木下透が来た
月曜日の朝、職員室の前に貼り紙があった。
非常勤講師着任のお知らせ 木下 透 先生(国語担当)
俺は貼り紙を見て、朝倉に写真を送った。
返信はすぐ来た。
見た。今日から来るみたい
先生には伝えたか
昨夜、メッセージした。先生も知らなかったみたい
俺は職員室の方を見た。
田村先生がいた。いつも通りの顔をしていた。でも目が、少し違った。緊張しているというより——覚悟している目だった。
木下透が現れたのは、一時間目が始まる前だった。
廊下を歩いてくる姿を、俺は教室の窓から見た。
五十代くらいだろうか。背が高くて、細くて、白髪交じりの髪を綺麗に撫でつけていた。スーツが似合っていた。
普通の人だった。
どこにでもいる、普通の中年男性だった。
でも廊下を歩くとき、他の先生たちが自然に道を開けていた。意識してじゃなく、無意識に。まるで引力があるみたいに。
朝倉が隣に来た。
「見た?」と俺は聞いた。
「見た」朝倉は窓から目を離さなかった。「あの人、何か纏ってる」
「怪異か?」
「違う。怪異そのものじゃない。でも——長い間、怪異と関わってきた人間の匂いがする」朝倉は静かに言った。「地下のものの記憶の中に、似た匂いがあった。何かを操ろうとした人間の」
一時間目、木下は三年A組の授業に入った。
俺たちのクラスじゃなかった。でも昼休み、A組の生徒が話しているのを聞いた。
「新しい先生、すごくない?」
「なんか、話を聞いてるうちに引き込まれた」
「国語なのに、気づいたら一時間終わってた」
俺は朝倉と顔を見合わせた。
「引き込まれた、か」と俺は言った。
「普通の授業の感想じゃないね」朝倉はノートにメモした。「話術に、何か混じってるかもしれない」
「授業で怪異を使ってるのか」
「使ってるというより——滲み出てる。長い間怪異と関わってきたから、自然に影響が出てしまう」朝倉はペンを置いた。「意図的かどうかは、まだ分からない」
放課後、田村先生に呼ばれた。
いつもの和室だった。今日は先生の顔が、明らかに疲れていた。
「会ったか、木下に」と先生は聞いた。
「廊下で見ただけです」と俺は言った。
「授業を受けていないか」
「俺たちのクラスには来てない」
先生は少し安堵した顔をした。
「できるだけ、直接関わらない方がいい」
「なぜですか」と朝倉が聞いた。
「木下は——人の心の隙間に入り込む。話しているうちに、自分でも気づかないうちに、影響される」先生は手を組んだ。「大学時代、私もそうだった。気づいたら木下のやることを手伝っていた」
「先生も手伝っていたんですか」俺は少し驚いた。
「二十五年前の話だ」先生は目を伏せた。「怪異に巻き込まれた仲間が消えたとき、私は何もできなかった。それどころか——止めようとしなかった」
「それが、ずっと引っかかっていたんですね」と朝倉が言った。
「そうだ。あの子を消したのは木下だ。でも私も、見ていただけだった」
「消された人の名前は?」と朝倉が聞いた。
「北川 さくら。同じゼミの女子学生だった」先生は静かに言った。「明るくて、よく笑う子だった。木下と口論になって、翌日から来なくなった。みんなの記憶から薄れていって——一週間後には、誰も覚えていなかった」
「先生だけが覚えていた」
「薄れかけた。でも完全には消えなかった。田村家の血のせいか、それとも——私がどこかで抵抗していたのか」先生は俺たちを見た。「今でも覚えている。北川さんの顔を」
朝倉はしばらく黙っていた。
「北川さんは、今どこにいるんですか」
「分からない。消えた後、どこに行ったのかも——生きているのかも」先生は手を見た。「でも木下が記憶を消したなら、どこかに存在しているはずだ。記憶を消しても、人間そのものは消えない」
「つまり」俺は言った。「北川さんは今も、どこかにいる」
「そう思う。でも誰も覚えていないから、探せなかった」先生は顔を上げた。「二十五年間、それが——一番、苦しかった」
和室を出た。
廊下に出た瞬間、俺たちは足を止めた。
廊下の向こうに、木下透が立っていた。
職員室に向かっていたのか、書類を抱えていた。
俺たちに気づいた。
目が合った。
木下は笑った。穏やかな、教師らしい笑顔だった。
「君たちは三年生かな」
「はい」と俺は答えた。
「田村先生のクラスか。よく来ているね、この部屋に」木下は和室の方を見た。「田村先生と、仲がいいんだね」
「お世話になっています」
「そうか」木下はまた笑った。「私も昔、田村先生とは縁があってね。久しぶりの再会で、嬉しいよ」
俺は何も言わなかった。
木下の目が、笑っていなかった。
口は笑っている。でも目が、俺たちを値踏みしていた。何者かを確かめるように。
「文化祭の準備、頑張りなさい」木下は歩き出した。「楽しい思い出を作れるといいね」
廊下を歩いていく木下の背中を、俺は見ていた。
朝倉が小声で言った。
「気づいてる」
「俺たちのことを?」
「私たちが怪異に関わっていることを。全部ではないけど——感じてる」朝倉は木下の背中が廊下の角に消えるまで見ていた。「それと」
「何だ」
「さっき、木下さんと目が合った瞬間——記憶の中の何かが、揺れた」
「地下のものの記憶が?」
「そう。木下さんが持っている怪異が、私の中の記憶に反応した」朝倉は静かに言った。「木下さんが使っている怪異——水無瀬家の記録から来たものだと確信した」
その日の夜、凛から連絡が来た。
見つかりました。水無瀬家の古い記録
記憶を操るものについて書いてあったやつか
はい。でも——なくなってた
なくなった?
該当のページだけ、切り取られてました。昔に
木下さんが持ち出したんだ
そう思います。切り口が古くて、何十年も前に切り取られた感じでした
俺は朝倉にも転送した。
朝倉からすぐ返信が来た。
木下さんがこの土地の出身なら、水無瀬家の記録に接触できた可能性がある
でもなぜ水無瀬家の記録を知っていたんだ
それが分からない。でも一つ考えられることがある
何だ
木下透という名前——水無瀬家の記録の中に、似た名前があったかもしれない。凛に確認してみる
少し間があって、また返信が来た。
凛に聞いた。木下という名前は水無瀬家の記録にはなかった。でも——
でも?
木下透の母親の旧姓が、水無瀬だったと凛が言ってる。凛の家の遠縁にあたる人らしい
俺は天井を見た。
木下さんは、水無瀬家の血を引いているのか
そう。でも解放派じゃなくて——封印派の朝倉家寄りの血筋だったらしい。でも何かの理由で、封印じゃなく使う方を選んだ
なぜそっちを選んだんだ
返信が来るまで、少し時間がかかった。
分からない。でも——桐島くん、一つ思ったことがある
何だ
木下さんが北川さんの記憶を消したのは、二十五年前。でも今もこの土地の近くにいて、この学校に来た。それは偶然じゃないと思う
何かを探してるのか
探してるか、それとも——
また間があった。
後悔してるのかもしれない
翌朝、早めに登校した。
昇降口に、木下が立っていた。
朝の空気の中、一人で校庭を見ていた。俺に気づくと、また笑った。
「早いね」
「先生も早いですね」
「歳を取ると、朝早く目が覚めてしまう」木下は校庭を見た。「いい学校だね。空気が澄んでいる」
「そうですね」
「この土地は——古い」木下は空を見上げた。「来るたびに感じる。何百年も、ここにあるものの重さを」
俺は黙っていた。
「君は、感じないかな」木下は俺を見た。「この土地の重さを」
「少し感じます」
「そうか」木下は頷いた。「正直な子だね」木下は昇降口に向かった。「田村先生によろしく」
木下が中に入った。
俺はしばらく校庭を見ていた。
この土地の重さを、木下も感じていた。
水無瀬家の血を引いているから、当然かもしれない。
でも木下の目は——懐かしんでいるように見えた。
後悔してるのかもしれない、という朝倉の言葉を思い出した。
朝倉が後ろから来た。
「話してたの?」
「少し」
「何を話した」
「この土地の重さの話」俺は朝倉を見た。「木下さん、この土地のことを愛してる気がした」
「愛してる人間が、記憶を消す怪異を使う?」
「それが——一番怖いことだと思う」
朝倉は少し考えてから、頷いた。
「そうだね」
文化祭まで、あと五日だった。




