識別名 : カロン。分類 : 境界干渉型怪異
怪異の死体が消え、増え続ける境界の亀裂。
ある人間組織の前に、一人の境界守が現れる。
神話に残された名を持つ存在――カロン。
しかし、人間が知る記録と、彼女自身が語る姿には大きな違いがあった。
世界の真実を知らない人間と、ただ境界を守り続けてきた存在。
長い時を隔てた出会いが、現代の怪異との関わり方を変えていく。
1984年9月
1人の境界守がビルの上に座っている。
「秋かぁ…甘味が美味い時期だねぇ。どこか近場の店行くか。」
最近は何故か怪異の死体が少ない。人間の仕業だろう。でも亀裂の増加が尋常じゃない。……矛盾してる。でも、やれることをやる。
「うわぁ…いい店見つけた。栗の甘味か。いいね。」
一目惚れしたモンブランを頬張る。珍しく笑みがこぼれる。
「んまぁ…もう一個くらいいいよね…」
店の商品棚をじっと見つめる。楽しみもつかの間。視線を感じる。気配が弱い。おそらく人間だ。
……この前、怪異の死体を持ち帰ろうとしていた組織か。何がしたいんだ。
「あたしはやることやるだけ。もう一個食べたかったなぁ。また今度。」
店を出た途端、甘い栗の香りは秋風に流された。
足を止めたのは、大きめの穢れを感じ取ったからだ。
「……近い。」
人通りの多い通りを外れ、人気のない路地へ足を向ける。
「なにこれ邪魔…」
仕切りに引いてある黄色いテープを避けながら進んだ。
路地の奥、コンクリートの壁を縦断するように黒い亀裂が走っていた。
焼け焦げたような跡が、その周囲にまで広がっている。
「焼いてある。人間がやったんだ。少し前までこんなこと無かったのに…」
手をかざした瞬間。静かな路地に、靴音が一つ響く。足音は迷いなくこちらへ近づいてきた。
??「こちらは侵入制限区画です。何をしているのですか。」
振り向くと人間の男。侵入制限?黄色のあれはそう言うことか。しまったな。
男が境界守を凝視する。視認する限り一般人。だが亀裂を認識している。服装は、外国人か…?
何よりあの模様。アスフォデルの花。そんなわけはない。だが本物なら……
男「貴方。カロンか。」
境界守が反応した。またその単語だ。
「この前も言われたな…」
ボソッと呟く。人間はよく物語を作る。それに出てくるのか?どうでもいい。この前穢れを浄化しないと。近辺が侵食される。もう一度手をかざす。
男「危険です!触らないでください…!」
境界守は無視だ。いつからやってると思っている。少なくとも人間が存在する前からだ。そもそも人間が扱える程度のものじゃないんだ。指先に神経を集中させ、わずかに眉を寄せる。
「穢れは還り、境界はあるべき姿へ。」
壁にこびりついた穢れが反応する。境界守の力が流れ出す。境界守の体から静かに光が溢れ、境界の力が空間へ流れ出した。もっと規模が大きく、根源的な力。世界の歪みを正すための力だ。
葬送とは違う。怪異を還すための力ではない。世界そのものをあるべき姿へ戻す、境界守だけが持つ力だった。
大きく裂けた空間の亀裂に、境界守から放たれた光が糸のように絡みついていく。焼均処理によって抉られた傷口を縫い合わせるように。
だが、傷は深かった。広範囲に渡って熱で変質させられた境界は、もはや壊疽を起こした組織のようだ。光の糸が触れるたび、黒い穢れは火花を散らし、焦げた布がほどけるように崩れ落ちていく。
それでも境界守は続けた。考えるより先に手が動く。それほど長い年月、この修復を繰り返してきた。焼失した部分には新たな境界を編み直す。葬送とは比較にならない集中力を要する作業だった。
男はただ見ていた。冷静に。ただ観察していた。人間では無い何か。自分に対して警戒の欠けらも無い。怪異にしても存在が大きすぎる。境界の修復ができる存在はただ1つだ。だが文献によればもう全滅したはず。しかしたった今、目の前で修復されていく。境界を修復できる存在は一つしかない。
男「カロン…ですか。境界干渉型怪異は絶滅したはずです。なぜ…」
続きが出なかった。出せなかった。冷静になれ。記録だけでも何千年と居る存在だ。下手には扱えない。
「またその単語。カロンってなんなの?」
純粋な疑問だった。この前のギリシャの時も言われたんだ。カロンって。
男「貴方のことです。記録上の識別名……カロン。分類上は、境界干渉型怪異とされています。 3000年ちかく前から世界中の文献に貴方が。全ての文献が正しい見方をしているとは限りませんが、その見た目、修復。貴方がカロンなら辻褄が合う。カロンはギリシャ神話に登場する死者の魂を運ぶ渡し守の神です。」
神話の神。神か。とんだ勘違いをされたもんだな。
「神話の神ね。あたしをそう解釈した人間がいたのか。とんだ勘違いだ。あたしに名前はないよ。怪異でも無い。そう呼ぶなら勝手にして。あんたは何しに来たの。ここの"処理"は終わってるんでしょ。」
修復された箇所を撫でる手が止まった。裂けた境界に対して焼くという選択肢のとり方。知識不足にも程がある。境界をなんだと思っているんだ。決して焼いていいものじゃない。傷は癒えても残る。境界は全ての均衡、安寧をもたらすものだ。
男「怪異ではない……?」
「あたしはどこにも属さないの。人間、怪異、神、その他もろもろ。どこにもね。」
男「なら貴方は…どういった存在なんですか。」
「境界守だよ。」
男「それはどう言った役職なんですか。」
「死んだ怪異を在るべき場所へ還す。境界の維持、修復。」
男「でもそれは世界中で起こっていることじゃ…」
「そうだよ。だから世界中を巡回するんだ。当たり前だろ。ひとつ直しても、また別の場所で穢れは生まれる。亀裂もね。ずっとその繰り返しだよ。もういい?」
男「はい。」
「それで何しに来たのって。」
男「経過観察です。瘴気の漏れがないかなど。人命に関わるので。」
額に汗が滲む。嘘をつく必要はない。カロンは明らかに焼均処理を快く思っていない。誤った処置ならば悪影響を及ぼがあるということだ。だとするなら、正しい方法を。カロン自身から答えを聞けるのは今だ。
「瘴気?境界は瘴気なんか生まない。それは穢れだよ。前にここで怪異が死んだんじゃない?記録を取っているなら見てみなよ。死んだ怪異の魂は還さないと境界にヒビを入れることがある。それがさっきのだよ。頼むから人間は触らないでくれ。世界が崩れる。」
重すぎる一言だった。境界が壊れれば人間、怪異、神、それ以上のもの達の世界が混濁することになる。破滅が始まるんだ。ただ引っかかることは1つ。ここにあるはずの怪異の死体が無い。またこいつらが持ち帰ったんだろう。最近死体の気配が減ったのも亀裂の増加も説明がつく。傷は放置されれば悪化する。当たり前だ。
「1つ聞くけど。死体はどこへやったの。」
男の目を真っ直ぐ見ながら問う。ここに残されていたはずの魂は、どこへ消えたのか。
男「2日前に回収され、焼却処分されました。」
「それだ。」
男「何がですか。死体は死体…。…!魂…。」
「だから亀裂が増えてるんだよ。魂の穢れも亀裂もそのまま焼いて、ただ悪化させてる。」
「焼くならそういう場所はあるんだろ。どうなってるかなんて考えたくもないね。」
男「焼却処分は数値が弱まるので正攻法とされていました。でもあなたが言う魂があるならば…。確かに、焼却室は長時間の滞在は認められておらず2時間ごとの交代制です。魂によって何かの影響があるのなら…。」
どうしたらいい。対処できるのはカロンだけだ。ただ僕らがやってきたことは境界側にとっては暴虐に等しい。
「どこにあるの。」
男の考えを遮るように境界守が聞いた。境界を守るためならなんでもやる。怪異の葬送もその一部だ。迷いは無い。
迷ってる暇なんかない。研修で何を学んできたんだ。自分だけじゃなく他人の命も脅かす危険がそこにあるんだ。動け。
男「車出します……!乗ってください…!」
「あれに乗るの…?いいから場所教えて。地図でもいいから。早く。状況の理解はできてるんでしょ。」
男のを見ればわかる。即座に理解し協力を求めた。あたしを見るだけで怯えてた人間たちとは違う。理論的な観察眼がある。
男「地図です。ここの不動産会社の8階です。回収班チームの焼却炉があります。」
「割と堂々としてんのね。行くよ案内人。人間は通したくなかったけど……。」
胸元の鍵を取り出し空間に近づける。すると波紋のような鍵穴が現れた。鍵を差し込み回す。境界が水面の様に揺れそよ風に吹かれたカーテンのように開いた。
男「境界が……開いた……。そんなこと……。」
どれだけ分析しても観測しても原理が分からない。存在しないのか。それとも、自分たちの知識が届いていないのか。
「来ないならあたしだけ行くよ案内人。」
境界守だけは淡々としている。数えられない程の年月。これで世界中を飛び回り葬送、修復してきたのだ。
男「案内人呼びはやめてください。僕はシダーです。」
「そう。早く来なシダー。」
境界守と人間が境界の間を1歩1歩進み始め、通過した頃。境界は静かに閉じる。




