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──いつの間にか、「それ」はそこにいた。
対岸の木立の間から、顔を覗かせていた。
* * *
陽祐は、眠ってしまったらしい美沙の肩を、軽く揺すった。
「おい」
「え……?」
頭を上げた美沙に、声をひそめて言う。
「その場から動くな。怖かったら、俺にしがみついてろ」
「何のこと……?」
辺りを見回した美沙もまた、「それ」に気づいて、
「……ひっ……!」
息を呑んだ。
世界中の人間も、動物も消えた世界に、いるはずのない存在だった。
世界がいまのようになる前でも、日本に「それ」はいなかったはずだ。
真っ黒な毛並み。爛々と輝く、黄金色の眼。
狼だった。
木々の間から、こちらを見据えていた。
「なんで……?」
「知るか。くそっ……!」
陽祐は舌打ちする。
「それ」が本当に狼なのかどうかは、わからない。
本物の狼など見たことがない。
昔、図鑑で見たニホンオオカミの剥製の写真は、犬とどう違うのかわからなかった。
だが、ファンタジー漫画やRPGに登場する狼のイメージには、ぴったりだ。
向かいの家のラブラドールよりも、ひと回り以上、身体が大きく。
悪意の塊のような眼を、陽祐と美沙に向けている。
逃げるわけにはいかなかった。背中を見せれば途端に襲いかかって来る予感があった。
もちろん、美沙を守らなければならない。
「それ」との間には川がある。
川に入ることには、「それ」にもためらいがあるだろう。こちらに隙を見せることになるからだ。
睨み返してやった。
不思議と恐怖はなかった。これも現実感のなさのせいか。
人間が消えた世界に現れた、日本から姿を消したはずの狼。
「……世界を、終わらせに来たんだ……」
美沙がつぶやいた。
……何? 何て言った、おまえ?
思わず陽祐は、美沙の蒼ざめた顔を見る。
隙ができたと見てとったのか、狼は低く唸りながら、水辺まで下りて来た。
だが、そこから川に入るのは、まだ、ためらっている。
陽祐は足元のクーラーボックスに手を伸ばした。
蓋を開け、まだ冷たいままの缶ビールを一本、手にとった。
視線は狼に向けたまま、三五〇ミリリットル入りの缶を振る。
美沙の手を振り払って素早く立ち上がり、プルタブを引いた。当然のようにビールが噴き出した。
その缶を、狼に向かって投げつけた。
白い泡を吹き散らしながら、ビール缶が宙を飛ぶ。
狼は素早く方向転換し、木立の間に駆け込んだ。
ビール缶は対岸の水辺に落ち、泡を吹き散らしながらバウンドして、砂利の上を転がった。
狼は姿を消したきりだった。
「……はあっ」
陽祐は、大きく息を吐いた。
妹を振り返る。
美沙はチェアに腰かけたまま凍りついたように、対岸の狼が消えた辺りを、じっと見つめていた。




