卒業前の怪異
一月が来た。
センター試験が終わって、三年生の教室から少しずつ人が減っていった。推薦で決まった者、試験を終えた者。みんなそれぞれの春に向かって動き始めていた。
俺と朝倉は同じ大学を受けることにした。
示し合わせたわけじゃなかった。志望校を話したら、同じだった。
「偶然か」と俺は言った。
「偶然じゃないと思う」と朝倉は言った。
それだけだった。それだけで十分だった。
試験が終わった翌週、久しぶりに図書室で向かい合って座った。
朝倉はノートを広げていた。
でも何も書いていなかった。
「どうした」と俺は聞いた。
「一つ、気になることがある」朝倉はペンを持ったまま言った。
「何が」
「この学校で、怪異に関わってから一年半が経った。鶴の日から数えて」朝倉はノートを見た。「でも——一つだけ、解決していないことがある気がして」
「何だ」
「橘芽衣さん」朝倉は静かに言った。
俺は少し考えた。
「橘さんは、第一シーズンで送られた。瀬戸神社に鶴を返して——」
「送られた。でも——」朝倉はペンを置いた。「私、ずっと気になってる。橘さんが、なぜあの席にいたのか。なぜ人形を触ってしまったのか。その前の話を、私たちは知らない」
「今更、どうするんだ」
「どうもしない。ただ——知りたい」朝倉は窓の外を見た。「卒業する前に、橘さんのことをちゃんと知りたい」
翌日、田村先生に話した。
先生は橘芽衣の話になると、少し目を伏せた。
「あの子の前の話か」
「橘さんがなぜ、あの席の人形に触れたのか」と朝倉が聞いた。
「知ってる」先生は静かに言った。「ずっと、話せなかった」
「話してもらえますか」
先生は長い沈黙の後、口を開いた。
橘芽衣は、転校生だった。
一年前の四月、別の学校からこの学校に来た。理由は家庭の事情で、友達と別れて来た子だった。
「あの子は——明るかった。でも、孤独だった」先生は言った。「新しい学校に馴染もうとしていたけど、なかなかうまくいかなかった」
「その状態で、怪異に触れてしまったんですね」と朝倉が言った。
「触れたのは、偶然じゃないかもしれない」先生は目を伏せた。「孤独な人間ほど、引き寄せられやすい。あの人形が、あの席の引き出しに入っていた理由も——孤独な誰かを求めていたから」
「帰れない者が、同じ孤独を感じる者を引き寄せた」朝倉は静かに言った。
「そう思う」
「橘さんは今、幸せだと思いますか」俺は聞いた。
先生は少し間を置いた。
「神社に帰れた。だから——幸せだと思いたい」先生は顔を上げた。「でも確かめる方法がない。それが、ずっと気になっていた」
図書室に戻って、朝倉は黙って座っていた。
しばらくして、口を開いた。
「確かめられるかもしれない」
「どうやって」と俺は聞いた。
「地下のものの記憶に——橘さんが帰った後のことが、残っているかもしれない」朝倉は目を閉じた。「白哉さんが送り届けた記憶が」
「探せるか」
「やってみる」
朝倉は静かに呼吸した。
俺は黙って待った。
一分が経った。
朝倉の顔が、ゆっくりと緩んだ。
目が潤んだ。
でも悲しい顔じゃなかった。
朝倉が目を開けた。
「見えた」
「橘さんが?」
「白哉さんの記憶の中に、あった」朝倉は目元を拭った。「橘さんを送り届けたとき——橘さんは、笑っていた」
「笑っていた」
「うん。白哉さんの手を握って、ありがとうと言って——光の中に行った」朝倉は窓の外を見た。「一人じゃなかった。白哉さんが、ちゃんと一緒にいてくれたから」
俺は何も言えなかった。
「よかった」朝倉は静かに言った。「孤独じゃなかった。最後は、一人じゃなかった」
その話を先生に伝えた。
先生は聞きながら、目を閉じた。
しばらく動かなかった。
それから、深く息をついた。
「……よかった」先生は言った。「それが聞けて、よかった」
「先生」と朝倉が言った。
「何だ」
「先生も、一人じゃなかったですよ。ずっと」
先生は朝倉を見た。
「橘さんを覚え続けていた先生が、私たちを引き寄せた。先生がいたから、全部が繋がった」
先生は何も言えなかった。
目が、潤んでいた。
その夜。
俺は一人で校舎に残っていた。
試験の自己採点をするつもりだったが、気づいたら窓の外を見ていた。
冬の校庭。
誰もいない。
あの放課後に似ていた、と思った。
一年半前、掃除当番をさぼった罰で、一人で教室を拭いていた。あの夕方と似た、静かさだった。
廊下を歩いた。
三年生の教室を抜けて、二年生のフロアへ。
二年三組の前で、足が止まった。
今は別のクラスが使っている教室だ。でも引き戸の前に立つと、あの日のことが蘇った。
引き戸を開けた。
誰もいない、暗い教室。
一番後ろの窓際の席に、歩いていった。
引き出しを開けた。
空だった。
当然だ。
でも——引き出しの底に、何かがあった。
小さな、折り紙だった。
赤い折り紙で折られた、小さな鶴。
俺は息を呑んだ。
触れなかった。
一年半前の俺なら、何も考えずに触れていた。でも今の俺は、手を止めた。
鶴を見つめた。
怖くはなかった。怪異の気配がなかった。呪いの重さがなかった。
ただ、小さくて、きれいな鶴だった。
誰かが折った鶴。
俺には分かった。
橘芽衣が折った鶴だ。
消える前に、この席に残していった。
朝倉に連絡した。
今、二年三組にいる。来られるか
返信は早かった。
行く
五分もしないうちに、朝倉が来た。
俺は引き出しを指した。
朝倉は鶴を見た。
しゃがんで、顔を近づけた。
「橘さんが折ったのか」と朝倉は聞いた。
「そう思う」
「いつ折ったんだろう」
「消える前の日か——当日か」俺は言った。「でも残していった。誰かに見つけてほしかったのかもしれない」
朝倉はしばらく鶴を見ていた。
「取り出していいと思う」朝倉は静かに言った。「もう怪異じゃない。ただの折り紙だ」
「どうする、取り出して」
「神社に持っていく」朝倉は立ち上がった。「橘さんが折ったものを、橘さんがいる場所に」
翌朝、二人で山に登った。
冬の山は空気が澄んでいた。足元に霜が降りていた。
瀬戸神社の境内に入った。
台座の前に立った。
朝倉が鶴を両手で持った。
「橘さん」朝倉は静かに言った。「あなたが折った鶴を、持ってきました。あなたがいる場所に、置いていきます」
台座に、鶴を置いた。
風が吹いた。
境内の木が揺れた。
落ち葉が舞い上がった。
その中に——一瞬だけ、光が見えた。
小さな光。温かい光。
瞬いて、消えた。
「見えたか」と俺は聞いた。
「見えた」朝倉は静かに笑った。「ありがとう、って言ってた」
「また言ってたのか」
「今度は——もっと、軽い声だった。本当に、幸せそうだった」
山を下りながら、朝倉が言った。
「これで、全部終わった気がする」
「そうだな」
「鶴の日から始まって、鶴で終わった」朝倉は空を見た。「なんか、きれいだな」
「お前らしい感想だ」
「褒めてるの?」
「褒めてる」
朝倉は少し笑った。
「卒業まで、あと二ヶ月だ」俺は言った。
「そうだね」
「怪異はもう出ないと思うか」
「出ないと思う」朝倉は静かに言った。「この土地の古いものは、全部送れた。残っているのは——この土地そのものだけ」
「この土地そのものは、怪異じゃないのか」
「怪異じゃない」朝倉は俺を見た。「ただの、古くて、きれいな土地だ」
校舎が見えてきた。
冬の朝日が、窓に反射していた。
「湊」朝倉が言った。
「何だ」
「卒業したら——また、ここに来よう」
「約束した」
「うん。でも、もう一つ」朝倉は俺を見た。「来るたびに、この山に登ろう。橘さんの鶴が、神社にある限り」
「毎年か」
「毎年」朝倉は静かに言った。「忘れないために」
俺は朝倉を見た。
「分かった。毎年来よう」
「約束」
「約束だ」
昇降口の前で、凛が待っていた。
「どこ行ってたんですか、朝から」
「山」と俺は言った。
「また山ですか」凛は呆れた顔をした。「今日、補講あるの知ってます?」
「知ってる」
「急いでください」凛は先に中に入った。「あ、朝倉先輩」
「何?」と朝倉が言った。
「もうすぐ卒業ですね。寂しいです」
朝倉は少し考えた。
「でも——終わりじゃない」
「そうですか?」
「そうだ。また来るから」朝倉は凛を見た。「この学校に、また来る」
凛は少し目を潤ませた。
「約束ですよ」
「約束だ」
その夜、スマホが鳴った。
朝倉からだった。
今日、橘さんの鶴を持っていけてよかった
ああ
一年半前の、あの放課後から——ずっと引っかかってた
そうだったのか
うん。橘さんが孤独だったと知って——私も、一年間一人で調べてたから。重なる部分があって
俺は少し考えてから打った。
でも今は違う
違う
一人じゃない
一人じゃない。湊がいるから
俺は天井を見た。
詩音
何?
卒業しても、一人にしない
返信が来るまで、少し時間がかかった。
知ってる
でも言いたかった
うん
ありがとう、湊
卒業まで、あと二ヶ月。
怪異は静かだった。
この土地は、穏やかだった。
それで十分だった。




