最後の境界守
人間界、怪異界、神域――異なる世界が交わりすぎないように存在する境界。
その均衡を守る者がいる。
人々は古い記録に残る姿から、その者を「カロン」と呼ぶ。
しかし、その名は本人が選んだものではない。
名も持たず、ただ境界を守る役割を背負い続けてきた境界守。
これは、世界の狭間で生きる者たちの記録。
11階。エレベーターの到着ベルが鳴る。
シダー「幹部フロアです。話は僕がするので部屋の外で待っていてください。」
さっきのフロアとは雰囲気が違う。清潔というより高貴。
シダーは回収班チームの幹部室へ向かう。ドアの前に立ち、ノックを3回。
??「入れ。」
シダー「失礼します。アクアリーダー。1つご相談が。」
五十代半ば。銀縁眼鏡の奥の目は氷のように冷たかった。
アクア「手短にしろ。」
シダー「実は…管轄内の瘴気漏れエリアにて、境界干渉型怪異。識別名、カロンと遭遇しました。」
アクアの手が止まる。
アクア「……カロン、だと。」
一瞬だけ表情が曇る。
アクア「境界干渉型怪異は絶滅した。文献にもそう記されている。馬鹿げた話で時間を無駄にするな。仕事に戻れ。」
シダー「目の前で瘴気漏れを処置したんです。記録済です。その後焼却炉の処置も。」
アクア「瘴気漏れの件は提出しておけ。それより焼却炉だ。カロンだかなんだか知らんが部外者を中に入れたのか!?あそこは研究課以外立入禁止だ。」
シダー「私の判断です。実際、焼却炉の瘴気反応は無くなりました。責任は取ります。後悔はしていません。」
アクア「ホーククロー担当の研修生はいつもこうだ…。だがまずカロンがいたという証拠をだせ。」
シダー「……ですので。お連れしました。本人の希望ですが。」
シダーは静かにドアを開ける。ドアの外。カロンは壁にもたれ、腕を組んだまま目を閉じていた。ドアが開く音にゆっくりと視線だけを向ける。
「終わった?」
シダー「すみません。中へ…」
「話は"僕"がするんじゃなかったの。」
不満げに言いながら境界守は幹部室へ入っていった。アクアは言葉を失う。服装、装飾、腰に下げられた細身の古代儀礼剣。全てが文献の記しそのままだ。疑うまでもなかった。
境界守の顔に嫌悪感が走る。目の前の人間には怪異の死体の気配や匂いがこびりついている。
アクア「実在していたとは。社長室へ行く。着いてこい。シダー。君もだ。」
境界守に対し、実験体でも見るような目。見下した声。扱いは明らかだった。
シダー「社長室……ですか?」
アクア「そうだ。早く動け。」
シダーはアクアの後ろを不安そうについて行く。それに何事もないように境界守が後を追った。
エレベーター内の静寂。誰も言葉を発しないまま最上階への到着ベルがなる。
アクア「着いてこい。」
淡々と社長室へ向かいアクアは扉をノックする。
アクア「社長。失礼致します。研究部責任者アクアです。ご報告があり参りました。」
社長「アクアか。入れ。」
アクア「失礼致します。」
60代半ば。老眼鏡をかけた年季の伝わる人物だった。
社長「わざわざ直接報告とは何事だ。」
書類を確認していてこちらの事を見ていない。それなりの地位ではあるらしい。
アクア「この度、境界干渉型怪異。識別名、カロンを発見。確保してまいりました。」
アクアの雰囲気が変わった。さっきまでの見下すような態度とは違いまるで物事が自分の成果とでも言うような。自慢げに、誇らしげにアクアが言う。だが社長は目を見開いてその場に硬直している。
社長「カロン……?カロンと言ったか?どこに……」
アクアを見ようとしたその瞬間。その後ろには紛れもない文献通りの境界守が立っていた。メガネを震える手で外し再度確認する。
社長「これは…。表向きには社長と呼ばれていますが、怪異現象管理局、理事長。ホワイトと申します。お目にかかれて光栄です。カロン殿。」
アクアとは違い深々と頭を下げた。思いもしない態度に3人とも驚いていた。
ホワイト「アクア。報告とは、他にもあるんだろう。」
察しがいい。それだけの経験があるんだろう。
アクア「この個体名カロンは、管轄内の瘴気漏れだけに留まらず、焼却炉の瘴気までも完璧に処理して見せました。まさか実在するとは思いませんでしたよ。興味深い。この者のその力。怪異を操り、境界までも。"私の"研究に必要なものだと判断致しました。今すぐにでもベールに手配させます。ご期待ください。」
空気が凍った。
ホワイト「アクア。相手が誰が分かって言っているのか。その目の前にいるのは研究対象ではない。境界を保つ者だ。我々が手を伸ばしていい存在ではない。カロン殿。申し訳ない。この者は研究熱心なのはいいが意欲が悪い方向に向くことがあるのです。」
ホワイトが弁解している。ただ境界守は聞いていなかった。
境界守は視線だけを部屋の棚や書類、怪異関連の資料に向ける。
ーー研究。
金色の瞳がわずかに細まる。その言葉だけが引っかかっていた。この組織は境界の亀裂を焼き、そして…。怪異の死体を持ち去っていく。この街に来た当初。2人の女が小さな箱に怪異の死体を入れていた。結界に似た構造で怪異の気配も外に出ない。ならば。生きた怪異だって捕まえられるはずだ。境界守の怒りが静かに湧き上がっていく。
「研究か。是非とも見てみたいね。ホワイトだっけ。案内してよ。ベールともぜひ会いたいね。」
微笑んでいた。ホワイトだけが理解している。その微笑みの意味を。だが断れる理由などない。
ホワイト「え、えぇ。是非。アクア。案内して差し上げろ。」
「ホワイト。君も来てよ。」
ホワイト「私も…ですか。承知しました。」
アクア「社長。こちらへ。」
丁寧な態度。だが、シダーにも境界守にも視線は向けていない。
9階。到着のベルが鳴る。
アクア「こちらへ。足元お気をつけください。」
エレベーターを降りて左に曲がって進む。降りた奥にはさっきの焼却炉があった。
怪異の気配を感じない。違和感だらけだ。あたしが研究対象なら他の怪異だって研究対象なはずだ。空気が綺麗すぎる。
アクア「こちらが研究室です。管理も完璧に整えております。現在17体の検体を管理しております。」
自信満々。誇らしげに自慢する。ホワイトとシダーは初めて来た博物館のように見渡していた。
境界守だけは違った。硬直。怒りすらない。怒る気力すら剥ぎ取られた。
生きた怪異たちは閉じ込められ電磁波を当てられ金属の装置を付けられている。足掻くもの、脱力しているもの。その中心には結界型の怪異がコードに繋がれていた。室外の気配の無さ、怪異を確保する箱。全てが繋がった。残酷すぎる景色が広がっていた。それを自慢げに話す人間。そこへ部屋の奥から書類を書きながら1人の男が出てきた。
アクア「ベール。社長直々にご見学との事だ。」
ベール「これは社長。研究担当のベールと申します。ぜひごゆっくりご見学を。」
「もう十分だ。」
強い怒りがこもった低い声。ホワイトがあきらかに動揺している。
「貴様ら。この行為が、及ぼす影響を理解してやっているのか。」
ベール「わ、私は指示に従っただけで……!」
空気が冷たくなっていく。
アクア「何を言っている。私の管理は完璧だ。怪異の特性を理解し管理する。完璧じゃないか。」
誇らしそうに言葉を並べる。境界守からすればただの神経の逆撫でだ。
「……そうか。ホワイト。私は境界守だ。境界を守るためなら何でもする。やることに迷いは無い。迷っただけ必要のない犠牲が増えるからね。人間も怪異も神も。本来なら人間の法で裁くべきだろうけど。お前たちは命を研究材料にした。その時点で境界を侵したんだ。」
ホワイトは静かに目を閉じる。それが、この組織の下した答えだった。
「……これは送りではない。」
境界守は腰に下げていた古代儀礼剣を静かに抜く。
ルビェーシ。魂と現世、その境を分けるために存在する古代儀礼剣。本来は送りの儀式に用いられるものだが、境界を侵す存在と対峙する時、その刃は侵食された理を断つために振るわれる。ただし、その刃は命を奪うためのものではない。乱れた境界を正し、あるべき場所へ戻すためのもの。今の境界守にとって、抜く機会はほとんどない。それでも境界守は手放さない。かつて共に歩んだ者達との記憶。その唯一の証だから。
境界守が刃を地面に立てるとアクアとベールの足元に黒い水面が広がる。
アクア「なんだこれは!?」
ベール「ひ、ひぃ…!」
足元が黒い海と化していき、その中から無数の黒く骨ばった腕が伸びる。窓ガラスに霜が走った。
ベール「た、助け……!」
言葉を言い切る前に引きずり込まれた。黒い海からはベールの声にならない悲鳴が漏れた。
アクア「こんな事許されると思っているのか!お前を取っておきの材料にしてやる……」
アクアが境界守に近づこうと1歩踏み出した瞬間。片足を引き込まれ体勢を崩した。
アクア「な、何を…!やめろ!」
必死になって抵抗する。たかが人間。冥界のものを前にしてなんの力もない。
「味わってこい。」
アクアは境界守にそう告げられたまま黒い海へ引きずり込まれた。
沈黙が続いた。シダーはただ立ち尽くし。ホワイトは壁にもたれて力なく膝が笑っている。
黒い海から花びらのような欠片が舞った。アクアにこびりついていた匂いの正体だ。居場所を失い、下手に刺激されたせいで魂にもなれていない。
「やっと自由だよ。待たせすぎた…。」
欠片に手をかざす。淡い光が揺れ、境界守の手の周りへ静かに集まっていく。
「散りし魂は風にあらず。欠けし想いは塵にあらず。境界の名のもとに、その全てを結び直そう。」
花びらのような欠片がゆっくりと一つの光へ溶けていく。
鍵を手に取り境界を開ける。
「境界は開かれた。汝らを、還るべき場所へ送る。」
「──お還り。」
研究されている怪異らに目を向ける。
「痛かったよね。もう傷つけさせない。」
「アスフォデルの風よ、この者を抱け。冥き河よ、その痛みを洗い流せ。穢れは散り、魂は再び静けさを取り戻す。」
研究されていた怪異たちから焼け落ちるように電極が剥がれ解放されていく。淡い水色の光が怪異達を包んだ。少しずつ回復していく。脱力していたものも立ち上がり、本来の姿を取り戻していく。虚ろな目に光が戻ってゆく。
「まだ還るには早い。アスクレピオスの元へ行きなさい。癒しの場をくれるだろう。穢れも、痛みも、そこで静めればいい。」
腰からひとつのコインを取り出し怪異に渡す。アスフォデルの花模様。境界守の印だ。
「これを持っていくと良い。あたしからの送り状になる。」
1匹の怪異が受け取り、境界へ先導する。1匹、また1匹と全ての怪異が境界潜り、静かに境界は閉じた。
「ホワイト。」
ホワイト「…は、はい。」
「この組織さ。なんのために作ったの。見た限り研究の内容も把握してない。目的他にあるんだよね。」
ホワイト「当初は特異現象を解析、処理し、安全を保持する為に創設しました。こんなことになっていたとは……。私の管理の不届きが原因。どう謝罪すればいいのか。いや、謝罪で済むはずが…」
シダー「いっその事、創設し直してみてはどうですか?管理も警備ももっと厳重に。コストはその分かかりますが人命には変えられません。知識や技術の使い方が間違っていたのなら正しい方向へ向き直すべきです。」
「大したもんだね。研修?だっけ。シダーは新人なんでしょ。本当にそうするならそれでいい。ただし、あたしの仕事に干渉することになる。だからここは協力にしないかな。全ての人間、怪異が悪いなんて思ってない。全ては循環の内の一部なんだよ。境界の均衡を脅かさないのであれば何もしない。」
ホワイト「再創設…。このきっかけを逃す理由はありません。ですが…協力というのは…。」
「人間が持ってる遠くでも話せるやつ。あたしにも欲しい。後は出来るなら世界規模まで組織を広げて欲しいんだ。君らは感知はできてるけど対処が甘い。境界と魂は境界守に任せて。君らには生きてる怪異を任せたい。知能がある怪異は特に。交渉の余地がある。上手く行けば協力だってしてくれるはずだよ。」
ホワイト「シダー。幹部を集めろ。1から作り直すんだ。」
覚悟を決めた顔だった。組織を1から作り直し、世界規模まで広げる。簡単なことではない。だが、善意だけでなく覚悟を持って動ける人間の行動力は無限に等しい。
ホワイト「カロン殿。通信機器は直ぐにお渡し致します。この失態がありながらご協力まで…。尽力致します。」
「うん。」
こうして境界守の1日は終わった。
ただし、人間側はこれからが大困難だ。
シダー「送ります。入口までだけでも。」
「そういうのはいい。」
シダー「なら一つだけ質問いいですか。」
「なに?」
シダー「アスクレピオスって…ギリシャ神話の医神ですよね…。実在するんですか…?」
「気まぐれでお節介な神だよ。毎回は宛にできないけどね。」
「シダー。境界について人間は見当違いな見方をしてる。そこら辺の壁か何かだと思ってるでしょ。」
シダー「研修担当の方からは窓か壁だと思え。と…。」
「はぁ…。だからあの扱い方なんだよ。境界は確かに一種の壁ではある。けど、人間界、怪異界、神域、他にもいろいろあるけどそのそれぞれの世界の流れを調節するものなの。それぞれの世界が干渉しすぎないように。全ての命のエネルギーでできてる。それが境界。穢れれば世界は混濁して崩壊する。だから修復し守る境界守がいるの。」
シダー「仕組みは、なんとなくは掴めました。僕らが瘴気と思っていたものは穢れだったんですね。ですが今確認できている境界干渉型怪異はあなただけです。一人で全て行っているのですか?」
「1つ。あたしは怪異じゃない。さっきも言ったでしょ。2つ。あたしは境界に干渉出来る大陸を跨ぐくらい出来る。3つ。…仲間はいた。人間の感覚の1年で例えるなら、……3000年は誰も見てないよ。」
境界守の表情が曇る。過去の記憶がフラッシュバックしている。
シダー「3000年って…それだけの期間一人で世界中を飛び回り修復し続けてるんですか…。僕には…想像もつきません。」
「人間長くて100年くらいでしょ。あたしやることまだあるから行くよ。ここに留まる理由もない。何かあったら通信機?で伝えること。数ヶ月は日本にはいるから。今教えた事ホワイトにも共有して。またトラブルはごめんだから。」
そう残して境界守は鍵を使い他の場所へと境界を通して移動して行った。
シダー「他の境界守に何が…あったんですか。」
誰もいない廊下で1人呟いていた。




