記憶の消去
亀はふと天を仰ぎ見た。
その瞳には涙のようなものが見えた。
「亀よ。だいじょうぶか……」
亀はハッとする。
「いや……。
だいじょうぶです」
そして再び亀は語り始めた。
……
ある日のことです。
事件は起こりました。
太郎がいなくなったのです。
なんという事か……。
太郎は置手紙をし、龍宮城を出たのです。
そこには
「乙姫様、私は都に出て、あなたに釣り合うような立派な男になります」
そう記されていました。
しかし……
これはできないことなのです。
人は龍宮城を出る時、記憶を消されてしまいます。
これは龍宮城によって消されてしまうのです。
そして龍宮城を出た時、止まった時は一気に押し寄せます。
太郎は……
龍宮城を出て1週間もすれば一気に60歳を過ぎる年齢になるのです。
優秀であっても、この当時、その年齢で仕官などはかないません。
ただ出ていくだけ、無駄なのです。
私たちは太郎を探しました。
すると、龍宮城付近で、おろおろしている太郎を見つけました。
出会った頃の太郎に戻っていたのです。
乙姫様は、私に言いました。
「助けられた亀です。お待たせしました。こちらが龍宮城ですと言って、はじめからやり直すのじゃ」
と
私は一言申し上げようとしましたが、乙姫様の手は震え、唇を噛み、必死で耐えておられました。
私はなにも言えなくなりました。
そうして太郎は龍宮城で宴を受け、褒美として再び学び出しました。
乙姫様もまた太郎に学問を教えました。
ある日、乙姫様が言われました。
「前回は覚えるのに時間がかかったが、今回は前より早いのじゃ」
と……。
その表情は、少し険しいものでした。
結局1年かけて、簡単な文章がかけるようになり、2年で簡単な本が読めるようになりました。
計算は3年ほどかかりました。
以前とは比べ物にならないほど速くなりました。
乙姫様は
「楽でいい」
と言われてはおられましたが、別れの不安があったのでしょうな。
偵察の亀部隊に
「とにかく本や楽器、手習い用の道具を買ってまいれ」
と命じられました。
太郎との時間を少しでも取りたかったのでしょうな。
ある日、太郎は龍宮城に流れ着いた竹を使い、見事な笛を作りました。
美しく磨き上げられ、音もよい。桃の花の彫刻がなされた笛でした。
それを乙姫様に贈られました。
「あなたの美しい声を想い、作った笛にございます」
と……
乙姫様は喜んでおられましたが、少し陰があるように感じました。
乙姫様は、その笛をよく吹いておられました。
とても美しい音色でした。
まるで春の微風のような、
そういう静寂のなかに、
微かな生命力を感じさせるような、
美しく、しかしほのかに寂しい音色でした。
時は過ぎます。
当たり前のように時は過ぎます。
ひきとめる者も多いでしょうが、
それでも時は過ぎます。
太郎は10年も経たないうちに、龍宮城の本を読み切りました。
そしてまた乙姫様と手紙のやり取りなどをされました。
乙姫様の文箱は年々増えてまいりました。
文箱が五十を超えた頃
太郎は言いました。
「都に行き、自分を試したい」
と……。
今回は剣の達人はいません。
乙姫様は困った顔をされておられる。
私はとっさに
「太郎殿は頭はいいし、剣の腕もたつが、古琴はできないでしょう。
文人たるもの、古琴くらいできなくてどうしますか。
自分を試すといっても……」
と言いました。
「それは気が付かなかった。都に行って恥をかくとこだった。
乙姫様、私に古琴を教えてくれないか」
太郎はそう言いました。
「いいよ。ただ私の指導は厳しいよ」
乙姫様はかわいらしい笑顔でおっしゃいました。
それから、毎日古琴の特訓が始まりました。
ただこの間の剣の稽古などの事を考えると、あまり時間をかけると、覚えるのが速い。
そこで今回からは、龍宮城の雑務などもさせた上で、1日1時間だけ特訓ができるようにしました。
太郎には、飽きさせないように、あらゆる種類の仕事をさせました。
料理や洗濯、掃除や大工仕事、桃の木の手入れ、道具の手入れなども。
勉強ができるようになったせいか、これら腕もどんどん上がってまいりました。
そこから30年ほど経ったとき、
乙姫様はおっしゃいました。
「もう教えることがない」
と、
そこからは、乙姫様が笛を吹き、太郎が古琴を弾く事が多くなりました。
御二人の演奏は、それはそれは美しいものでした。
乙姫様が笛を吹くと草が揺れ、
太郎が古琴を弾くと波が凪になりました。
満月の晩などは、龍宮城から薄ぼんやりと見える月の光に照らされた御二人の御姿が、とても雅やかで印象的でした。
天上界の方々も、お忍びでよく聴きにまいられました。
またその時の乙姫様の御顔が……。
なんとも言えない安らかなもので、私は永遠に続けと神に祈ったものです。
そんな事を10年ほど続け……。
ある朝……、
またしても太郎は龍宮城を出て行ったのです。
乙姫様は落胆されました。
何十年の時を重ねても、
太郎をひきとめる事が出来ぬ事を、
そしてご自分を責められました。
私達は太郎を探しに行きました。
すると、また入り口でおろおろしていました。
乙姫様は私に一言
「また頼む」
とおっしゃったのです。
その手は小刻みに震えておられました。
何百年も生き圧倒的な美を備え、地位も権力もあり、博識で聡明な乙姫様が、ただの漁師の男に……。
ここまで言えば、もうおわかりでしょう。
実に300年もこのような事を続けたのです。
囲碁、書、画……
太郎が学ぶものは変わりました。
記憶もその度に消え去りました。
しかし龍宮城の記憶の消去能力は完全ではないのでしょうな。
あらゆるものの上達速度が上がっていくのです。
太郎は得意げでしたが、乙姫様始め、我々は重苦しい気分でした。
囲碁で敵うものは龍宮城にはいません。
書でも画でも敵うものがいないのです。
おそらく都に行っても、太郎に敵うものはいなかったでしょうな。
よく乙姫様がおっしゃっていました。
「今日……太郎が出ていくのではないか。
明日……太郎が出ていくのではないか。
いつもそう思うのじゃ」
と、
いつしか美しかった乙姫様の目は、憂いで暗くなっておられました。
よく恋は苦しいものだと言いますが、
乙姫様は300年同じ男を愛したのです。
手を伸ばせば届くのに、お互いの身分ゆえ、
言葉にできない。
壊れそうだから。
触れることができない。
そんな恋を300年も……。




