この土地の最初の声
儀式から一週間が経った。
朝倉は学校に戻ってきた。体調は戻っていた。でも何かが変わっていた。
廊下を歩くとき、立ち止まることがあった。壁に手を触れて、目を閉じて、また歩き始める。
「何してるんだ」と俺は聞いた。
「聞こえる」朝倉は静かに言った。「この壁の古さが。何年前に建てられたか、どんな人が触れてきたか」
「地下のものの記憶か」
「そう思う。触れたものの歴史が、少し分かるようになった」朝倉は手を離した。「慣れるまで、時間がかかりそう」
凛はそれを聞いて、目を輝かせた。
「すごい。先輩、この学校で一番怪異に詳しい人になりましたね」
「詳しくなりたかったわけじゃないけど」朝倉は言った。でも少し誇らしそうだった。
おかしなことが起き始めたのは、その翌日だった。
音楽室のピアノが、誰もいないのに鳴った。
第二シーズンで鏡を神社に返したとき以来、音楽室は静かだったのに。
今度は鏡じゃなかった。ピアノそのものが鳴っていた。
夜の学校に残っていた用務員の坂本さんが聞いて、田村先生に連絡した。先生が俺たちに連絡した。
「また坂本さんが巻き込まれてる」と凛が言った。
「坂本さんは感じやすいんだと思う」と朝倉が言った。「悪い人じゃないけど、怪異に気づかれやすい体質がある」
翌朝、音楽室に行った。
ピアノの前に立った。
朝倉がピアノの表面に手を触れた。目を閉じた。
三十秒ほど沈黙が続いた。
「何か見えるか」と俺は聞いた。
「古い。このピアノ、相当古い」朝倉は目を開けた。「でもピアノ自体に問題があるわけじゃない。ピアノが、何かを受信してる」
「受信?」
「アンテナみたいになってる。どこかから発信されている何かを、ピアノが受け取って音にしている」
「どこから発信されてるんだ」
朝倉は床を見た。
「下から」
凛が床にしゃがんだ。
手を床に当てた。目を閉じた。
「聞こえます」凛は小声で言った。「音楽みたいな——でも音楽じゃない。もっと古いもの」
「言葉か?」と朝倉が聞いた。
「言葉に近い。でも今の言葉じゃない。もっとずっと古い」凛は顔を上げた。「地下の神が封じられたとき、最後に何か言ったと思います。その声が、まだ地面の中に残ってる」
「残ってる?」俺は聞いた。
「封じられた神の、最後の言葉。それが地面の中をぐるぐると回り続けて、出口を探してる」朝倉が続けた。「ピアノがそれを拾った」
「出口を探してるということは——」俺は考えた。「出してやれば、収まるのか」
朝倉と凛が顔を見合わせた。
「たぶん」と凛が言った。「でも、どうやって出すのか」
田村先生を呼んだ。
先生は話を聞いてから、少し考えた。
「神の最後の言葉を、外に出す方法か」先生は音楽室を見回した。「ピアノがアンテナになっているなら——ピアノを使えないか」
「どういう意味ですか」と凛が聞いた。
「受信しているなら、発信もできるはずだ。ピアノで、その声を音にしてやれば——外に出られるんじゃないか」
朝倉はしばらく考えた。
「理屈は合ってる。でも誰が弾くんですか。神の声を音にするなんて、普通のピアノの腕じゃ」
先生は少し笑った。
「私は昔、ピアノを習っていた」
三人は先生を見た。
「本当ですか」と俺は言った。
「本当だ。もう何十年も弾いていないが——」先生はピアノの前に立った。「体が覚えているかもしれない」
凛が床に手を当てた。
地面の下から聞こえてくる声を、凛が感じ取った。音の高さ、長さ、リズム。それを少しずつ言葉にして、先生に伝えた。
先生がピアノの前に座った。
鍵盤に指を乗せた。
凛が言った。
「最初は低い音から。ゆっくりと」
先生が鍵盤を押した。
低い音が、音楽室に響いた。
床の振動が、少し変わった。
「そう」凛は目を閉じたまま言った。「次は少し高く。三つ続けて」
先生が弾いた。
朝倉が壁に手を当てた。
「響いてる。壁の中に、伝わってる」
凛が次の音を伝えた。先生が弾いた。また次の音。また弾く。
だんだんと、メロディーになっていった。
それは不思議な音楽だった。
俺には音楽の知識がない。でもその旋律は、聞いたことがないのに懐かしかった。
山の音みたいだった。川の音みたいだった。土の匂いがするみたいだった。
人間が作った音楽じゃなかった。でも確かに、美しかった。
朝倉の目に、涙が光った。
「朝倉」と俺は小声で言った。
「地下のものの記憶の中にある」朝倉は静かに言った。「この旋律。ずっと昔、この土地に初めて人が来たとき、聞こえていた音だ」
「地下の神の声が、この音だったのか」
「そう思う。名前のない神の、最初の声」
凛が最後の音を伝えた。
先生が弾いた。
音が、消えた。
静寂が来た。
床の振動が、完全に止まった。
凛が手を床から離した。ゆっくりと立ち上がった。
「出た」凛は言った。「声が、出ていった」
「どこへ」と俺は聞いた。
「空へ。地面から、空へ」凛は天井を見た。「封じられた神の最後の言葉が、ようやく届いた」
「誰に届いたんだ」
「神様に」凛は静かに笑った。「どの神様かは分からないけど。でも、ちゃんと届いたと思う」
田村先生がピアノの鍵盤から手を離した。
長い沈黙があった。
先生は鍵盤を見たまま、静かに言った。
「弾けた」
「はい」と朝倉が言った。
「何十年も弾いていなかったのに」先生は手のひらを見た。「体が覚えていた」
「先生も、この土地に呼ばれていたのかもしれません」と凛が言った。「田村家として、最後まで関わるように」
先生はしばらく黙っていた。
「そうかもしれないな」先生は立ち上がった。「呼ばれたなら、応えるしかない」
音楽室を出た。
廊下に春の光が差し込んでいた。
四人で並んで歩いた。
凛が言った。
「これで本当に終わりですか」
「終わりじゃないと思う」と朝倉が言った。
「またすぐ何か出ますか」
「この学校にいる限り、何かは出ると思う」朝倉は廊下の窓から校庭を見た。「でも——地下の神の声が届いた。それは大きいことだと思う」
「どういう意味ですか」
「この土地の、一番古い神が——ちゃんと送られた。それは、この土地が少し軽くなったということだから」
凛はなるほど、という顔をした。
「じゃあ、これからは少し楽になるんですね」
「楽、かどうかは分からない」朝倉は少し笑った。「でも、私たちには記憶がある。地下のものが見てきた、この土地の全部の記憶が」
「それが武器になる」と俺は言った。
「そう」朝倉は俺を見た。「武器になる」
放課後、俺と朝倉は二人で図書室に残った。
凛は部活に行った。田村先生は職員会議だった。
向かい合って座って、しばらく何も言わなかった。
朝倉がノートを開いた。
新しいページに、今日のことを書き始めた。
俺はそれを見ていた。
「朝倉」
「何?」
「地下のものの記憶、重くないか。毎日」
朝倉は書く手を止めた。
「重い日もある」朝倉は正直に言った。「朝起きたとき、知らない景色が頭の中にあることがある。何百年前のこの土地の景色が」
「辛いか」
「辛くはない。ただ——」朝倉は窓の外を見た。「孤独だな、と思うことがある。誰にも話せないから」
「俺に話せ」
朝倉が俺を見た。
「え?」
「孤独だと思ったとき、俺に話せ。全部は理解できないかもしれない。でも聞く」
朝倉はしばらく俺を見ていた。
「……いいの?」
「いいに決まってる」
朝倉は視線を落とした。
「桐島くんは」朝倉は静かに言った。「なんでそんなに、私のそばにいてくれるの」
俺は少し考えた。
「最初は、成り行きだった」
「今は?」
「今は——」
俺は朝倉を見た。
「お前がいるから、ここにいる」
朝倉は何も言わなかった。
でもノートを持つ手が、少し震えていた。
窓の外に、夕暮れが広がっていた。
桜はもう散っていた。でも木々は緑になって、校庭を柔らかく包んでいた。
「また何か出たら」朝倉はノートに視線を戻しながら言った。「一緒に調べてくれる?」
「ああ」
「凛も、先生も、一緒に」
「ああ」
「それから——」朝倉は少し間を置いた。「桐島くんも、一緒に」
「当たり前だ」
朝倉が、小さく笑った。
夕日が図書室を橙色に染めた。
地面の下は、静かだった。
名前のない神の声は、空へ届いた。
この土地は、少しだけ軽くなった。
でもこの学校には、まだ何かが眠っているかもしれない。
それでも今は、ここにいる。
朝倉の隣に、ここにいる。
それだけで、十分だった。
第三シーズン完結です。
次はスピンオフにするか第四シーズンにするか悩んでます‥




