しい景色が映った。夕暮れの神社。苔むした鳥居。そして


 鏡の中に、女の人が立っていた。

 着物姿で、長い髪を結い上げて。こちらを向いて、深々と頭を下げていた。

 ありがとう、と聞こえた気がした。

 風が吹いた。

 鏡の曇りが、完全に消えた。

 帰り道、朝倉が自分の手のひらを見た。


「書けない」

「何が」

「さっきまで、手が勝手に動く感じがしてた。今はない」

 俺は安堵した。

「よかった」

 朝倉はしばらく黙って歩いた。それから、ぽつりと言った。

「桐島くんって、変わってるね」

「そうか?」

「普通、関わりたくないと思う。こういうこと」

「お前だって関わってるだろ」

「私は——」朝倉は少し考えた。「橘さんのことがあったから、やめられなくなった」

「俺も同じだよ」

 朝倉が俺を見た。

「同じ、か」

「ああ」

 朝倉はまた前を向いた。でも今度は、少しだけ歩くペースが緩んだ。隣に並んで歩けるくらいに。


校舎に戻ると、音楽室の窓が全部閉まっていた。

ピアノの音は、もう聞こえなかった。

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