文化祭前夜
十月になった。
学校中が文化祭の準備で浮き足立っていた。廊下には看板が並び、教室からは作業する声が漏れていた。
三年生にとっては最後の文化祭だ。
俺はそれをあまり意識しないようにしていた。意識すると、終わりが近いことを考えてしまうから。
朝倉は相変わらずだった。
文化祭の準備をしながら、合間にノートを広げていた。最近は怪異の記録だけじゃなく、地下のものの記憶を書き留めることも増えていた。
「何か見えたのか」と俺は聞いた。
「昨日の夜、夢を見た」朝倉はノートから目を上げた。「田村先生が、若い頃の夢」
「地下のものの記憶に、先生が?」
「先生じゃない。先生の、もっと若い頃の話。二十年以上前の——先生がまだ学生だった頃の記憶が、混じり込んでいた」
「どんな夢だったんだ」
朝倉はペンを置いた。
「先生が、この学校に来る前の話だと思う。別の場所で、誰かと一緒にいた。その人が——」朝倉は少し考えた。「怪異に関わっていた」
「先生の過去に、怪異があったのか」
「たぶん。でも先生から聞いたことがない話だった」朝倉は窓の外を見た。「聞いてみようかと思ってる」
放課後、田村先生を訪ねた。
先生は職員室で一人、採点をしていた。俺たちが来るなり、ペンを置いた。
「何かあったか」
「怪異じゃないんですが」と朝倉が言った。「先生のことで、少し気になることがあって」
先生は少し表情を変えた。
「私のこと?」
「先生が学生だった頃——怪異に関わったことがありますか」
静寂が落ちた。
先生は採点用紙を裏返した。ゆっくりとした動作だった。
「……なぜそれを聞く」
「地下のものの記憶に、先生の若い頃らしき記憶が混じっていました」朝倉は静かに言った。「この土地と関係のある記憶が」
先生はしばらく黙っていた。
窓の外で、風が吹いた。枯れ葉が舞った。
「話したことがなかった」先生はゆっくり言った。「誰にも」
「話せますか」
先生は立ち上がった。
「職員室じゃない方がいい。来い」
連れて行かれたのは、また旧校舎の和室だった。
三人で座った。
先生は最初、天井を見ていた。何かを整理しているみたいに。
それから、口を開いた。
「二十五年前の話だ」
先生が語り始めた。
田村誠が大学生だった頃。当時先生は教育学部に通っていた。将来は教師になるつもりで、真面目に勉強していた。
同じゼミに、木下 透という男がいた。
「木下さんという人が、怪異に関わっていたんですか」と朝倉が聞いた。
「そうだ」先生は目を伏せた。「木下は変わった男だった。普通の学生なのに、心霊スポットに興味があって、怪異を意図的に引き起こそうとしていた」
「なぜそんなことを」
「力が欲しかったんだと思う。怪異を利用して、自分の思い通りに物事を動かしたかった」先生は手を見た。「最初は馬鹿にしていた。でも——木下が本当に怪異を引き起こしたとき、笑えなくなった」
「どんな怪異を引き起こしたんですか」と俺は聞いた。
先生は少し間を置いた。
「人を、消した」
沈黙が落ちた。
「消した?」と朝倉が言った。
「ゼミの仲間が一人、いなくなった。木下と揉めた後に。痕跡もなく、記憶も薄れていって——最終的に誰もその人のことを覚えなくなった」
「記憶を消す怪異を、使ったんですか」
「そう思う。でも証明できなかった。私だけが、うっすらと覚えていた」先生は顔を上げた。「田村家の血のせいかもしれない。怪異に敏感だから、完全には消えなかった」
「その後、木下さんはどうなったんですか」と俺は聞いた。
「大学を卒業して、消息が分からなくなった。私は教師になって、この学校に来た。二十年間、木下のことは忘れようとしていた」先生は静かに言った。「でも——最近、思い出すことが増えた」
「なぜ今になって」と朝倉が聞いた。
「分からない。でも——」先生は窓の外を見た。「文化祭の準備が始まった頃から、夢を見るようになった。木下が出てくる夢を」
俺と朝倉は顔を見合わせた。
「先生」と朝倉が言った。「木下さんが使った怪異——人の記憶を消す力——それは、どこから来たものだと思いますか」
「分からない。でも木下は言っていた。自分で作ったわけじゃない、拾ったと」
「拾った?」
「どこかで見つけた、と言っていた。古いものを」先生は眉を寄せた。「詳しくは教えてくれなかった。でも——この辺りの出身だったから」
「木下さん、この土地の出身なんですか」と俺は聞いた。
「そうだ。この町の出身だと言っていた」
朝倉がノートを開いた。
「人間が引き起こした怪異。でもその元になったものは、この土地にあった何かだ」朝倉はペンを走らせた。「木下さんが今、この土地の近くにいるとしたら——」
「文化祭の時期に先生が夢を見始めた。何かのタイミングがある」俺は言った。「木下さんが、また動き始めたのかもしれない」
先生は静かに言った。
「私も——そう思い始めていた」
和室を出た。
廊下を歩きながら、朝倉が小声で言った。
「人の記憶を消す怪異。それをコントロールできる人間がいるとしたら——」
「厄介だな」と俺は言った。
「これまでとは違う。怪異そのものじゃなくて、怪異を使う人間が相手だから」
「怪異は封じられる。でも人間は——」
「簡単じゃない」朝倉は廊下の窓から外を見た。文化祭の看板が風に揺れていた。「でも、やることは同じだと思う。向き合うしかない」
俺は朝倉を見た。
「怖いか」
「怖い」朝倉は素直に言った。「相手が人間だから、余計に」
「一緒に向き合う」
「うん」朝倉は歩き出した。「分かってる」
翌朝、凛に話した。
凛は話を聞きながら、だんだん顔色が変わっていった。
「記憶を消す怪異——」凛は小声で言った。「私、何か知ってるかもしれない」
「何を知ってるんだ」と俺は聞いた。
「水無瀬家の古い記録に、それらしいものがあった。土地の記憶を操るもの。封じるんじゃなくて、使う方法が書いてあって——」凛は顔を上げた。「おかしいと思って、読まなかった。でも誰かが読んでいたとしたら」
「木下さんが、水無瀬家の記録を読んだ可能性がある」朝倉が静かに言った。
「木下さんって——」凛は少し考えた。「水無瀬家と関係がある人なんですか」
「調べてみないと分からない」俺は言った。「でも可能性はある」
凛は鞄を開けた。
「家に帰って、記録を探してみます。あの記録がまだ残っているかどうか」
「気をつけろよ」と俺は言った。「読まなくていい。あるかどうかだけ確認してくれ」
「分かりました」凛は頷いた。それから少し不安そうな顔をした。「先輩たち、記憶消されたりしないですよね」
「消されない」と朝倉が言った。「消される前に、こっちが動く」
凛は少し笑った。
「朝倉先輩、頼もしい」
「当たり前だ」
その夜、俺はベッドに横になりながら考えた。
これまでの怪異は、全部この土地に根ざしたものだった。帰れない者、封じられた御神体、地下の神。全部、人間じゃなかった。
でも今回は違う。
人間が怪異を使っている。意図を持って、誰かの記憶を消した人間が、この土地の近くにいるかもしれない。
スマホが鳴った。
朝倉からだった。
調べたら、木下透という名前が出てきた
どこから
田村先生の昔の大学の同窓会名簿。ネットに古いのが残ってた
住所は
この町の近く。隣の市に、今も住んでいる可能性がある
俺は起き上がった。
隣の市か
そう。それと——もう一つ
何だ
少し間があった。
木下透の職業、書いてあった
何をしてる人だ
教師
俺は固まった。
教師?
そう。
しかも——
また間があった。今度は長かった。
来週から、この学校に講師として来ることが決まってる




