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朝倉詩音の怪異録  作者: ゆるっとおやじ


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15/24

地下の神と向き合う

土曜日の朝、空が白くなる前に起きた。

祖母の家を出ると、春の空気が冷たかった。まだ鳥も鳴いていない時間だ。


校門の前に、朝倉と凛と田村先生が待っていた。

朝倉は白い服を着ていた。普段は紺や黒が多い。でも今日は白だった。

「なんで白い服なんだ」と俺は聞いた。

「巻物に書いてあった。儀式のときは白を着ること」朝倉は静かに言った。「準備はいい?」

「ああ」


凛は緊張した顔をしていた。でも目が据わっていた。やると決めた顔だった。

田村先生は無言で頷いた。

四人で裏山を登った。


夜明け前の山は暗くて、静かだった。スマホのライトで足元を照らしながら登った。

瀬戸神社に着いた頃、空が少しだけ明るくなり始めていた。


境内に入った瞬間、感じた。

地面が、低く震えていた。

目に見えない振動。でも足の裏から伝わってくる、確かな揺れ。地下で何かが動いている。目を覚ましかけている。

「来るのが分かってるみたい」と凛が小声で言った。

「感じるのか」と俺は聞いた。


「足の裏から。なんか、呼ばれてる感じがします」

朝倉が台座の前に立った。

「始めよう」

巻物の手順通りに準備した。

台座の前に、二枚の布を広げた。朝倉が右側に座った。凛が左側に立った。俺と先生は少し後ろに下がった。


朝倉が懐から小さなナイフを出した。

祖母から預かってきた、古い小刀だった。儀式用だと言っていた。

「大丈夫か」と俺は聞いた。

「大丈夫」朝倉は小刀を両手で持った。「凛、始めて」


凛が深呼吸をした。

それから、言葉を唱え始めた。

古い言葉だった。

日本語じゃなかった。でも日本語より古い何かだった。音の一つ一つが、地面に染み込んでいくような響きがあった。


最初の一節が終わった瞬間、地面が動いた。

振動が強くなった。境内の石畳が、細かく揺れた。台座の御神体が、微かに光を放った。

朝倉が小刀を右手の指先に当てた。

「待って」と俺は思わず言った。

朝倉が俺を見た。

「何?」

「……痛かったら、声を出していい」

 朝倉は少し目を細めた。それから小さく笑った。

「うん」


小刀が、指先をかすかに切った。

赤い血が、一滴、滲んだ。

朝倉が血の滲んだ指を、台座の石に触れた。

その瞬間、光が来た。

台座からじゃなかった。地面からだった。地面の割れ目から、白い光が漏れてきた。

凛の声が大きくなった。


言葉が、山全体に響いていった。鳥が一斉に飛び立つ音がした。木々が揺れた。

朝倉が目を閉じた。

「朝倉」と俺は呼んだ。

朝倉は答えなかった。でも口が動いていた。何か言っていた。聞き取れなかった。


地面の光が強くなった。

境内全体が白く染まった。

その光の中に、何かが現れた。

形がなかった。

巨大で、古くて、名前のない何かだった。人間の言葉で表せるものじゃなかった。でも確かにそこにいた。


地下の神だ、と俺は思った。

神は動かなかった。ただ、そこにいた。境内全体を満たすように、ゆっくりと広がっていた。

田村先生が一歩後退った。

「大きい」先生は息を呑んだ。「こんなものが、ずっと地下に——」

「先生、動かないでください」と凛が叫んだ。声が震えていた。でも言葉は止めなかった。


凛の声が、神に向かっていった。

神が、止まった。

朝倉が、倒れた。

声もなく、ゆっくりと。台座の前に横になった。

「朝倉!」

俺は駆け寄った。朝倉の体を抱き起こした。冷たかった。息はあった。脈もあった。でも目が閉じていた。


「朝倉、聞こえるか」

返事はなかった。

凛が声を続けていた。必死だった。額に汗が光っていた。でも止まらなかった。

神が、揺れた。


押し返されるように、境内の隅へと後退していった。凛の言葉が、神を封じていた。

俺は朝倉を抱えたまま、凛を見た。

凛の目が変わっていた。いつもの明るい目じゃなかった。何百年分の記憶が、凛の中を流れているみたいだった。


水無瀬家の血が、目覚めていた。

最後の一節を、凛が唱えた。

神が、地面に沈んでいった。

光が収まった。

地面の振動が、止まった。

境内が、静かになった。

凛がその場に崩れ落ちた。

「凛!」田村先生が駆け寄った。

「大丈夫です」凛はゆっくりと顔を上げた。「終わった、から」


先生が凛を支えた。

俺は朝倉を抱えていた。

朝倉は眠っていた。穏やかな顔だった。怖い顔じゃなかった。痛そうな顔でもなかった。

ただ、深く眠っていた。

三日間が始まった。

俺は神社の境内に残った。

田村先生が毛布と水を持ってきてくれた。凛も交代で来てくれた。でも朝倉のそばには、俺がずっといた。


一日目。

朝倉は動かなかった。

俺は朝倉の隣に座って、時々水を口に含ませた。巻物に書いてあった通りに。

山は静かだった。地面の振動は完全に止まっていた。


俺は朝倉の顔を見ていた。

いつも無表情な朝倉が、眠っているとさらに静かだった。まるで別の場所にいるみたいだった。

どんな記憶を見ているんだろう、と思った。

地下の神が、何百年かけて見てきたもの。この土地の、始まりから今までの全部。

重いだろう、と思った。

でも朝倉なら、受け止められる。俺はそう信じていた。


二日目の夜、凛が交代に来た。

「少し寝てください、先輩」凛は言った。「私が見てます」

「大丈夫だ」

「大丈夫じゃないです。目が真っ赤です」

俺は朝倉を見た。

「離れたくない」

凛はしばらく俺を見てから、隣に座った。

「一緒にいます。だから少しだけ、目を閉じてください」


俺は朝倉の手を握った。

冷たかった。でも脈が打っていた。

目を閉じた。

三日目の朝、目が覚めた。

朝の光が、境内に差し込んでいた。

凛が隣で眠っていた。

朝倉を見た。

朝倉の目が、開いていた。


「朝倉」

朝倉はゆっくりと俺を見た。

焦点が合うまで、少し時間がかかった。

俺は朝倉の顔を覗き込んだ。

「分かるか。俺だ」

朝倉は唇を動かした。

「……桐島、くん」

「ああ」

「いた」

「いた」


朝倉は目を細めた。泣きそうな顔だった。でも泣かなかった。

「約束、守ってくれた」

「当たり前だ」

朝倉はゆっくりと起き上がろうとした。俺は肩を支えた。

「無理するな」

「大丈夫」朝倉は体を起こした。境内を見た。台座を見た。「終わったんだね」

「ああ。凛がやり切った」

 朝倉は凛を見た。隣で眠っている凛を。

「凛、すごいな」朝倉は静かに言った。

「お前もな」

 朝倉は俺を見た。

「記憶が、ある」

「地下のものの?」

「そう」朝倉は目を伏せた。「いろんなものが、見えた。この土地が生まれた頃からの、全部。人が来る前の、山と川だけがあった頃。神社が建った頃。白哉さんが子どもだった頃」

「重かったか」

「重かった」朝倉は手を見た。指先に、小さな傷跡が残っていた。「でも——きれいだった」

「きれい?」

「この土地が、どれだけ長い時間をかけて今日までいるか。全部見えた」朝倉は空を見た。「怖いと思ってたけど——悲しくはなかった。むしろ、大切にしたいと思った」


俺は朝倉の横顔を見た。

「変わったか、お前」

「変わったかもしれない」朝倉は俺を見た。「でも——」

「でも?」

「桐島くんのことは、ちゃんと分かる」

俺は何も言えなかった。

朝倉が、俺の手に自分の手を重ねた。

冷たかった。でも確かな温かさがあった。

「三日間、ありがとう」

「どういたしまして」


凛が目を覚ました。

朝倉を見て、目を大きくした。

「先輩、目覚めた!」

「おはよう、凛」

「よかった——」凛は目を潤ませた。「本当によかった」


田村先生が登ってくる足音がした。先生は朝倉の顔を見て、大きく息をついた。

「目覚めたか」

「おはようございます、先生」

「おはよう」先生は目を細めた。「顔色は悪いが、目がしっかりしている」

「地下のものの記憶が入りましたが——大丈夫です」

「そうか」先生は台座を見た。「地面の振動は?」

「止まってます」と凛が言った。「完全に。もう動かないと思います」

先生は深く頷いた。


五人で山を下りた。

朝倉は少しふらついた。俺が隣で支えた。

朝倉は最初は俺の腕を借りるのを遠慮していたけど、三歩歩いてすぐに諦めた。

「素直に借りろ」と俺は言った。

「うん」と朝倉は言った。

凛が後ろから見ていた。ニコニコしていた。

「凛、なんでそんな顔してるんだ」と俺は言った。

「仲いいなあと思って」

「そんなことない」と朝倉が言った。

「そうですか」凛は笑った。「三日間、ずっとそばにいた人が言いますか」


朝倉は何も言わなかった。

耳が、赤かった。

校舎が見えてきた頃、朝倉が言った。

「一つ、気になることがある」

「何だ」と俺は聞いた。

「地下のものの記憶の中に——この先のことも、少し見えた」

「この先?」

「まだ終わっていない、と感じた」朝倉は校舎を見た。「地下の神は封じた。でも——この土地には、まだ何かが残っている」


俺は校舎を見た。

春の朝日が、窓に反射して光っていた。

「また怪異が出るのか」

「出ると思う」朝倉は静かに言った。「でも今度は——私が、少し分かる気がする。地下のものの記憶があるから」

「それは、強みになるな」

「そうだといい」朝倉は俺を見た。「一緒に続けてくれる?」

「当たり前だ」

凛が前に走り出た。

「私も一緒にやります!」

田村先生が苦笑いした。

「懲りないな、お前たちは」

「先生も一緒でしょ」と俺は言った。

先生は少し笑った。

「……まあ、そうだな」


昇降口の前で、四人は立ち止まった。

春の風が吹いた。

校庭の桜が、最後の花びらを散らしていた。

朝倉が空を見上げた。

「きれいだな」

「ああ」

「地下のものの記憶の中にも、この木があった。何百年も前から、ここに桜があったって」朝倉は目を細めた。「ずっと、ここにあったんだ」


花びらが、四人の頭上を舞った。

この学校には、まだ何かが眠っている。

でも今は、春だ。

それで十分だった

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