冬の夜に聞こえる声
週末が近づくにつれて、朝倉の夢が変わっていった。
助けを求める声から、歌に変わった。
朝倉がそれを話してくれたのは、木曜日の帰り道だった。
二人で並んで歩きながら、朝倉は言った。
「昨日の夢、歌が聞こえた」
「歌?」
「知らない言語の歌。でも——子守唄みたいだった。悲しいけど、温かい」朝倉は白い息を吐いた。「目が覚めても、頭の中に残ってた」
「歌えるか」
「歌えない。音が、人間の声で出せない感じがする」朝倉は少し考えた。「でも——メロディーは覚えてる。文化祭のとき、音楽室で田村先生がピアノを弾いたみたいに。誰かが音にしてくれれば、形になるかもしれない」
「また先生に頼むか」
「そう思ってる」朝倉は俺を見た。「でも今回は、先生だけじゃ足りない気がする」
「誰が必要だ」
「湊の父さん」朝倉は静かに言った。「儀式のとき、旅人たちの歌が聞こえれば——方角が定まる気がする。遠い国への道が、開く気がする」
「感覚的な話だな」
「私の中の記憶が、そう言ってる」朝倉は少し笑った。「感覚だけど、外れたことがないから」
「信じる」と俺は言った。
朝倉は少し驚いた顔をした。
「すぐ信じるね」
「お前の感覚を疑う理由がない」
朝倉は前を向いた。
「……ありがとう」
金曜日の夜、父から連絡が来た。
明日の朝、そちらに着く。準備しておいてくれ
分かった。朝倉に伝える
湊、一つ聞いていいか
何だ
朝倉さんは、大丈夫か。毎晩夢を見ていると言っていたが
俺は少し考えた。
大丈夫だと思う。でも疲れてる
そうか。儀式は朝倉さんに負担がかかる。無理をさせるな
分かってる
湊
何だ
お前が側にいてやれ。それが一番大事だ
俺はスマホを見つめた。
分かった
その夜遅く、朝倉からメッセージが来た。
起きてる?
起きてる。どうした
夢を見た。さっき
歌か?
違う。今回は——旅人たちの顔が見えた
俺は起き上がった。
どんな顔だった
若い人が多かった。商人みたいな服を着てた。疲れた顔をしていたけど——笑ってた
笑ってた?
うん。明日、帰れると分かったのかもしれない。嬉しそうだった
俺は窓の外を見た。冬の夜空。星が多かった。
朝倉、今日はちゃんと眠れるか
眠れると思う。さっきの夢が穏やかだったから
なら、眠れ。明日に備えて
うん。でも一つだけ
何だ
明日、儀式が終わったら——湊と二人で、山に行きたい
神社に?
神社の手前でいい。二人で、旅人たちを見送りたい
俺は少し微笑んだ。
分かった。二人で行こう
ありがとう。おやすみ
おやすみ
翌朝、父が来た。
今回も和装だった。でも前回と少し違った。旅装束みたいな、動きやすい格好だった。
朝倉を見て、父は静かに頭を下げた。
「また会えたね」
「お久しぶりです」朝倉も頭を下げた。
「夢を見ていると聞いた。顔色が悪い」
「明日には治ると思います」
「今日で終わらせよう」父は山の方を見た。「準備はいいか」
田村先生が音楽室の鍵を開けてくれた。
先生はグランドピアノの前に座った。
「また弾くんだな」先生は鍵盤を見た。
「先生のピアノが必要です」朝倉は言った。「旅人たちの歌を、音にするために」
「聞こえているか、今も」
「聞こえています。ずっと頭の中に」
「伝えてくれ。私が音にする」先生は指を鍵盤の上に置いた。「何十年かに一度、こういう役目が回ってくるんだな」
「先生が音楽を続けてきたのは、このためだったのかもしれません」と凛が言った。
「かもしれないな」先生は少し笑った。「そう思うことにする」
朝倉が先生の隣に立った。
目を閉じた。
頭の中に流れ続けているメロディーを、言葉で伝え始めた。
「最初は、低い音から。ゆっくりと。三つ続けて、少し上がって——」
先生が弾き始めた。
最初の音が、音楽室に響いた。
朝倉の顔が、少し緩んだ。
「そう。合ってます。次は——」
音が重なっていった。
俺は後ろに立って、二人を見ていた。
父が隣に来た。小声で言った。
「旅人たちが、喜んでいるのが分かるか」
「分からない」俺は正直に言った。
「そうか」父は微かに笑った。「私には少し分かる。音が届いているんだ。地下まで」
メロディーが形になっていった。
子守唄みたいだ、と朝倉が言っていた。確かにそうだった。でも子守唄より、もっと広かった。広い砂漠を渡る風みたいな、大きな旋律だった。
凛が目を閉じた。
「聞こえる」凛は小声で言った。「水無瀬家の血が、この音に反応してる。古い、古い音だ」
「この土地に来た人たちが、覚えていた歌だから」と父が言った。「故郷の歌だ」
俺は床を見た。
地下に、彼らがいる。
ずっと眠っていた。故郷の歌を、ずっと待っていた。
メロディーが完成した。
先生が最後の音を弾いた。
音楽室が静かになった。
朝倉が目を開けた。
「これだ」朝倉は静かに言った。「この歌だった」
「届いたと思うか」と父が聞いた。
「届いた。夢の中で、聞こえていた歌が——外に出た感じがする」朝倉は床を見た。「旅人たちが、目を覚ましている」
「では行こう」父は立ち上がった。「地上で待っている彼らを、帰してあげよう」
五人で裏山に向かった。
俺と朝倉、凛、田村先生、父。
冬の山道は静かだった。落ち葉が全部落ちて、木の骨格だけが見えた。空が広かった。
瀬戸神社の手前で、父が足を止めた。
「ここでいい」父は言った。「神社の境内より、少し手前がいい。旅人たちはこの土地の怪異じゃないから」
「どうするんですか」と凛が聞いた。
「西の方角に向けて、作法を行う」父は風呂敷包みを開いた。「シルクロードは西だ。遠い国への道を、開く」
父が準備を始めた。
朝倉が父の隣に立った。
「私は何をすればいいですか」
「この土地の記憶を、繋ぎ止めていてほしい」父は言った。「旅人たちを送り出すとき、この土地が彼らを解放するように——朝倉さんの記憶が、橋になる」
「分かりました」
朝倉は目を閉じた。
俺は朝倉の後ろに立った。
前回、音楽室で朝倉が怪異を封じたとき、後ろにいた。今回も同じだ。触れない。でも、そこにいる。
父が作法を始めた。
桐島家の古い言葉だった。以前に神社を閉じたときの言葉とも違う。もっと遠い響きがあった。
西の空に向かって、父が言葉を紡いだ。
風が来た。
冬の山で、温かい風が来た。
おかしかった。十二月の山に、温かい風。
砂漠の風だ、と俺は思った。
遠い国から来た風だ。
朝倉が小さく声を上げた。
「来た」
「何が来た」と俺は小声で聞いた。
「旅人たちが、上がってきてる。地下から」朝倉は目を閉じたまま言った。「私の記憶の中を通って、上がってきてる。橋になってる」
「大丈夫か」
「大丈夫。重くない。むしろ——軽い。彼らが軽いから」
父の言葉が続いた。
風が強くなった。
俺には見えなかった。でも感じた。
何かが、俺たちの横を通り過ぎていった。
一つ、また一つ。
温かくて、軽くて、どこか懐かしい何かが——西の空に向かって、流れていった。
凛が泣いていた。
「見えます」凛は小声で言った。「光が——西に向かって、流れていく」
田村先生も空を見上げていた。
「きれいだな」先生は静かに言った。
父の言葉が、最後の一節に入った。
風が最大になった。
木々が揺れた。落ち葉が舞い上がった。
そして——
静かになった
完全な静寂が来た。
風が止まった。
温かさが、消えた。
でも寒くはなかった。
朝倉が目を開けた。
「行った」朝倉は西の空を見た。「全員、行った」
「帰れたのか」と俺は聞いた。
「帰れた」朝倉は微かに笑った。「夢が——終わった感じがする。頭の中が、静かになった」
俺は朝倉の顔を見た。
確かに違った。
四日間、眠れていなかった顔が——穏やかになっていた。
「よかった」と俺は言った。
「うん」朝倉は目を細めた。「よかった」
父が振り返った。
俺たちを見て、小さく頷いた。
「終わった」
「お疲れ様でした」と朝倉が言った。
「お疲れ様、ではなく——ありがとう、だ」父は朝倉に言った。「朝倉さんの橋がなければ、彼らは上がってこられなかった」
「地下のものの記憶があったから、できたことです」
「その記憶を受け取ったのは、あなただ」父は空を見た。「桐島家とこの土地が、長い間できなかったことを——今日、あなたたちが全部やり切った」
山を下りながら、田村先生が言った。
「これで、全部か」
「全部だと思います」と朝倉が言った。
「鶴の怪異から始まって——シルクロードの旅人まで」先生は苦笑いした。「この学校は、本当にいろんなものを抱えていたんだな」
「この土地が古いから」と凛が言った。「古い土地には、古いものが積もる」
「そうだな」先生は空を見た。「でも——全部、送ってあげられた」
「送ってあげられた」朝倉は繰り返した。
俺は朝倉の横顔を見た。
満足そうだった。
疲れているけど、清々しい顔だった。
校舎の前で、父と別れた。
「次は卒業式だな」父は俺に言った。
「来るのか」
「当たり前だ」父は少し笑った。「今度は普通の父親として来る。怪異の話ではなく」
「そうしてくれ」
父は朝倉に向かって頭を下げた。
「朝倉さん、湊のことを——よろしく」
朝倉は少し顔を赤くしながら、頭を下げた。
「こちらこそ」
父が歩いていった。
俺は父の背中を見送った。
朝倉が隣に来た。
「お父さん、毎回それを言うね」
「癖みたいになってるな」
「嫌じゃない」朝倉は少し笑った。「むしろ——嬉しい。
その夕方、二人で山に戻った。
約束通り、瀬戸神社の手前で立ち止まった。
西の空が、夕暮れで赤かった。
朝倉は西の空をしばらく見ていた。
「見えないけど——あっちに行ったんだな」
「そうだな」
「遠い国。砂漠と青い空の国」朝倉は目を細めた。「夢の中で見た景色。きれいだった」
「いつか行けるかもしれないな」
「行きたいな」朝倉は俺を見た。「湊と」
「じゃあ行こう。卒業したら」
「大学どうするの」
「この県内で考えてる」
「私も」朝倉は前を向いた。「じゃあ大学に入ったら、旅行しよう。遠くに」
「砂漠に行くか」
「砂漠でもどこでも」朝倉は静かに言った。「湊と一緒なら」
俺は朝倉を見た。
夕暮れの光の中で、朝倉は西の空を見ていた。
一年半前、あの放課後に出会った朝倉とは——少し違って見えた。
同じ無表情で、同じ静かな目で。
でも今は、隣にいた。
「朝倉」
「何?」
「一つ、聞いていいか」
「聞いて」
「地下のものの記憶が入ってから——幸せか」
朝倉は少し驚いた顔をした。
それから、考えた。
「重い日もある」朝倉は正直に言った。「何百年分の記憶が流れてくると、自分がどこにいるか分からなくなることがある」
「そうか」
「でも——」朝倉は俺を見た。「湊の声が聞こえると、戻ってこられる」
俺は何も言えなかった。
「名前を呼んでくれると、ここに戻ってこられる」朝倉は続けた。「だから——幸せだと思う。重くても、幸せだと思う」
「そうか」
「うん」
夕暮れの風が吹いた。
朝倉の髪が揺れた。
俺は朝倉の名前を呼んだ。
「詩音」
朝倉が俺を見た。
少し目が大きくなった。
「名前で呼んだ」
「ああ」
「初めてだ」
「そうだな」
朝倉は少し笑った。
泣きそうで、笑っている顔だった。
「もう一回」
「詩音」
朝倉は目を閉じた。
「ここにいる」朝倉は静かに言った。「ちゃんと、ここにいる」
日が落ちるまで、二人で西の空を見ていた。
旅人たちが帰っていった空を。
遠い国の歌が、まだどこかに残っているみたいな空を。
卒業まで、あと三ヶ月だった。
初めて下の名前を呼ぶのってドキドキしますよね♪




