普通の一日
何も無い一日が最高の一日なのです。
文化祭当日。
朝から空が青かった。
十月の空は高くて、どこまでも澄んでいた。校庭に生徒が集まって、笑い声が聞こえた。看板が風に揺れていた。
俺は昇降口の前に立って、空を見上げた。
怪異の気配が、なかった。
完全に、なかった。
第一シーズンから三年間、この学校に来てからずっと何かを感じ続けてきた。でも今日は——ただの秋の空だった。
「珍しい顔してるね」
後ろから声がした。
振り返ると、朝倉が立っていた。
制服じゃなかった。文化祭だから私服だ。
紺色のワンピースに、薄い白のカーディガン。髪をいつもより少し丁寧に整えていた。
俺は少し固まった。
「どうしたの」と朝倉が言った。
「いや」
「変だった?」
「変じゃない」俺は前を向いた。「似合ってる」
朝倉は何も言わなかった。でも横に並んできた。
「何も感じない」朝倉も空を見た。
「ああ」
「初めてかもしれない。この学校に来て、何も感じない朝が」
「そうだな」
朝倉は少し笑った。
「悪くない」
凛が走ってきた。
「先輩たち、お店の準備できましたよ!」
三年生のクラスは喫茶店をやることになっていた。俺たちのクラスも同じだった。
「行くか」と俺は言った。
「行く」と朝倉は言った。
凛が二人の間に割り込んだ。
「先輩たち、今日は普通に文化祭楽しみましょうね」
「普通に楽しむ予定だ」と俺は言った。
「怪異が出ても追いかけないでくださいよ」
「出ないと思う」と朝倉が言った。
「出なければいいですけど」凛は空を見た。「でも出たら、私も行きますよ」
「出ない」朝倉は歩き出した。「今日くらいは、普通にしていられると思う」
午前中、クラスの喫茶店を手伝った。
俺は飲み物を運ぶ係だった。朝倉はレジを担当していた。凛は接客係で、入ってくる客全員に元気よく挨拶していた。
普通だった。
怪異も、怖い声も、地面の振動も、何もなかった。ただのうるさくて楽しい文化祭だった。
昼過ぎに交代の時間が来た。
俺と朝倉は同じ時間に抜けた。
「どこか行くか」と俺は言った。
「他のクラス、見て回ろう」と朝倉は言った。
二人で校舎を歩いた。
一年生のお化け屋敷に入った。
朝倉は一切怖がらなかった。仕掛けを見るたびに「ここから出てくるんだね」と冷静に言った。
「楽しめてるのか」と俺は聞いた。
「楽しんでる」朝倉は言った。「本物を見てきたから、作り物は怖くない。でも——作った人たちの頑張りは分かる」
「それが楽しいのか」
「それが楽しい」
二年生の展示を見た。朝倉が絵の前で足を止めた。
「きれいだね」
「ああ」
「人間が作るものって、きれいだと思う。怪異も、土地の記憶も、きれいだと思ってたけど——人間が作るものの方が、もっと温かい」
俺は朝倉を見た。
「地下のものの記憶が入ってから、そういうことを思うようになったのか」
「そうかもしれない」朝倉は絵を見たまま言った。「何百年分の記憶があると——人間の一瞬一瞬が、すごく輝いて見える。あっという間に終わるから」
「それは——重くないか」
「重い日もある。でも今日は、重くない」朝倉は俺を見た。「今日は軽い。湊と一緒にいるから」
俺は何も言えなかった。
朝倉は絵に向き直った。
耳が、赤かった。
屋上解放があった。
文化祭の日だけ、屋上に上がれる。
俺と朝倉は屋上に出た。
他の生徒もいたけど、端の方は空いていた。二人で柵の前に立った。
学校全体が見えた。校庭に人が溢れていた。テントが並んで、音楽が聞こえた。
裏山が見えた。
瀬戸神社がある山。地下の神が眠っている山。白哉さんが百年守り続けた山。
ただの、秋の山だった。
「きれいだな」と俺は言った。
「うん」と朝倉は言った。
「この景色、卒業したら見られなくなるな」
「そうだね」朝倉は山を見た。「でも——来ようと思えば来られる」
「卒業してから?」
「うん。この土地の記憶が私の中にある限り、ここは私の場所だと思うから」朝倉は俺を見た。「湊は?」
「俺も、またここに来たいと思う」
「一人で来るの?」
「お前と来たい」
朝倉は少し目を細めた。
「約束する?」
「する」
「卒業してからも、ここに来る約束」
「ああ」俺は朝倉を見た。「二人で」
朝倉は山の方を向いた。
風が吹いた。朝倉の髪が揺れた。
「……うん」朝倉は静かに言った。「約束」
午後、田村先生を見かけた。
校庭の端に、先生が一人で立っていた。
木下の姿はなかった。
先生に近づいた。
「木下さんは?」と俺は聞いた。
「帰った。今日、北川さんのところに行くと言っていた」先生は校庭を見た。「一人で行くと。私は——後日、一緒に行く」
「そうですか」
「お前たちのおかげだ」先生は俺と朝倉を見た。「田村先生をやってきて、本当によかったと思っている。こんな生徒たちを担任できて」
「先生こそ」と朝倉が言った。「先生がいなかったら、私たちだけでは無理だった」
「そんなことはない」先生は少し笑った。「私はほとんど、お前たちの後ろをついていっただけだ」
「それが一番、助かりました」朝倉は静かに言った。「後ろにいてくれる人がいると、前に進める」
先生は朝倉を見た。それから俺を見た。
「お互い様だな」
夕方になった。
文化祭の終わりを告げる放送が流れた。
後片付けが始まった。
俺たちのクラスも、喫茶店の片付けをした。凛が率先して動いていた。俺も朝倉も手を動かした。
片付けが終わった頃、空が赤くなっていた。
帰り道、三人で並んで歩いた。
凛が言った。
「今日、何もなかったですね」
「何もなかった」と俺は言った。
「文化祭で怪異が出なかったのは、初めてじゃないですか」
「初めてだな」
「よかった」凛は空を見た。「普通の文化祭だった。でも——楽しかった」
「俺も楽しかった」
「私も」と朝倉が言った。
三人で少し笑った。
駅の前で、凛が手を振った。
「また来週、学校で」
「ああ」
「朝倉先輩、今日きれいでしたよ」
朝倉は少し固まった。
「……ありがとう」
「桐島先輩も、そう思いますよね?」
「思う」と俺は言った。
朝倉の耳が赤くなった。
「帰る」朝倉は歩き出した。
「待て」
「帰る」
「同じ方向だろ」
朝倉は足を止めた。
「……そうだった」
二人で並んで帰った。
住宅街の道を、夕暮れの中で歩いた。
しばらく黙っていた。
朝倉が言った。
「来年の春、卒業したら——どこに行くの?」
「大学は、この県内で考えてる。祖母の家から通える範囲で」
「そうか」朝倉は足元を見た。「私も、この県内の大学を考えてる」
「そうなのか」
「そう」朝倉は少し間を置いた。「この土地の記憶が私の中にある限り、あまり遠くには行けない気がして」
「離れると、何か起きるのか」
「分からない。でも——遠くに行く気になれない」朝倉はちらりと俺を見た。「他にも、理由はあるけど」
「他の理由って」
朝倉は答えなかった。
でも少しだけ、俺の方に近づいた。
肩が触れるくらいの距離で、並んで歩いた。
俺は何も言わなかった。
朝倉も何も言わなかった。
でも、それで十分だった。
朝倉の家の近くまで来た。
角の前で、朝倉が止まった。
「湊」
「何だ」
朝倉は俺を見た。真剣な顔だった。
「一つ、言っていい?」
「言えよ」
朝倉は少し深呼吸をした。
「この一年半、ずっと一緒にいてくれてありがとう。鶴の日から、今日まで」
俺は朝倉を見た。
「鶴の日から、か」
「そう。あの放課後、湊が転校してきて——あの席を掃除して、触れてしまった日から」朝倉は目を伏せた。「あの日から、一人じゃなくなった」
「俺もだ」と俺は言った。
「え?」
「俺も、一人じゃなくなった。あの日から」
朝倉は俺を見た。
「湊は——あの日、困っただけでしょ。呪われて」
「最初はそうだった」俺は正直に言った。「でも——気づいたら、困ったことより、お前と一緒にいることの方が大きくなってた」
朝倉は何も言えなかった。
目が、潤んでいた。
「泣くのか」と俺は言った。
「泣かない」朝倉は目元を押さえた。「泣いてない」
「泣いてるだろ」
「泣いてない」
俺は少し笑った。
朝倉も、泣きながら少し笑った。
「湊」
「何だ」
「好き」
俺は固まった。
朝倉は俺を見たまま、もう一度言った。
「好き。ずっと、言えなかったけど——今日は言えた」
俺はしばらく朝倉を見ていた。
夕暮れの中の朝倉は、泣きそうで、笑っていて、ひどく真剣な顔をしていた。
「俺も」と俺は言った。
「え?」
「俺も、好きだ。ずっと」
朝倉は目を大きくした。
それから、また少し泣きそうになった。
「言ってくれればよかったのに」
「お前が先に言わないから」
「湊が先に言えばよかったのに」
「お互い様だろ」
朝倉は笑った。
ちゃんと笑った。
俺も笑った。
夕暮れの風が吹いた。
朝倉の髪が揺れた。
少しして、朝倉は角を曲がって帰っていった。
俺は角に立って、朝倉が見えなくなるまで見ていた。
振り返り際に、朝倉が小さく手を振った。
俺も振り返した。
角を曲がって、消えた。
俺はしばらく、その場に立っていた。
夕暮れの住宅街。どこにでもある、普通の景色。
でも今日は、世界が少し違って見えた。
明るかった。
理由は分かっていた。
その夜、スマホが鳴った。
朝倉からだった。
今日、言えてよかった
俺もよかった
緊張した
声が震えてなかったぞ
震えてた。内側で
俺は笑った。
来年の春、卒業しても——
約束、覚えてる
二人でここに来る約束
覚えてる。忘れない
少し間があった。
湊
何だ
また明日
ああ。また明日
スマホを置いた。
窓の外に、夜空が広がっていた。
星が出ていた。
この学校には、まだ何かが眠っているかもしれない。
来年の春、俺たちは卒業する。
でも終わりじゃない。
朝倉がいる。凛がいる。田村先生がいる。
この土地の記憶が、朝倉の中にある。
俺たちが出会ったあの放課後から続いてきたものが、これからも続いていく。
形を変えながら、でも続いていく。
それで十分だ。
夜風が窓を揺らした。
裏山の方から、静かな風だった。
まるで、この土地が——ありがとう、と言っているみたいだった。
第四シーズン完結です。




