卒業式前夜
三月になった。
合格発表が終わって、俺と朝倉は同じ大学に受かっていた。
朝倉からメッセージが来たのは、発表当日の昼だった。
受かった
俺も
よかった
ああ
それだけだった。
夕方、朝倉から電話が来た。
出ると、朝倉は泣いていた。
「なんで泣いてるんだ」と俺は言った。
「泣いてない」と朝倉は言った。
「泣いてる声だ」
「泣いてない。鼻水が出てるだけ」
俺は笑った。
「よかったな、詩音」
電話の向こうで、朝倉がまた少し泣いた。
卒業式の前日。
最後のホームルームが終わって、教室が片付けられた。机が並んでいたのに、荷物がなくなると急に広く見えた。
田村先生が黒板の前に立った。
「最後に、一つだけ言わせてくれ」
教室が静かになった。
「お前たちを担任して、三年間——いや、私にとっては二十年以上の何かが、今年終わった気がする」先生は黒板を見た。「鶴の話や、神社の話や、地下の話——ほとんどの生徒には関係のない話だ。でも」先生は俺と朝倉を見た。「お前たちのおかげで、私はようやく前に進める気がする」
誰かが「先生、泣いてる」と言った。
笑いが起きた。
先生は照れくさそうに咳払いをした。
「卒業おめでとう。みんな、元気でいろ」
教室を出た後、俺と朝倉と凛で廊下に残った。
凛が目を真っ赤にしていた。
「凛、泣きすぎだ」と俺は言った。
「だって——先輩たちが卒業するんですよ」凛は鼻をすすった。「寂しいじゃないですか」
「また来る」と朝倉が言った。「約束した」
「でも毎日は来ないじゃないですか」
「毎日は来ない」
「それが寂しいんです」
朝倉は少し考えてから、凛の頭に手を置いた。
凛がびっくりした顔をした。朝倉もびっくりした顔をしていた。自分でも驚いたらしかった。
「な、何ですか」凛は言った。
「頑張れ、と思って」朝倉は手を離した。「来年も、再来年も」
「朝倉先輩が頭を撫でた」凛は信じられないという顔で言った。
「撫でてない。置いただけだ」
「撫でてましたよ」俺は言った。
「撫でてない」朝倉は歩き出した。
凛が俺を見て、ニコニコした。
「朝倉先輩、変わりましたね」凛は小声で言った。
「そうだな」俺も小声で言った。
「桐島先輩のおかげですよ」
「お互い様だ」
夕方、俺は一人で校舎に残った。
用があったわけじゃない。
ただ、最後にもう一度、この校舎を歩きたかった。
一階から順番に歩いた。
昇降口。廊下。三年生の教室。二年生のフロア。音楽室。図書室。旧校舎の和室。
全部、記憶があった。
あそこで先生から話を聞いた。あそこで朝倉が倒れた。あそこで白哉さんが微笑んだ。あそこで初めて凛に会った。
全部、この校舎の中にあった。
三階の廊下の突き当たりで、俺は止まった。
旧理科準備室の前。
一年半前、広斗くんが隠れていた場所だ。
引き戸を開けた。
暗い部屋。古い理科の器具が棚に並んでいる。埃の匂い。
でも今は、何の気配もなかった。
ただの、薄暗い準備室だった。
俺はしばらく中を見ていた。
「ありがとな」俺は小声で言った。
誰もいない部屋に向かって。
でも言いたかった。
この校舎にあった全部のものに向けて。
廊下に戻ると、朝倉が立っていた。
「ここにいたのか」朝倉は言った。
「お前こそ、なんで来た」
「探した」朝倉は廊下の窓から外を見た。「なんとなく、一人で歩き回ってるんじゃないかと思って」
「そうだったのか」
「そうだった」朝倉は俺を見た。「一人で感傷に浸るのは、禁止だ」
「禁止?」
「私も一緒に浸る」
俺は少し笑った。
「じゃあ一緒に歩くか」
「そのために来た」
二人で校舎を歩いた。
さっき俺が一人で歩いた道を、今度は二人で歩いた。
音楽室の前で、朝倉が止まった。
「ここで先生がピアノを弾いた」
「鏡の御神体のときと、旅人たちのときと」
「二回も弾いてくれた」朝倉は扉を見た。「先生、また弾くかな。どこかで」
「弾くと思う。あれだけ上手かったら、やめられないだろ」
「そうだといい」
図書室の前で、俺が止まった。
「ここが一番、思い出がある気がする」
「そうだね」朝倉は静かに言った。「一年間、一人でここにいた。でも——湊が来てから、一人じゃなくなった」
「俺も一人だったけどな。転校してきて、友達もいなくて」
「それは知らなかった」朝倉は少し驚いた顔をした。
「言わなかったから」
「孤独が、二人を引き合わせた」朝倉は静かに言った。
「橘さんと同じか」
「でも橘さんは怪異に引き寄せられた。私たちは——」朝倉は俺を見た。「怪異が、引き合わせてくれた」
「同じ怪異でも、違う結果になった」
「なったね」朝倉は図書室の扉を見た。「来年から、ここに来られなくなる」
「大学の図書館に行けばいい」
「同じじゃない」
「同じじゃない」俺は認めた。「でも——新しい場所になるだけだ。終わりじゃない」
朝倉は俺を見た。
「湊は、いつもそういうことを言うね」
「そういうことって」
「終わりじゃない、って」朝倉は少し笑った。「私が終わりを感じるたびに、湊がそう言う」
「お前が終わりを感じすぎるんだ」
「そうかもしれない」朝倉は頷いた。「地下のものの記憶があると——終わりに敏感になる。何百年分の終わりを知ってるから」
「それは大変だな」
「でも」朝倉は続きを言いかけて、止まった。
「でも?」
「湊が終わりじゃないと言うから——信じられる」
旧校舎の和室の前で、田村先生が立っていた。
俺たちを見て、先生は苦笑いした。
「お前たちも、校舎を歩いていたのか」
「先生も?」と俺は言った。
「私も」先生は和室の引き戸を見た。「この部屋には、何度お世話になったか」
「私たちも」と朝倉が言った。
「明日、卒業式が終わったら——木下と一緒に、北川さんのところに行く」先生は言った。
「そうなんですか」
「正式に謝りに行く。私も」先生は俺たちを見た。「お前たちが記憶を取り戻してくれたおかげで、北川さんの周りの人間も、みんな彼女を覚えている。だから——ちゃんと、顔を合わせて謝りたい」
「北川さんは、会ってくれますか」と朝倉が聞いた。
「会ってくれると言っていた。木下から連絡が行っている」先生は少し目を細めた。「二十五年越しの、やり直しだ」
「うまくいくといいですね」と俺は言った。
「うまくいかなくてもいい。ただ、向き合うことが大事だと思ってる」先生は和室の引き戸を開けた。「少し、ここで休んでいく。お前たちも来るか」
「遠慮しておきます」と朝倉が言った。
「そうか」先生は中に入りながら言った。「明日、卒業式でちゃんと見送る。覚悟しておけ」
「はい」
校舎の外に出た。
夜の校庭は静かだった。
冬の空に、星が出ていた。
二人で並んで、空を見上げた。
「明日で終わりだな」と俺は言った。
「終わりじゃない」朝倉は即座に言った。
俺は朝倉を見た。
朝倉は真剣な顔をしていた。
「湊がいつも言うから、覚えた」
「覚えたのか」
「覚えた」朝倉は空を見た。「明日で終わりじゃない。始まりだと思う」
「何の始まりだ」
「怪異のない、普通の日々の始まり」朝倉は静かに言った。「それと——」
「それと?」
「湊と、ちゃんと始める始まり」
俺は朝倉を見た。
朝倉は空を見たまま、耳が赤かった。
「ちゃんと始める、って」
「付き合う、とか——そういう」朝倉は少し咳払いをした。「文化祭の日に、好きだと言った。でも——あれから、何も決めていないから」
「確かに」
「だから」朝倉はゆっくりと俺を見た。「卒業式が終わったら、ちゃんと決めたい。湊の口から、聞きたい」
俺は少し考えた。
「今じゃだめなのか」
「今は——」朝倉は少し考えた。「卒業式の後がいい。この学校での最後のことを、卒業式にしたい。湊との新しいことは——卒業した後に、始めたい」
「お前らしい理由だな」
「変か」
「変じゃない」俺は言った。「じゃあ明日、卒業式が終わったら——ちゃんと言う」
「うん」朝倉は頷いた。「待ってる」
少し経って、朝倉が帰っていった。
俺は一人で校庭に残った。
もう一度、空を見上げた。
星が多かった。
鶴の怪異から始まって、御神体の鏡、プールの少年、白哉さん、広斗くん、地下の神、旅人たち、木下さん、橘さんの鶴——全部が、この空の下で起きた。
全部が、この学校の中にあった。
そして明日で、ここを卒業する。
でも終わりじゃない。
そう思えるのは——朝倉が隣にいるからだと、俺は思った。
スマホが鳴った。
朝倉からだった。
家に着いた
よかった
明日、晴れるといいな
晴れると思う
なんで分かるの
感じがする
湊も感じるの?
たまには
少し間があった。
湊
何だ
明日、楽しみにしてる
卒業式が?
それも。でも——その後が
俺は少し笑った。
俺も楽しみにしてる
おやすみ、湊
おやすみ、詩音
スマホを置いた。
窓の外に、夜の校庭が見えた。
明日で、この景色ともお別れだ。
でも終わりじゃない。
始まりだ。
目を閉じた。
すぐに眠れた。




