地下の神と向き合う
土曜日の朝、空が白くなる前に起きた。
祖母の家を出ると、春の空気が冷たかった。まだ鳥も鳴いていない時間だ。
校門の前に、朝倉と凛と田村先生が待っていた。
朝倉は白い服を着ていた。普段は紺や黒が多い。でも今日は白だった。
「なんで白い服なんだ」と俺は聞いた。
「巻物に書いてあった。儀式のときは白を着ること」朝倉は静かに言った。「準備はいい?」
「ああ」
凛は緊張した顔をしていた。でも目が据わっていた。やると決めた顔だった。
田村先生は無言で頷いた。
四人で裏山を登った。
夜明け前の山は暗くて、静かだった。スマホのライトで足元を照らしながら登った。
瀬戸神社に着いた頃、空が少しだけ明るくなり始めていた。
境内に入った瞬間、感じた。
地面が、低く震えていた。
目に見えない振動。でも足の裏から伝わってくる、確かな揺れ。地下で何かが動いている。目を覚ましかけている。
「来るのが分かってるみたい」と凛が小声で言った。
「感じるのか」と俺は聞いた。
「足の裏から。なんか、呼ばれてる感じがします」
朝倉が台座の前に立った。
「始めよう」
巻物の手順通りに準備した。
台座の前に、二枚の布を広げた。朝倉が右側に座った。凛が左側に立った。俺と先生は少し後ろに下がった。
朝倉が懐から小さなナイフを出した。
祖母から預かってきた、古い小刀だった。儀式用だと言っていた。
「大丈夫か」と俺は聞いた。
「大丈夫」朝倉は小刀を両手で持った。「凛、始めて」
凛が深呼吸をした。
それから、言葉を唱え始めた。
古い言葉だった。
日本語じゃなかった。でも日本語より古い何かだった。音の一つ一つが、地面に染み込んでいくような響きがあった。
最初の一節が終わった瞬間、地面が動いた。
振動が強くなった。境内の石畳が、細かく揺れた。台座の御神体が、微かに光を放った。
朝倉が小刀を右手の指先に当てた。
「待って」と俺は思わず言った。
朝倉が俺を見た。
「何?」
「……痛かったら、声を出していい」
朝倉は少し目を細めた。それから小さく笑った。
「うん」
小刀が、指先をかすかに切った。
赤い血が、一滴、滲んだ。
朝倉が血の滲んだ指を、台座の石に触れた。
その瞬間、光が来た。
台座からじゃなかった。地面からだった。地面の割れ目から、白い光が漏れてきた。
凛の声が大きくなった。
言葉が、山全体に響いていった。鳥が一斉に飛び立つ音がした。木々が揺れた。
朝倉が目を閉じた。
「朝倉」と俺は呼んだ。
朝倉は答えなかった。でも口が動いていた。何か言っていた。聞き取れなかった。
地面の光が強くなった。
境内全体が白く染まった。
その光の中に、何かが現れた。
形がなかった。
巨大で、古くて、名前のない何かだった。人間の言葉で表せるものじゃなかった。でも確かにそこにいた。
地下の神だ、と俺は思った。
神は動かなかった。ただ、そこにいた。境内全体を満たすように、ゆっくりと広がっていた。
田村先生が一歩後退った。
「大きい」先生は息を呑んだ。「こんなものが、ずっと地下に——」
「先生、動かないでください」と凛が叫んだ。声が震えていた。でも言葉は止めなかった。
凛の声が、神に向かっていった。
神が、止まった。
朝倉が、倒れた。
声もなく、ゆっくりと。台座の前に横になった。
「朝倉!」
俺は駆け寄った。朝倉の体を抱き起こした。冷たかった。息はあった。脈もあった。でも目が閉じていた。
「朝倉、聞こえるか」
返事はなかった。
凛が声を続けていた。必死だった。額に汗が光っていた。でも止まらなかった。
神が、揺れた。
押し返されるように、境内の隅へと後退していった。凛の言葉が、神を封じていた。
俺は朝倉を抱えたまま、凛を見た。
凛の目が変わっていた。いつもの明るい目じゃなかった。何百年分の記憶が、凛の中を流れているみたいだった。
水無瀬家の血が、目覚めていた。
最後の一節を、凛が唱えた。
神が、地面に沈んでいった。
光が収まった。
地面の振動が、止まった。
境内が、静かになった。
凛がその場に崩れ落ちた。
「凛!」田村先生が駆け寄った。
「大丈夫です」凛はゆっくりと顔を上げた。「終わった、から」
先生が凛を支えた。
俺は朝倉を抱えていた。
朝倉は眠っていた。穏やかな顔だった。怖い顔じゃなかった。痛そうな顔でもなかった。
ただ、深く眠っていた。
三日間が始まった。
俺は神社の境内に残った。
田村先生が毛布と水を持ってきてくれた。凛も交代で来てくれた。でも朝倉のそばには、俺がずっといた。
一日目。
朝倉は動かなかった。
俺は朝倉の隣に座って、時々水を口に含ませた。巻物に書いてあった通りに。
山は静かだった。地面の振動は完全に止まっていた。
俺は朝倉の顔を見ていた。
いつも無表情な朝倉が、眠っているとさらに静かだった。まるで別の場所にいるみたいだった。
どんな記憶を見ているんだろう、と思った。
地下の神が、何百年かけて見てきたもの。この土地の、始まりから今までの全部。
重いだろう、と思った。
でも朝倉なら、受け止められる。俺はそう信じていた。
二日目の夜、凛が交代に来た。
「少し寝てください、先輩」凛は言った。「私が見てます」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃないです。目が真っ赤です」
俺は朝倉を見た。
「離れたくない」
凛はしばらく俺を見てから、隣に座った。
「一緒にいます。だから少しだけ、目を閉じてください」
俺は朝倉の手を握った。
冷たかった。でも脈が打っていた。
目を閉じた。
三日目の朝、目が覚めた。
朝の光が、境内に差し込んでいた。
凛が隣で眠っていた。
朝倉を見た。
朝倉の目が、開いていた。
「朝倉」
朝倉はゆっくりと俺を見た。
焦点が合うまで、少し時間がかかった。
俺は朝倉の顔を覗き込んだ。
「分かるか。俺だ」
朝倉は唇を動かした。
「……桐島、くん」
「ああ」
「いた」
「いた」
朝倉は目を細めた。泣きそうな顔だった。でも泣かなかった。
「約束、守ってくれた」
「当たり前だ」
朝倉はゆっくりと起き上がろうとした。俺は肩を支えた。
「無理するな」
「大丈夫」朝倉は体を起こした。境内を見た。台座を見た。「終わったんだね」
「ああ。凛がやり切った」
朝倉は凛を見た。隣で眠っている凛を。
「凛、すごいな」朝倉は静かに言った。
「お前もな」
朝倉は俺を見た。
「記憶が、ある」
「地下のものの?」
「そう」朝倉は目を伏せた。「いろんなものが、見えた。この土地が生まれた頃からの、全部。人が来る前の、山と川だけがあった頃。神社が建った頃。白哉さんが子どもだった頃」
「重かったか」
「重かった」朝倉は手を見た。指先に、小さな傷跡が残っていた。「でも——きれいだった」
「きれい?」
「この土地が、どれだけ長い時間をかけて今日までいるか。全部見えた」朝倉は空を見た。「怖いと思ってたけど——悲しくはなかった。むしろ、大切にしたいと思った」
俺は朝倉の横顔を見た。
「変わったか、お前」
「変わったかもしれない」朝倉は俺を見た。「でも——」
「でも?」
「桐島くんのことは、ちゃんと分かる」
俺は何も言えなかった。
朝倉が、俺の手に自分の手を重ねた。
冷たかった。でも確かな温かさがあった。
「三日間、ありがとう」
「どういたしまして」
凛が目を覚ました。
朝倉を見て、目を大きくした。
「先輩、目覚めた!」
「おはよう、凛」
「よかった——」凛は目を潤ませた。「本当によかった」
田村先生が登ってくる足音がした。先生は朝倉の顔を見て、大きく息をついた。
「目覚めたか」
「おはようございます、先生」
「おはよう」先生は目を細めた。「顔色は悪いが、目がしっかりしている」
「地下のものの記憶が入りましたが——大丈夫です」
「そうか」先生は台座を見た。「地面の振動は?」
「止まってます」と凛が言った。「完全に。もう動かないと思います」
先生は深く頷いた。
五人で山を下りた。
朝倉は少しふらついた。俺が隣で支えた。
朝倉は最初は俺の腕を借りるのを遠慮していたけど、三歩歩いてすぐに諦めた。
「素直に借りろ」と俺は言った。
「うん」と朝倉は言った。
凛が後ろから見ていた。ニコニコしていた。
「凛、なんでそんな顔してるんだ」と俺は言った。
「仲いいなあと思って」
「そんなことない」と朝倉が言った。
「そうですか」凛は笑った。「三日間、ずっとそばにいた人が言いますか」
朝倉は何も言わなかった。
耳が、赤かった。
校舎が見えてきた頃、朝倉が言った。
「一つ、気になることがある」
「何だ」と俺は聞いた。
「地下のものの記憶の中に——この先のことも、少し見えた」
「この先?」
「まだ終わっていない、と感じた」朝倉は校舎を見た。「地下の神は封じた。でも——この土地には、まだ何かが残っている」
俺は校舎を見た。
春の朝日が、窓に反射して光っていた。
「また怪異が出るのか」
「出ると思う」朝倉は静かに言った。「でも今度は——私が、少し分かる気がする。地下のものの記憶があるから」
「それは、強みになるな」
「そうだといい」朝倉は俺を見た。「一緒に続けてくれる?」
「当たり前だ」
凛が前に走り出た。
「私も一緒にやります!」
田村先生が苦笑いした。
「懲りないな、お前たちは」
「先生も一緒でしょ」と俺は言った。
先生は少し笑った。
「……まあ、そうだな」
昇降口の前で、四人は立ち止まった。
春の風が吹いた。
校庭の桜が、最後の花びらを散らしていた。
朝倉が空を見上げた。
「きれいだな」
「ああ」
「地下のものの記憶の中にも、この木があった。何百年も前から、ここに桜があったって」朝倉は目を細めた。「ずっと、ここにあったんだ」
花びらが、四人の頭上を舞った。
この学校には、まだ何かが眠っている。
でも今は、春だ。
それで十分だった




