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朝倉詩音の怪異録  作者: ゆるっとおやじ


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22/24

普通の一日

何も無い一日が最高の一日なのです。

文化祭当日。

朝から空が青かった。

十月の空は高くて、どこまでも澄んでいた。校庭に生徒が集まって、笑い声が聞こえた。看板が風に揺れていた。


俺は昇降口の前に立って、空を見上げた。

怪異の気配が、なかった。

完全に、なかった。

第一シーズンから三年間、この学校に来てからずっと何かを感じ続けてきた。でも今日は——ただの秋の空だった。


「珍しい顔してるね」

後ろから声がした。

振り返ると、朝倉が立っていた。

制服じゃなかった。文化祭だから私服だ。

紺色のワンピースに、薄い白のカーディガン。髪をいつもより少し丁寧に整えていた。


俺は少し固まった。

「どうしたの」と朝倉が言った。

「いや」

「変だった?」

「変じゃない」俺は前を向いた。「似合ってる」

朝倉は何も言わなかった。でも横に並んできた。


「何も感じない」朝倉も空を見た。

「ああ」

「初めてかもしれない。この学校に来て、何も感じない朝が」

「そうだな」

朝倉は少し笑った。

「悪くない」


凛が走ってきた。

「先輩たち、お店の準備できましたよ!」

三年生のクラスは喫茶店をやることになっていた。俺たちのクラスも同じだった。

「行くか」と俺は言った。

「行く」と朝倉は言った。

凛が二人の間に割り込んだ。

「先輩たち、今日は普通に文化祭楽しみましょうね」

「普通に楽しむ予定だ」と俺は言った。


「怪異が出ても追いかけないでくださいよ」

「出ないと思う」と朝倉が言った。

「出なければいいですけど」凛は空を見た。「でも出たら、私も行きますよ」

「出ない」朝倉は歩き出した。「今日くらいは、普通にしていられると思う」


午前中、クラスの喫茶店を手伝った。

俺は飲み物を運ぶ係だった。朝倉はレジを担当していた。凛は接客係で、入ってくる客全員に元気よく挨拶していた。


普通だった。

怪異も、怖い声も、地面の振動も、何もなかった。ただのうるさくて楽しい文化祭だった。

昼過ぎに交代の時間が来た。

俺と朝倉は同じ時間に抜けた。

「どこか行くか」と俺は言った。

「他のクラス、見て回ろう」と朝倉は言った。

二人で校舎を歩いた。


一年生のお化け屋敷に入った。

朝倉は一切怖がらなかった。仕掛けを見るたびに「ここから出てくるんだね」と冷静に言った。

「楽しめてるのか」と俺は聞いた。

「楽しんでる」朝倉は言った。「本物を見てきたから、作り物は怖くない。でも——作った人たちの頑張りは分かる」

「それが楽しいのか」

「それが楽しい」

二年生の展示を見た。朝倉が絵の前で足を止めた。


「きれいだね」

「ああ」

「人間が作るものって、きれいだと思う。怪異も、土地の記憶も、きれいだと思ってたけど——人間が作るものの方が、もっと温かい」

俺は朝倉を見た。

「地下のものの記憶が入ってから、そういうことを思うようになったのか」

「そうかもしれない」朝倉は絵を見たまま言った。「何百年分の記憶があると——人間の一瞬一瞬が、すごく輝いて見える。あっという間に終わるから」

「それは——重くないか」

「重い日もある。でも今日は、重くない」朝倉は俺を見た。「今日は軽い。湊と一緒にいるから」


俺は何も言えなかった。

朝倉は絵に向き直った。

耳が、赤かった。

屋上解放があった。

文化祭の日だけ、屋上に上がれる。

俺と朝倉は屋上に出た。

他の生徒もいたけど、端の方は空いていた。二人で柵の前に立った。


学校全体が見えた。校庭に人が溢れていた。テントが並んで、音楽が聞こえた。

裏山が見えた。

瀬戸神社がある山。地下の神が眠っている山。白哉さんが百年守り続けた山。

ただの、秋の山だった。


「きれいだな」と俺は言った。

「うん」と朝倉は言った。

「この景色、卒業したら見られなくなるな」

「そうだね」朝倉は山を見た。「でも——来ようと思えば来られる」

「卒業してから?」

「うん。この土地の記憶が私の中にある限り、ここは私の場所だと思うから」朝倉は俺を見た。「湊は?」

「俺も、またここに来たいと思う」

「一人で来るの?」

「お前と来たい」


朝倉は少し目を細めた。

「約束する?」

「する」

「卒業してからも、ここに来る約束」

「ああ」俺は朝倉を見た。「二人で」


朝倉は山の方を向いた。

風が吹いた。朝倉の髪が揺れた。

「……うん」朝倉は静かに言った。「約束」

午後、田村先生を見かけた。

校庭の端に、先生が一人で立っていた。

木下の姿はなかった。

先生に近づいた。


「木下さんは?」と俺は聞いた。

「帰った。今日、北川さんのところに行くと言っていた」先生は校庭を見た。「一人で行くと。私は——後日、一緒に行く」

「そうですか」

「お前たちのおかげだ」先生は俺と朝倉を見た。「田村先生をやってきて、本当によかったと思っている。こんな生徒たちを担任できて」

「先生こそ」と朝倉が言った。「先生がいなかったら、私たちだけでは無理だった」

「そんなことはない」先生は少し笑った。「私はほとんど、お前たちの後ろをついていっただけだ」

「それが一番、助かりました」朝倉は静かに言った。「後ろにいてくれる人がいると、前に進める」

 先生は朝倉を見た。それから俺を見た。

「お互い様だな」


夕方になった。

文化祭の終わりを告げる放送が流れた。

後片付けが始まった。

俺たちのクラスも、喫茶店の片付けをした。凛が率先して動いていた。俺も朝倉も手を動かした。


片付けが終わった頃、空が赤くなっていた。

帰り道、三人で並んで歩いた。

凛が言った。

「今日、何もなかったですね」

「何もなかった」と俺は言った。

「文化祭で怪異が出なかったのは、初めてじゃないですか」

「初めてだな」

「よかった」凛は空を見た。「普通の文化祭だった。でも——楽しかった」

「俺も楽しかった」

「私も」と朝倉が言った。

三人で少し笑った。


駅の前で、凛が手を振った。

「また来週、学校で」

「ああ」

「朝倉先輩、今日きれいでしたよ」

 朝倉は少し固まった。

「……ありがとう」

「桐島先輩も、そう思いますよね?」

「思う」と俺は言った。

朝倉の耳が赤くなった。


「帰る」朝倉は歩き出した。

「待て」

「帰る」

「同じ方向だろ」

朝倉は足を止めた。

「……そうだった」

二人で並んで帰った。

住宅街の道を、夕暮れの中で歩いた。

しばらく黙っていた。


朝倉が言った。

「来年の春、卒業したら——どこに行くの?」

「大学は、この県内で考えてる。祖母の家から通える範囲で」

「そうか」朝倉は足元を見た。「私も、この県内の大学を考えてる」

「そうなのか」

「そう」朝倉は少し間を置いた。「この土地の記憶が私の中にある限り、あまり遠くには行けない気がして」

「離れると、何か起きるのか」

「分からない。でも——遠くに行く気になれない」朝倉はちらりと俺を見た。「他にも、理由はあるけど」

「他の理由って」

朝倉は答えなかった。


でも少しだけ、俺の方に近づいた。

肩が触れるくらいの距離で、並んで歩いた。

俺は何も言わなかった。

朝倉も何も言わなかった。


でも、それで十分だった。

朝倉の家の近くまで来た。

角の前で、朝倉が止まった。

「湊」

「何だ」

朝倉は俺を見た。真剣な顔だった。

「一つ、言っていい?」

「言えよ」

朝倉は少し深呼吸をした。


「この一年半、ずっと一緒にいてくれてありがとう。鶴の日から、今日まで」

俺は朝倉を見た。

「鶴の日から、か」

「そう。あの放課後、湊が転校してきて——あの席を掃除して、触れてしまった日から」朝倉は目を伏せた。「あの日から、一人じゃなくなった」

「俺もだ」と俺は言った。

「え?」

「俺も、一人じゃなくなった。あの日から」

朝倉は俺を見た。


「湊は——あの日、困っただけでしょ。呪われて」

「最初はそうだった」俺は正直に言った。「でも——気づいたら、困ったことより、お前と一緒にいることの方が大きくなってた」

朝倉は何も言えなかった。

目が、潤んでいた。

「泣くのか」と俺は言った。

「泣かない」朝倉は目元を押さえた。「泣いてない」

「泣いてるだろ」

「泣いてない」

俺は少し笑った。

朝倉も、泣きながら少し笑った。


「湊」

「何だ」

「好き」

俺は固まった。

朝倉は俺を見たまま、もう一度言った。

「好き。ずっと、言えなかったけど——今日は言えた」

俺はしばらく朝倉を見ていた。


夕暮れの中の朝倉は、泣きそうで、笑っていて、ひどく真剣な顔をしていた。

「俺も」と俺は言った。

「え?」

「俺も、好きだ。ずっと」

朝倉は目を大きくした。

それから、また少し泣きそうになった。

「言ってくれればよかったのに」

「お前が先に言わないから」

「湊が先に言えばよかったのに」

「お互い様だろ」

朝倉は笑った。

ちゃんと笑った。

俺も笑った。

夕暮れの風が吹いた。

朝倉の髪が揺れた。


少しして、朝倉は角を曲がって帰っていった。

俺は角に立って、朝倉が見えなくなるまで見ていた。

振り返り際に、朝倉が小さく手を振った。

俺も振り返した。

角を曲がって、消えた。

俺はしばらく、その場に立っていた。

夕暮れの住宅街。どこにでもある、普通の景色。

でも今日は、世界が少し違って見えた。


明るかった。

理由は分かっていた。

その夜、スマホが鳴った。

朝倉からだった。

今日、言えてよかった

俺もよかった

緊張した

声が震えてなかったぞ

震えてた。内側で


俺は笑った。

来年の春、卒業しても——

約束、覚えてる

二人でここに来る約束

覚えてる。忘れない

少し間があった。


何だ

また明日

ああ。また明日

スマホを置いた。

窓の外に、夜空が広がっていた。

星が出ていた。


この学校には、まだ何かが眠っているかもしれない。

来年の春、俺たちは卒業する。

でも終わりじゃない。

朝倉がいる。凛がいる。田村先生がいる。

この土地の記憶が、朝倉の中にある。

俺たちが出会ったあの放課後から続いてきたものが、これからも続いていく。

形を変えながら、でも続いていく。

それで十分だ。


夜風が窓を揺らした。

裏山の方から、静かな風だった。

まるで、この土地が——ありがとう、と言っているみたいだった。

第四シーズン完結です。

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