怪異傭兵"契"
契約は絶対。
怪異の間で「黒札」と呼ばれる怪異傭兵・契。
曖昧な依頼は受けず、一度結んだ契約は必ず完遂する。報酬次第では、神すらその刃の前に倒れる。
今夜の依頼は、同胞である怪異の殺害。
報酬は、怪異にとって存在の核である「名」。
一つの契約をきっかけに、人間、怪異、そして神々の思惑が交錯していく。
2014年5月。
深夜の薄暗い街灯の中。鞘だけ下げている黒スーツを身にまとった長身の影が決まった速度で移動していた。路地を曲がろうとした時、その者は空間に話しかけた。
黒スーツ「何か。」
揺らいだ気配。声をかけた瞬間暗闇の中で何かがうごめいた。地の壁に貼り付くように、影が凝集していく。黒い靄のような塊が、ゆっくりと輪郭を形作ろうとしている。
影の塊から掠れた声が漏れた。
怪異「黒札。…だな。頼みが…ある。リンドウ。」
ーーリンドウ。
合言葉。間違いなく、それは契約交渉の開始を告げる符号だった。路地の闇が、ほんの少しだけ深くなった気がした。
黒札「依頼内容は。」
黒い靄がざわりと揺れた。輪郭が僅かに安定し、声が先程より明瞭になる。
怪異「.....殺して、ほしい.....。.....同胞を。「 喰端」と呼ばれる。この街の....地下水路に巣を張っている。」
木片がカタカタと震えた。
「人間を.....喰い始めた。.....このままでは.....監視者どもが動く。巻き添えで.....我らも狩られる.....。」
靄が収縮し、より人型に近づいた。恐怖の色が濃い。
「依頼.....「喰端」を.....地下水路第七区画にて.....三日以内に....殺すこと。
.....それだけ、で.....いい。」
黒札の『分析』が自動的に走る。依頼内容は明確。対象は「喰端」、怪異。場所は地下水路第七区画。期限は三日以内。目的は殺害。曖昧さはない。
怪異「……報酬は……何を、望む……?」
黒札「貴方にとって価値があるもの。」
靄が大きく震えた。長い沈黙の後、掠れた声が絞り出される。
「....我の...."名"。」
それは怪異にとって、存在の根幹に等しいものだった。名を失えば、輪郭が曖昧になり、やがて溶けて消える。だが、それでも。
「.....同胞が、狩られるよりは..。.....我の名は「漣」。.....契約が.....果たされたなら......くれてやる。」
ーー名。
存在の核。十分な対価だ。むしろ、この依頼の規模に対しては重すぎるほどの報酬。それだけ追い詰められている、ということだ。掃討に巻き込まれることへの恐怖が、自らの存在を差し出すほどに深い。
依頼内容は明確。すべて揃っている。
黒札「受理します。」
路地の闇の中、漣と黒札の手の甲にオオデマリの焼き印が刻まれた。月明かりに薄く浮かんでいた。
オオデマリの花言葉は、"約束"、"契約"。
漣「こ、これは…。」
黒札「契約の証です。契約は絶対。貴方が消えようと完遂します。完了すれば消失します。」
黒札「今夜。実行します。対象……確認。」
漣「頼む……」
その瞬間。風もなく、音もなく。目にも止まらぬ速さで地下水路へ向かった。
怪異傭兵――契。
黒札の名で知られる契約専門の怪異。怪異の中でも特に有名であり、黒札に頼めば全て終わると言われるほど。報酬次第では神殺しまでをも行う。曖昧な依頼は一切受けない。一度契約が結ばれれば完遂するまで内容変更不可。契約が全て。
契は路地を抜け、街の排水溝へと続くマンホールの前に立った。右手の甲のオオデマリが微かに脈動している。契約の方角を示すように。
地下水路第七区画ーーここから東へ約800メートル。空気中に混じる微かな腐臭と、水に溶けた血の匂い。怪異が人間を喰っている痕跡だ。新しい。
左腰へ触れた瞬間、空だった鞘に黒い刀身が浮かび上がる。
普段は姿を持たない刀――無銘。
契が唯一携える愛刀だ。
ーー地下水路。
水の流れる音が反響する薄暗いトンネルを、契は足音を殺して進んでいた。壁面にこびりついた苔が、所々不自然に抉れている。何かが這い回った痕。
第五区画を過ぎた辺りで、空気が変わった。水の匂いに混じる、甘い腐敗臭。そして。
暗闇の奥から、ぐちゃり、と何かを咀嚼する音が響いた。
全長約4メートル。多脚の甲殻類に似た体。頭部にあたる部分に人間の顔を模した仮面のような器官。その口が、今まさに何かを噛み砕いている。足元に散らばる衣服の切れ端と、赤黒い液体。喰端だ。
まだ、こちらに気づいていない。
契「契約、実行。」
契の手が腰に触れた瞬間、黒い刀身が地下水路の闇に溶け込み、刃だけが水面の反射を微かに拾う。
一歩。音はない。
喰端が咀嚼を止めた。 多脚が一斉に壁面を掻き、仮面のような頭部がゆっくりと回転する。人の顔を模した器官の「目」が見開かれた。
遅い。
契の『分析』は既に完了していた。属性反応無し、無銘への能力付与は不要。体の関節構造、甲殻の薄い部位、脚の駆動パターン。喰端に知性はない。つまり一駆け引きも不要。黒い刀身が弧を描いた。
一閃。横薙ぎ。黒い刃が一度だけ閃く。狙ったのは甲殻と頸部の境界。紙を裂くような手応えだけが残った。
目が合う。次の瞬間には首が飛んでいた。
ずるり、と湿った音。喰端の多脚が痙攣し、巨体が水路に崩れ落ちた。汚水が跳ね、壁面に赤黒い飛沫が散る。仮面の口が数度開閉し、やがて動きを止めた。
所要時間、三秒。
契の右手の甲でオオデマリの紋章が一度強く輝き、そして静かに消えていった。契約完了。
無銘の刀身から血が滴り、血ぶりの後、慣れた手つきで刀を鞘へ納める。やがて刀そのものが透明に戻る。契は一度だけ喰端の残骸を見下ろし、踵を返した。
契の足音が水路の奥へ消えていく。規則正しく、迷いのない歩調。振り返ることは一度もなかった。
契約は完了した。それ以上でも以下でもない。契の領分ではない。
水路に残る微かな殺気の残滓すら、数秒で霧散していく。




