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朝倉詩音の怪異録  作者: ゆるっとおやじ


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卒業式の空

最終話

三月の朝は、青かった。

目が覚めた瞬間、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。


朝倉が言っていた通り、晴れていた。

俺は制服に袖を通した。最後に着る制服だ。そう思うと、少し時間をかけて着た。

祖母が玄関で待っていた。

「いってらっしゃい」祖母は言った。「湊、立派になったね」

「そんなことないよ」

「そんなことある」祖母は俺の肩を叩いた。「いってらっしゃい」


校門の前に、凛がいた。

制服姿で、目が少し赤かった。

「もう泣いてるのか」と俺は言った。

「泣いてません」凛は言った。「花粉です」

「三月だからな」

「そうです。花粉です」凛はまた目を拭った。「朝倉先輩は?」

「まだ来てない」

「先に中に入ってますね」凛は校門をくぐりながら言った。「先輩たちの卒業式、ちゃんと見届けます」


朝倉が来たのは、式の十分前だった。

いつもの制服。いつもの静かな目。でも今日は、少し違って見えた。

何が違うか、しばらく分からなかった。

近づいて、気づいた。

朝倉が、少し笑っていた。

意識してじゃなく、自然に。口の端が、ほんの少し上がっていた。


「何がそんなに嬉しいんだ」と俺は言った。

「別に」朝倉は言った。「晴れたから」

「それだけか」

「それだけ」朝倉は空を見た。「でも——十分だ」


卒業式が始まった。

体育館に三年生が並んだ。

来賓の挨拶、在校生の言葉、卒業生の言葉。いつも通りの式だった。

でも俺には、体育館の空気が違って感じた。

怪異の気配がない。

重さがない。

ただ、春の光が高い窓から差し込んで、体育館を白く照らしていた。

その光の中に——一瞬だけ、何かが見えた気がした。


白い着物の影。

白哉さんが、見に来てくれた気がした。

隣の朝倉を見た。朝倉も同じ方向を見ていた。

目が合った。

朝倉が小さく頷いた。

俺も頷いた。

卒業証書が手渡された。

田村先生から、一人ずつ渡された。

俺の番が来た。

先生は証書を渡しながら、小声で言った。

「よくやった」

「先生のおかげです」

「お互い様だ」先生は少し笑った。「元気でいろ」

「はい」


朝倉の番が来た。

先生は証書を渡しながら、しばらく朝倉を見た。

何も言わなかった。

でも朝倉が受け取るとき、先生の手が少しだけ、朝倉の手に重なった。

それだけだった。

でも朝倉は、目を潤ませた。


式が終わった。

体育館を出ると、春の風が吹いていた。

三月の風は、もう冷たくなかった。

校庭に出ると、凛が走ってきた。

「先輩たち、おめでとうございます!」

「ありがとう」と俺は言った。

「朝倉先輩、泣いてましたよ」凛は言った。

「泣いてない」朝倉は言った。

「泣いてました。ちゃんと見てました」

「花粉だ」

「三月ですもんね」凛はニコニコした。「私も花粉です」

三人で笑った。


田村先生が校庭に来た。

先生は俺たちを見て、少し立ち止まった。

「写真を撮ってもいいか」先生は言った。「記念に」

「もちろんです」と凛が言った。

四人で並んだ。

凛がスマホを構えた。

「はい、笑って」

シャッターが切れた。

先生が画面を見た。

「いい写真だ」

「見せてください」と朝倉が言った。

画面を覗き込んだ。

四人が並んで、笑っていた。

朝倉が言った。

「先生、前よりずっと笑顔がいい」

「そうか」先生は画面を見た。「そうかもしれないな」


昼を過ぎた頃、田村先生が帰り支度を始めた。

「木下と待ち合わせがある」先生は言った。「北川さんのところに行く」

「うまくいくといいですね」と朝倉が言った。

「うまくいかなくてもいい、と昨日言った」先生は苦笑いした。「でも——うまくいくといいとも、思ってる」

「正直な先生だ」と俺は言った。

「お前たちに鍛えられた」先生は言った。それから、少し真剣な顔になった。「湊、詩音」

名前で呼ばれた。先生が名前で呼ぶのは、珍しかった。

「はい」と二人同時に言った。

「お前たちが出会ったのは——怪異のせいだ。呪いのせいだ。それは事実だ」先生は言った。「でも、続いてきたのはお前たちのせいだ。怪異のせいじゃない」


俺は朝倉を見た。

朝倉も俺を見た。

「それだけ言いたかった」先生は歩き出した。「元気でいろ。また会おう」

「先生も」と朝倉が言った。「元気でいてください」

先生は振り返らずに手を振った。

そのまま、校門を出ていった。

凛も帰った。


「また来てくださいね」凛は言った。「約束ですよ」

「約束だ」と朝倉が言った。

「桐島先輩も」

「ああ」

「あと——」凛は少し笑った。「二人とも、お幸せに」

朝倉が赤くなった。

「何の話だ」

「なんとなく」凛は走って行った。「またね、先輩たち!」


校庭に、俺と朝倉の二人が残った。

春の午後の光が、校庭を照らしていた。

校舎の影が長く伸びていた。

朝倉は校舎を見上げていた。

「行くか」と俺は言った。

「もう少し」朝倉は言った。「もう少しだけ、ここにいたい」

「ああ」

二人で、並んで立った。

校庭の真ん中。怪異が出たことも、誰かが消えたことも、怖い声が聞こえたことも——全部が、この敷地の中にあった。


でも今は、ただの春の午後だった。

「湊」朝倉が言った。

「何だ」

「一年半前、この学校に転校してきて——よかったと思うか」

俺は少し考えた。

「思う」

「呪われても?」

「呪われたから、お前に出会えた」

 朝倉は校舎を見たまま言った。

「私も——あの席の引き出しを調べてよかったと思ってる」

「一年前の話か」

「うん。橘さんに触れようとした橘さんを止めようとして、かすった」朝倉は手のひらを見た。「あの日から、全部が動いた」

「怪異のおかげだな」

「おかげ、と言っていいか分からないけど」朝倉は俺を見た。「でも——感謝してる。引き合わせてくれたから」


校庭を出て、裏山の方に歩いた。

瀬戸神社への道の入り口で、二人は止まった。

山道を見上げた。

「最後に登るか」と俺は言った。

「登ろう」と朝倉は言った。

山道を歩いた。

春の山は、少し芽吹いていた。木の枝に小さな緑が出始めていた。

瀬戸神社に着いた。


台座に、御神体が三つ収まっていた。鏡、鶴形の飾り、剣。それから——橘さんが折った、赤い鶴。

台座の前に、二人で立った。

朝倉が目を閉じた。

少しして、目を開けた。

「静かだ」朝倉は言った。

「誰もいないのか」

「誰もいない。でも——穏やかだ。この土地全体が、穏やかになってる」朝倉は台座を見た。「全部、送れたから」

「白哉さんも、帰れた」

「帰れた」朝倉は橘さんの鶴を見た。「橘さんも、幸せだ」

「そうだな」


風が吹いた。

春の風だった。

木々が揺れて、芽吹いたばかりの小さな葉が光に透けた。


 「湊」朝倉が言った。

「何だ」

「卒業式、終わった」

「ああ」

「約束してたこと——」朝倉は俺を見た。「聞かせてくれる?」

俺は朝倉を見た。

春の光の中の朝倉は、一年半前とは違った。

出会った頃の朝倉は、一人で全部を抱えていた。ノートに書き留めて、一人で調べて、一人で向き合っていた。

今も、ノートに書く。今も、一人で考える。

でも今は——俺がいる。


「詩音」俺は言った。

「うん」

「付き合ってくれ」

朝倉はしばらく俺を見ていた。

目が、少し潤んだ。

「泣くなよ」と俺は言った。

「泣いてない」朝倉は言った。

「目が潤んでる」

「花粉だ」

「山に花粉はない」

「ある」

俺は笑った。

朝倉も、笑った。

「うん」朝倉は言った。「付き合う」

台座の前で、二人は並んで立っていた。

風が吹いた。


橘さんの赤い鶴が、台座の上で少し揺れた。

喜んでくれている気がした。

白哉さんも、どこかで見ている気がした。

この土地が——長い時間をかけて、今日に辿り着いた気がした。

「湊」朝倉が言った。

「何だ」

「地下のものの記憶の中に——この瞬間が、刻まれた気がする」

「この瞬間が?」

「うん」朝倉は空を見た。「何百年後かの誰かが、この土地の記憶を辿ったとき——私たちが、ここに立っていたことを、知るかもしれない」

「それは——」俺は考えた。「すごいな」

「すごいよ」朝倉は微かに笑った。「この土地は、全部覚えていてくれるから」


山を下りた。

校門を出た。

振り返った。

校舎が、春の光の中に立っていた。

怪異が出た校舎。でも今は、ただの学校だった。

春になると桜が咲くだろう。新入生が入ってくるだろう。また誰かがあの廊下を歩くだろう。

でももう、怪異はない。

全部、送ってあげられた。

「行こう」と俺は言った。

「うん」と朝倉は言った。


二人で歩き始めた。

朝倉の手が、俺の手に触れた。

俺は朝倉の手を握った。

朝倉は何も言わなかった。

でも少し、俺の方に近づいた。

春の道を、二人で歩いた。

どこにでもある、普通の道だった。

この土地は古い。何百年も前から、ここにある。

旅人たちが通り過ぎた。神社が建った。一族が守った。怪異が眠った。怪異が目を覚ました。そして——送られた。


全部が終わって、今は春だった。

俺たちは卒業した。

新しい場所へ向かう。

でもここに戻ってくる。毎年、桜の季節に。橘さんの鶴が神社にある限り。

それで十分だった。

夕方、朝倉が家の近くで立ち止まった。

「湊」

「何だ」

「今日から——よろしく」

「こちらこそ」

朝倉は少し笑った。


角を曲がりかけて、振り返った。

「また明日」

「ああ」

「学校じゃなくても、また明日がある」朝倉は言った。

「そうだな」

「それが——嬉しい」

朝倉は角を曲がった。

姿が見えなくなった。

俺は一人で立っていた。

夕暮れの住宅街。

春の風が吹いた。

この土地の風だった。

古くて、穏やかで、温かい風。

何百年も前から吹いていた風。

これからも吹き続ける風。

俺は空を見上げた。

星が一つ、出ていた。

まだ夕暮れなのに、一番星が出ていた。

橘さんかもしれない、と思った。

白哉さんかもしれない、と思った。

遠い国に帰った旅人たちかもしれない、と思った。


でも誰でもよかった。

ただ、きれいだった。

スマホが鳴った。

朝倉からだった。

家から星が見える

俺も見てた

一番星だ

そうだな

誰だと思う?


俺は少し考えた。

全員だと思う

しばらく間があった。

そうだね。全員が見てる

見守ってくれてる

うん

また間があった。


湊

何だ

この土地に生まれてよかった

俺はここに来てよかった

来てくれてよかった

お互い様だ

最後に、一行来た。

この校舎には、まだいる

俺は少し笑った。

誰が?

私たちの記憶が

それは怪異じゃないだろ

怪異じゃない

じゃあ、いていい

うん。ずっと、いていい

スマホを ポケット にしまった。

もう一度、星を見た。

この土地は古い。

これからも続いていく。

俺たちが去っても、この土地は続いていく。

でも俺たちの記憶も、続いていく。

この土地が覚えていてくれる。

全部を、覚えていてくれる。


春の風が吹いた。

俺は歩き始めた。

新しい季節へ向かって。

でもいつかまた、ここに戻ってくる。

そう決めているから。

 

高校生活の二人の物語はこれで終わりになります。


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