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朝倉詩音の怪異録  作者: ゆるっとおやじ


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21/24

二十五年分の言葉

文化祭前日の金曜日。

放課後、田村先生が木下を呼び出した。

場所はまた、旧校舎の和室だった。

俺たちは廊下で待つことになっていた。朝倉は「最初は二人で話すべきだ」と言った。俺もそう思った。


和室の引き戸が閉まった。

廊下に、俺と朝倉と凛が並んで座った。

秋の夕暮れが、廊下の窓を橙色に染めていた。

「緊張する」と凛が小声で言った。

「するな」と俺も小声で言った。

「朝倉先輩は?」

「する」朝倉はノートを膝に置いたまま、和室の引き戸を見ていた。「でも先生を信じる」


和室の中から、声は聞こえなかった。

分厚い引き戸が、全部遮っていた。

十分が経った。

二十分が経った。

凛が膝を抱えた。

「長いですね」

「二十五年分の話だから」と俺は言った。

「そうか」凛は頷いた。「そりゃ長いか」

朝倉が静かに言った。


「先生、ちゃんと話せてるといいな」

「話せてると思う」俺は言った。「先生は、ずっと準備してきたから」

「二十五年間?」

「二十五年間」

朝倉は小さく息をついた。

「そうだね」


三十分が経った頃、引き戸が開いた。

田村先生が出てきた。

顔が、いつもと違った。疲れているけど、軽くなったような顔だった。何か重いものを、少し降ろしたような。

「入ってくれ」先生は言った。「木下も、話したいと言っている」

和室に入った。


木下透が座っていた。

さっきまでの、余裕のある講師の顔じゃなかった。背が少し丸くなって、手を膝の上で組んでいた。目が、疲れていた。


俺たちが座ると、木下はゆっくりと頭を下げた。

「田村から、君たちのことを聞いた。この学校で起きてきたことを」

「全部ですか」と朝倉が聞いた。

「全部。瀬戸神社のことも、地下の神のことも」木下は顔を上げた。「君たちが、この土地のためにやってきたことを」

俺は黙っていた。


「私は——」木下は言葉を選ぶように、ゆっくり話した。「この土地の血を引きながら、この土地を傷つけた。水無瀬家の記録を持ち出して、怪異を私欲のために使った」

「北川さんの記憶を消したことですか」と凛が聞いた。


木下は凛を見た。

「君が水無瀬家の末裔か」

「はい」

「そうか」木下は目を伏せた。「水無瀬家の記録を盗んだことも、謝らなければならない」

「盗んだ理由を、教えてもらえますか」と朝倉が聞いた。

木下はしばらく黙っていた。


「力が欲しかった。ただ、それだけだ。情けない理由だ」木下は手を見た。「水無瀬家の血があるから、記録を読んだとき自然に使えてしまった。最初は小さなことだった。嫌いな人間の、自分への悪口の記憶を消した。それだけのつもりだった」

「でも止まらなくなった」と朝倉が言った。

「そうだ。使えば使うほど、怪異が深く根付いた。気づいたときには——自分でも制御できなくなっていた」木下は顔を上げた。「北川は、それに気づいていた。やめろと言ってくれた。でも私は——聞かなかった。聞けなかった」

「北川さんの記憶を消したのは」

「怖かったから」木下は静かに言った。「北川に告発されることが怖かった。怪異を使い続けることが怖かった。でも止められなかった。全部が怖くて——逃げた」


和室が静かになった。

田村先生が口を開いた。

「木下、一つ聞いていいか」

「何でも聞いてくれ」

「北川さんの記憶を消したとき——後悔したか」

木下は即座に答えた。


「その瞬間から、ずっと後悔している」

「なぜすぐに謝りに行かなかった」

「行けなかった。行ったところで、北川はもう私を知らない。周りも誰も覚えていない。謝っても意味がないと思った」木下は目を伏せた。「でも本当は——怖かった。向き合うことが」

「二十五年間、逃げ続けたのか」

「そうだ」木下は頷いた。「情けない男だ」

先生は少し間を置いた。

「北川さんは、覚えていた」


木下が顔を上げた。

「え?」

「周りの記憶は消えた。でも北川さん自身の記憶は消えていなかった。二十五年間、全部覚えていた」

木下の目が、揺れた。

「そんな——」


「北川書房という出版社を作った。あなたと同じ名前をつけた」先生は静かに言った。「北川さんは、あなたを恨んでいなかった」

木下は何も言えなかった。

目が、潤んでいた。

朝倉が口を開いた。


「木下さん、一つお願いがあります」

木下は朝倉を見た。

「怪異を、手放してほしいんです」

「手放す?」

「木下さんの中に根付いた怪異を、封じたい。でも無理矢理はできない。木下さん自身が、手放す気持ちにならないと」朝倉は静かに言った。「今、できますか」

木下はしばらく黙っていた。


「手放したら——私はどうなる」

「普通の人間に戻ります」朝倉は言った。「怪異の力はなくなる。でも、木下さんは木下さんのままだ」

「普通の人間に」木下は繰り返した。「二十五年ぶりに」

「はい」

木下は目を閉じた。


長い沈黙が続いた。

俺は息を止めて待った。

木下がゆっくりと目を開けた。

「頼む」木下は静かに言った。「手放させてくれ」

朝倉が立ち上がった。

木下の前に座った。


「目を閉じていてください」

木下が目を閉じた。

朝倉が両手を、木下の胸の前にかざした。触れない。でもすぐそこまで近づけた。

「凛」

「はい」凛が立ち上がった。朝倉の隣に座った。「何をすればいいですか」

「私が怪異を引き出す。凛は水無瀬家の言葉で、それを封じて」

「分かりました」

俺と先生は後ろに下がった。


朝倉が目を閉じた。

地下のものの記憶を、手繰り寄せているんだと俺は思った。何百年分の記憶の中から、根付いた怪異の解き方を探している。


朝倉の手が、微かに光った。

白い光じゃなかった。

ほんのりとした、温かいオレンジ色の光だった。秋の夕暮れみたいな色だった。

木下が、かすかに顔を歪めた。


「痛いですか」と朝倉が聞いた。目を閉じたまま。

「痛くない」木下は言った。「でも——何かが、抜けていく感じがする」

「抵抗しないでください。手放す気持ちで」

「分かった」

木下の体から、何かが滲み出てきた。

煙みたいなものだった。黒くて、でも重くなかった。ゆっくりと、木下の胸の辺りから漏れ出てきた。


凛が言葉を唱え始めた。

水無瀬家の古い言葉。地下の神を封じたときと同じ響き。でも今回はもっと柔らかかった。怪異を追い払うんじゃなく、包み込むような音だった。


煙が、凛の言葉に引き寄せられた。

ゆっくりと集まって、一つの塊になった。

凛の言葉が最後の一節に入った。

塊が、光になった。

白い光が一瞬だけ瞬いて——消えた。

静寂が来た。


木下が目を開けた。

何かが違った。さっきまでの、重さを纏った目じゃなかった。軽くて、透き通っていた。

「終わったか」木下は言った。

「終わりました」と朝倉が言った。「どうですか」

「軽い」木下は自分の手を見た。「二十五年間、こんなに軽かったことがなかった」

先生が一歩前に出た。

「木下」


木下は先生を見た。

「北川さんの記憶を——周りに戻すことは、できるか」

朝倉が口を開いた。

「それが、最後にやることだと思っています」

朝倉が田村先生の前に立った。

「先生、目を閉じてください」

「何をする」

「先生の中に、北川さんの記憶が残っています。二十五年間、薄れずに残っていた記憶が」朝倉は静かに言った。「それを核にして、消えた記憶を呼び戻す。この土地の記憶の中に、全部残っているから」

「私の記憶を使うのか」

「先生の記憶が、一番鮮明に残っています。それが鍵になる」


先生は目を閉じた。

朝倉が地下のものの記憶に入っていくのが、俺には分かった。この土地が何百年もかけて記録してきた、全ての出来事の中から——二十五年前の、北川さくらの記憶を探している。


朝倉の目から、涙が一筋流れた。

「朝倉」と俺は思わず言った。

「大丈夫」朝倉は言った。「ただ——たくさんあって。みんなが北川さんを覚えていた記憶が。笑っていた北川さんの記憶が」

木下が顔を覆った。


朝倉が両手を広げた。

オレンジ色の光が、また灯った。

今度は大きかった。和室全体を照らすくらいの光だった。


朝倉が静かに言った。

「北川さくらさんを、覚えていてください。この光の中に、みんなの記憶があります。受け取ってください」

光が、和室の外に広がっていった。

壁を通り抜けて、廊下に。廊下から、校舎中に。

俺は光の中に立っていた。

温かかった。


頭の中に、何かが戻ってきた感じがした。

北川さくら、という名前が——自然に、そこにあった。

出会ったことのない人のはずなのに。でも「知っている」という感覚があった。この土地が覚えていた記憶が、俺にも流れてきた。


木下が声を上げた。

「ああ——」

泣いていた。

五十代の男が、子どもみたいに泣いていた。

「返せた」木下は言った。「やっと、返せた」

光が収まった。

和室が、静かになった。


田村先生が目を開けた。

先生の顔が、俺が見てきた中で一番穏やかだった。

「……ありがとう」先生は朝倉に言った。

「先生の記憶があったから、できました」朝倉は言った。「先生が二十五年間、忘れなかったから」

先生は木下を見た。

木下も先生を見た。

二人は、しばらく黙っていた。


「木下」先生は言った。「北川さんに、会いに行け」

「……ああ」木下は頷いた。「行く。今度こそ、ちゃんと」

「私も——一緒に行く」先生は言った。「北川さんに、謝らなければならないことがある。私も、止めなかった」

「田村——」

「二人で行こう。二十五年越しで」

木下は何も言えなかった。

ただ、深く頷いた。


和室を出た。

廊下の窓から、夕暮れの校庭が見えた。

文化祭の看板が風に揺れていた。

凛が大きく息をついた。

「終わった——」

「終わった」と俺は言った。


「朝倉先輩、大丈夫ですか」凛は朝倉を見た。「泣いてましたよ」

「大丈夫」朝倉は目元を拭った。「ただ——北川さんの記憶が、たくさんあって。それだけ、みんなに愛されていた人だったんだと思って」

「取り戻せてよかった」と凛が言った。

「うん」

俺は朝倉の隣を歩いた。

廊下の端で、二人になった。

「無理してないか」と俺は聞いた。

「してない」朝倉は窓の外を見た。「でも——疲れた」


「そうだろうな」

「地下のものの記憶の中に、入り込みすぎた。たくさんの人の記憶が流れてきて——少し、頭が痛い」

「保健室行くか」

「いい。ここにいれば治る」


朝倉は窓に額をつけた。

夕暮れの光が、朝倉の横顔を照らした。

俺は何も言わなかった。

ただ、隣にいた。


しばらくして、朝倉が言った。

「湊」

「何だ」

「今日——ありがとう」

「俺は何もしてない」

「いてくれた」朝倉は窓から顔を離して、俺を見た。「それが一番、助かった」

俺は朝倉を見た。

夕暮れの中の朝倉は、いつもより少し柔らかく見えた。


「明日、文化祭だな」と俺は言った。

「そうだね」

「何もなければいいけど」

「何もないと思う」朝倉は少し笑った。「今日で、全部終わった気がするから」

「そうか」

「うん」朝倉はまた窓の外を見た。「たまには、普通の一日があってもいいと思う」

「同感だ」

和室から、田村先生と木下の声が聞こえた。

内容は聞こえなかった。

でも笑い声が、一度だけ聞こえた。


二十五年ぶりに、二人が笑った声だと思った。

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