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朝倉詩音の怪異録  作者: ゆるっとおやじ


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26/27

卒業式前夜

三月になった。

合格発表が終わって、俺と朝倉は同じ大学に受かっていた。

朝倉からメッセージが来たのは、発表当日の昼だった。


受かった

俺も

よかった

ああ

それだけだった。


夕方、朝倉から電話が来た。

出ると、朝倉は泣いていた。

「なんで泣いてるんだ」と俺は言った。

「泣いてない」と朝倉は言った。

「泣いてる声だ」

「泣いてない。鼻水が出てるだけ」

 俺は笑った。

「よかったな、詩音」


電話の向こうで、朝倉がまた少し泣いた。

卒業式の前日。

最後のホームルームが終わって、教室が片付けられた。机が並んでいたのに、荷物がなくなると急に広く見えた。


田村先生が黒板の前に立った。

「最後に、一つだけ言わせてくれ」

教室が静かになった。

「お前たちを担任して、三年間——いや、私にとっては二十年以上の何かが、今年終わった気がする」先生は黒板を見た。「鶴の話や、神社の話や、地下の話——ほとんどの生徒には関係のない話だ。でも」先生は俺と朝倉を見た。「お前たちのおかげで、私はようやく前に進める気がする」

誰かが「先生、泣いてる」と言った。

笑いが起きた。


先生は照れくさそうに咳払いをした。

「卒業おめでとう。みんな、元気でいろ」

教室を出た後、俺と朝倉と凛で廊下に残った。

凛が目を真っ赤にしていた。

「凛、泣きすぎだ」と俺は言った。

「だって——先輩たちが卒業するんですよ」凛は鼻をすすった。「寂しいじゃないですか」

「また来る」と朝倉が言った。「約束した」

「でも毎日は来ないじゃないですか」

「毎日は来ない」

「それが寂しいんです」


朝倉は少し考えてから、凛の頭に手を置いた。

凛がびっくりした顔をした。朝倉もびっくりした顔をしていた。自分でも驚いたらしかった。

「な、何ですか」凛は言った。

「頑張れ、と思って」朝倉は手を離した。「来年も、再来年も」

「朝倉先輩が頭を撫でた」凛は信じられないという顔で言った。

「撫でてない。置いただけだ」

「撫でてましたよ」俺は言った。

「撫でてない」朝倉は歩き出した。

凛が俺を見て、ニコニコした。


「朝倉先輩、変わりましたね」凛は小声で言った。

「そうだな」俺も小声で言った。

「桐島先輩のおかげですよ」

「お互い様だ」

夕方、俺は一人で校舎に残った。

用があったわけじゃない。

ただ、最後にもう一度、この校舎を歩きたかった。


一階から順番に歩いた。

昇降口。廊下。三年生の教室。二年生のフロア。音楽室。図書室。旧校舎の和室。

全部、記憶があった。

あそこで先生から話を聞いた。あそこで朝倉が倒れた。あそこで白哉さんが微笑んだ。あそこで初めて凛に会った。

全部、この校舎の中にあった。


三階の廊下の突き当たりで、俺は止まった。

旧理科準備室の前。

一年半前、広斗くんが隠れていた場所だ。


引き戸を開けた。

暗い部屋。古い理科の器具が棚に並んでいる。埃の匂い。

でも今は、何の気配もなかった。

ただの、薄暗い準備室だった。


俺はしばらく中を見ていた。

「ありがとな」俺は小声で言った。

誰もいない部屋に向かって。

でも言いたかった。

この校舎にあった全部のものに向けて。


廊下に戻ると、朝倉が立っていた。

「ここにいたのか」朝倉は言った。

「お前こそ、なんで来た」

「探した」朝倉は廊下の窓から外を見た。「なんとなく、一人で歩き回ってるんじゃないかと思って」

「そうだったのか」

「そうだった」朝倉は俺を見た。「一人で感傷に浸るのは、禁止だ」

「禁止?」

「私も一緒に浸る」

俺は少し笑った。

「じゃあ一緒に歩くか」

「そのために来た」

 二人で校舎を歩いた。

さっき俺が一人で歩いた道を、今度は二人で歩いた。


音楽室の前で、朝倉が止まった。

「ここで先生がピアノを弾いた」

「鏡の御神体のときと、旅人たちのときと」

「二回も弾いてくれた」朝倉は扉を見た。「先生、また弾くかな。どこかで」

「弾くと思う。あれだけ上手かったら、やめられないだろ」

「そうだといい」

図書室の前で、俺が止まった。

「ここが一番、思い出がある気がする」

「そうだね」朝倉は静かに言った。「一年間、一人でここにいた。でも——湊が来てから、一人じゃなくなった」

「俺も一人だったけどな。転校してきて、友達もいなくて」

「それは知らなかった」朝倉は少し驚いた顔をした。

「言わなかったから」

「孤独が、二人を引き合わせた」朝倉は静かに言った。

「橘さんと同じか」

「でも橘さんは怪異に引き寄せられた。私たちは——」朝倉は俺を見た。「怪異が、引き合わせてくれた」

「同じ怪異でも、違う結果になった」

「なったね」朝倉は図書室の扉を見た。「来年から、ここに来られなくなる」

「大学の図書館に行けばいい」

「同じじゃない」

「同じじゃない」俺は認めた。「でも——新しい場所になるだけだ。終わりじゃない」

朝倉は俺を見た。


「湊は、いつもそういうことを言うね」

「そういうことって」

「終わりじゃない、って」朝倉は少し笑った。「私が終わりを感じるたびに、湊がそう言う」

「お前が終わりを感じすぎるんだ」

「そうかもしれない」朝倉は頷いた。「地下のものの記憶があると——終わりに敏感になる。何百年分の終わりを知ってるから」

「それは大変だな」

「でも」朝倉は続きを言いかけて、止まった。

「でも?」

「湊が終わりじゃないと言うから——信じられる」


旧校舎の和室の前で、田村先生が立っていた。

俺たちを見て、先生は苦笑いした。

「お前たちも、校舎を歩いていたのか」

「先生も?」と俺は言った。

「私も」先生は和室の引き戸を見た。「この部屋には、何度お世話になったか」

「私たちも」と朝倉が言った。

「明日、卒業式が終わったら——木下と一緒に、北川さんのところに行く」先生は言った。

「そうなんですか」

「正式に謝りに行く。私も」先生は俺たちを見た。「お前たちが記憶を取り戻してくれたおかげで、北川さんの周りの人間も、みんな彼女を覚えている。だから——ちゃんと、顔を合わせて謝りたい」

「北川さんは、会ってくれますか」と朝倉が聞いた。

「会ってくれると言っていた。木下から連絡が行っている」先生は少し目を細めた。「二十五年越しの、やり直しだ」

「うまくいくといいですね」と俺は言った。

「うまくいかなくてもいい。ただ、向き合うことが大事だと思ってる」先生は和室の引き戸を開けた。「少し、ここで休んでいく。お前たちも来るか」

「遠慮しておきます」と朝倉が言った。

「そうか」先生は中に入りながら言った。「明日、卒業式でちゃんと見送る。覚悟しておけ」

「はい」


校舎の外に出た。

夜の校庭は静かだった。

冬の空に、星が出ていた。

二人で並んで、空を見上げた。

「明日で終わりだな」と俺は言った。

「終わりじゃない」朝倉は即座に言った。

俺は朝倉を見た。

朝倉は真剣な顔をしていた。

「湊がいつも言うから、覚えた」

「覚えたのか」

「覚えた」朝倉は空を見た。「明日で終わりじゃない。始まりだと思う」

「何の始まりだ」

「怪異のない、普通の日々の始まり」朝倉は静かに言った。「それと——」

「それと?」

「湊と、ちゃんと始める始まり」

俺は朝倉を見た。

朝倉は空を見たまま、耳が赤かった。


「ちゃんと始める、って」

「付き合う、とか——そういう」朝倉は少し咳払いをした。「文化祭の日に、好きだと言った。でも——あれから、何も決めていないから」

「確かに」

「だから」朝倉はゆっくりと俺を見た。「卒業式が終わったら、ちゃんと決めたい。湊の口から、聞きたい」

俺は少し考えた。


「今じゃだめなのか」

「今は——」朝倉は少し考えた。「卒業式の後がいい。この学校での最後のことを、卒業式にしたい。湊との新しいことは——卒業した後に、始めたい」

「お前らしい理由だな」

「変か」

「変じゃない」俺は言った。「じゃあ明日、卒業式が終わったら——ちゃんと言う」

「うん」朝倉は頷いた。「待ってる」

少し経って、朝倉が帰っていった。


俺は一人で校庭に残った。

もう一度、空を見上げた。

星が多かった。

鶴の怪異から始まって、御神体の鏡、プールの少年、白哉さん、広斗くん、地下の神、旅人たち、木下さん、橘さんの鶴——全部が、この空の下で起きた。


全部が、この学校の中にあった。

そして明日で、ここを卒業する。

でも終わりじゃない。

そう思えるのは——朝倉が隣にいるからだと、俺は思った。


スマホが鳴った。

朝倉からだった。

家に着いた

よかった

明日、晴れるといいな

晴れると思う

なんで分かるの

感じがする

湊も感じるの?

たまには

少し間があった。


湊

何だ

明日、楽しみにしてる

卒業式が?

それも。でも——その後が

俺は少し笑った。

俺も楽しみにしてる

おやすみ、湊

おやすみ、詩音

スマホを置いた。


窓の外に、夜の校庭が見えた。

明日で、この景色ともお別れだ。

でも終わりじゃない。

始まりだ。

目を閉じた。

すぐに眠れた。


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