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朝倉詩音の怪異録  作者: ゆるっとおやじ


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16/24

この土地の最初の声

儀式から一週間が経った。

朝倉は学校に戻ってきた。体調は戻っていた。でも何かが変わっていた。

廊下を歩くとき、立ち止まることがあった。壁に手を触れて、目を閉じて、また歩き始める。


「何してるんだ」と俺は聞いた。

「聞こえる」朝倉は静かに言った。「この壁の古さが。何年前に建てられたか、どんな人が触れてきたか」

「地下のものの記憶か」

「そう思う。触れたものの歴史が、少し分かるようになった」朝倉は手を離した。「慣れるまで、時間がかかりそう」


凛はそれを聞いて、目を輝かせた。

「すごい。先輩、この学校で一番怪異に詳しい人になりましたね」

「詳しくなりたかったわけじゃないけど」朝倉は言った。でも少し誇らしそうだった。


おかしなことが起き始めたのは、その翌日だった。

音楽室のピアノが、誰もいないのに鳴った。

第二シーズンで鏡を神社に返したとき以来、音楽室は静かだったのに。

今度は鏡じゃなかった。ピアノそのものが鳴っていた。


夜の学校に残っていた用務員の坂本さんが聞いて、田村先生に連絡した。先生が俺たちに連絡した。

「また坂本さんが巻き込まれてる」と凛が言った。

「坂本さんは感じやすいんだと思う」と朝倉が言った。「悪い人じゃないけど、怪異に気づかれやすい体質がある」


翌朝、音楽室に行った。

ピアノの前に立った。

朝倉がピアノの表面に手を触れた。目を閉じた。

三十秒ほど沈黙が続いた。

「何か見えるか」と俺は聞いた。

「古い。このピアノ、相当古い」朝倉は目を開けた。「でもピアノ自体に問題があるわけじゃない。ピアノが、何かを受信してる」

「受信?」

「アンテナみたいになってる。どこかから発信されている何かを、ピアノが受け取って音にしている」

「どこから発信されてるんだ」

朝倉は床を見た。

「下から」


凛が床にしゃがんだ。

手を床に当てた。目を閉じた。

「聞こえます」凛は小声で言った。「音楽みたいな——でも音楽じゃない。もっと古いもの」

「言葉か?」と朝倉が聞いた。

「言葉に近い。でも今の言葉じゃない。もっとずっと古い」凛は顔を上げた。「地下の神が封じられたとき、最後に何か言ったと思います。その声が、まだ地面の中に残ってる」

「残ってる?」俺は聞いた。


「封じられた神の、最後の言葉。それが地面の中をぐるぐると回り続けて、出口を探してる」朝倉が続けた。「ピアノがそれを拾った」

「出口を探してるということは——」俺は考えた。「出してやれば、収まるのか」

朝倉と凛が顔を見合わせた。

「たぶん」と凛が言った。「でも、どうやって出すのか」


田村先生を呼んだ。

先生は話を聞いてから、少し考えた。

「神の最後の言葉を、外に出す方法か」先生は音楽室を見回した。「ピアノがアンテナになっているなら——ピアノを使えないか」

「どういう意味ですか」と凛が聞いた。

「受信しているなら、発信もできるはずだ。ピアノで、その声を音にしてやれば——外に出られるんじゃないか」


朝倉はしばらく考えた。

「理屈は合ってる。でも誰が弾くんですか。神の声を音にするなんて、普通のピアノの腕じゃ」

先生は少し笑った。

「私は昔、ピアノを習っていた」

三人は先生を見た。

「本当ですか」と俺は言った。


「本当だ。もう何十年も弾いていないが——」先生はピアノの前に立った。「体が覚えているかもしれない」

凛が床に手を当てた。

地面の下から聞こえてくる声を、凛が感じ取った。音の高さ、長さ、リズム。それを少しずつ言葉にして、先生に伝えた。


先生がピアノの前に座った。

鍵盤に指を乗せた。

凛が言った。

「最初は低い音から。ゆっくりと」

先生が鍵盤を押した。

低い音が、音楽室に響いた。

床の振動が、少し変わった。

「そう」凛は目を閉じたまま言った。「次は少し高く。三つ続けて」


先生が弾いた。

朝倉が壁に手を当てた。

「響いてる。壁の中に、伝わってる」

凛が次の音を伝えた。先生が弾いた。また次の音。また弾く。

だんだんと、メロディーになっていった。


それは不思議な音楽だった。

俺には音楽の知識がない。でもその旋律は、聞いたことがないのに懐かしかった。

山の音みたいだった。川の音みたいだった。土の匂いがするみたいだった。

人間が作った音楽じゃなかった。でも確かに、美しかった。


朝倉の目に、涙が光った。

「朝倉」と俺は小声で言った。

「地下のものの記憶の中にある」朝倉は静かに言った。「この旋律。ずっと昔、この土地に初めて人が来たとき、聞こえていた音だ」

「地下の神の声が、この音だったのか」

「そう思う。名前のない神の、最初の声」

凛が最後の音を伝えた。

先生が弾いた。

音が、消えた。

静寂が来た。

床の振動が、完全に止まった。


凛が手を床から離した。ゆっくりと立ち上がった。

「出た」凛は言った。「声が、出ていった」

「どこへ」と俺は聞いた。

「空へ。地面から、空へ」凛は天井を見た。「封じられた神の最後の言葉が、ようやく届いた」

「誰に届いたんだ」

「神様に」凛は静かに笑った。「どの神様かは分からないけど。でも、ちゃんと届いたと思う」

田村先生がピアノの鍵盤から手を離した。

長い沈黙があった。


先生は鍵盤を見たまま、静かに言った。

「弾けた」

「はい」と朝倉が言った。

「何十年も弾いていなかったのに」先生は手のひらを見た。「体が覚えていた」

「先生も、この土地に呼ばれていたのかもしれません」と凛が言った。「田村家として、最後まで関わるように」

先生はしばらく黙っていた。


「そうかもしれないな」先生は立ち上がった。「呼ばれたなら、応えるしかない」

音楽室を出た。

廊下に春の光が差し込んでいた。

四人で並んで歩いた。

凛が言った。

「これで本当に終わりですか」

「終わりじゃないと思う」と朝倉が言った。


「またすぐ何か出ますか」

「この学校にいる限り、何かは出ると思う」朝倉は廊下の窓から校庭を見た。「でも——地下の神の声が届いた。それは大きいことだと思う」

「どういう意味ですか」

「この土地の、一番古い神が——ちゃんと送られた。それは、この土地が少し軽くなったということだから」

凛はなるほど、という顔をした。


「じゃあ、これからは少し楽になるんですね」

「楽、かどうかは分からない」朝倉は少し笑った。「でも、私たちには記憶がある。地下のものが見てきた、この土地の全部の記憶が」

「それが武器になる」と俺は言った。

「そう」朝倉は俺を見た。「武器になる」

放課後、俺と朝倉は二人で図書室に残った。


凛は部活に行った。田村先生は職員会議だった。

向かい合って座って、しばらく何も言わなかった。

朝倉がノートを開いた。

新しいページに、今日のことを書き始めた。

俺はそれを見ていた。

「朝倉」

「何?」

「地下のものの記憶、重くないか。毎日」


朝倉は書く手を止めた。

「重い日もある」朝倉は正直に言った。「朝起きたとき、知らない景色が頭の中にあることがある。何百年前のこの土地の景色が」

「辛いか」

「辛くはない。ただ——」朝倉は窓の外を見た。「孤独だな、と思うことがある。誰にも話せないから」

「俺に話せ」

 朝倉が俺を見た。

「え?」

「孤独だと思ったとき、俺に話せ。全部は理解できないかもしれない。でも聞く」

朝倉はしばらく俺を見ていた。


「……いいの?」

「いいに決まってる」

朝倉は視線を落とした。

「桐島くんは」朝倉は静かに言った。「なんでそんなに、私のそばにいてくれるの」

俺は少し考えた。

「最初は、成り行きだった」

「今は?」

「今は——」

俺は朝倉を見た。

「お前がいるから、ここにいる」


朝倉は何も言わなかった。

でもノートを持つ手が、少し震えていた。

窓の外に、夕暮れが広がっていた。

桜はもう散っていた。でも木々は緑になって、校庭を柔らかく包んでいた。

「また何か出たら」朝倉はノートに視線を戻しながら言った。「一緒に調べてくれる?」

「ああ」

「凛も、先生も、一緒に」

「ああ」

「それから——」朝倉は少し間を置いた。「桐島くんも、一緒に」

「当たり前だ」

朝倉が、小さく笑った。


夕日が図書室を橙色に染めた。

地面の下は、静かだった。

名前のない神の声は、空へ届いた。

この土地は、少しだけ軽くなった。

でもこの学校には、まだ何かが眠っているかもしれない。


それでも今は、ここにいる。

朝倉の隣に、ここにいる。

それだけで、十分だった。

第三シーズン完結です。

次はスピンオフにするか第四シーズンにするか悩んでます‥

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