忘れた名を、もう一度
三日月の夜。
願いを叶える怪異として生き始めてから、約三年。
壬は喫茶店でカフェオレを飲み、決まった道を歩いて館へ戻る――そんな静かな「独りの時間」を繰り返しながら、変わらない日常の輪郭の中に身を置いていた。
その日常は、やがて一つの訪問によって揺らぎ始める。
ある夜、傷ついた翼を持つ怪異・羽飛が、巨大な怪異・地李と共に館を訪れたのだ。
彼らの願いはただ一つ、失われた故郷へ帰ることだった。
壬はその願いを受け入れ、怪異としての力でそれを叶える。
しかし願いが成就した後、羽飛は壬に「名を教えてほしい」と問いかける。
その言葉は、壬自身の内側に沈んでいた空白を静かに揺らした。
2021年。秋。
深夜。1人の少女が夜空を見上げる。
多恵「三日月。誰が来るかな。」
あれから約3年。誰にも正体を明かせるわけもなく、ただ願いを叶え続けてきた。
叶えるには条件がある。
1つ。"馬酔木を捧げに来た"という意味の合言葉をうちに伝えること。
1つ。願いを叶えられるのは館の中でのみ。
1つ。願いは満月か三日月の夜にそれぞれ3回まで。ただ半月は暇になる。
1つ。双方の同意がないと実行はされない。うちに拒否権は無いから相手が嫌ならそれで終わり。
1つ。願いの代償は、対象。つまり、望んだ者がその願いに対してどれだけ徳を積んだかで決まる。
1つ。願いを拒むと絶望的な記憶がフラッシュバックする。
数ヶ月前、人間の若い男性が尋ねてきた。末期ガンの恋人を直して欲しいと。
その男性は、何年もの間付きっきりで看病し声をかけ続け、愛情を注いでいた。
その場合、代償は寿命10年。
また違う時、1年前。中年のサラリーマンがやってきた。自殺した危篤状態の少女を助けて欲しいと。
そのサラリーマンは、長期間に渡るストーカー行為、SNSでの悪口、家へ偽の通報をするなど様々な嫌がらせをしていた。その結果少女を自死にまで追い込んでいた。
その場合、寿命9割、視覚、幸福感の損失。
人によって様々だった。願いも代償も。
3年間やり続けてルーティンが出来た。
まず、近くの喫茶店でカフェオレを1杯飲む。その後は決まったルートを散歩する。この体になってからは食事は要らないみたい。けど味は感じられる。それが唯一の安心。
人に見られずすり抜けていた体は少しずつ人に見えるようになったらしい。喫茶店の店員さんには見えてるし。物にも触れるから貯金を切り崩して過ごしてる。もうそろ危ないけど…。
多恵「喫茶店行くか。」
いつも通りカフェオレを頼む。
多恵「おいし…」
安堵の笑みがこぼれる。これだけは……人間の頃との繋がり。大事なもの。記憶が全て消えた訳じゃないけど、思い出す人の名前も顔ももう分からない。
思い出って言っていいのかも分からない。
多恵「ご馳走様。」
ゆったりとした足取りで店を出る。そして決まったルートを歩む。
角を曲がった先の街灯の下に、影が立っていた。約2メートルはあろうかという大きな怪異。その肩には、傷ついた翼を持つ小さな怪異が乗っていた。その唇が微かに動いた。
??「そなたが叶えし者。」
多恵「何か用?」
もう前とは違う。冷静に受け止める。代償が何になるかも分からずに願いをしに来る者なんてそう居ない。それなりの覚悟があるから来るんだ。
??「我が名は羽飛。馬酔木を捧げに来た者。」
多恵「こんばんは。お客さん。こちらへどうぞ。少し歩きますよ。」
三日月が輝く中、大きな影と共に館へ向かう。今日は風が心地いい。
館のドアを開く。多恵の姿が変わる。白いドレスシャツ。淡い水色の丈の長いアシンメトリースカート。ミストブルーと紺色のグラデーションの天体模様のローブ。金刺繍。
多恵「どうぞ。大きい方も座って。」
羽飛「おぉ。何と綺麗な姿。良い色彩だ。失礼する。このでかいのは地李だ。」
多恵「地李さん。よろしく。それで、願い事は?」
羽飛「最近力が無くなってきていてな。故郷に帰りたいのだ。だがこの翼。飛べぬ我には遠く及ばぬ。そなたには故郷へ送り返して欲しい。」
多恵「地李さんに頼むのはできないの?」
羽飛「こやつはこの地の怪異。離れることができない。」
多恵「なるほどね。その羽の怪我。聞いてもいいかな。」
羽飛「あぁ。これは、少々ドジを踏んでしまってな。友のカラスが怪異に襲われていたのだ。鳥は飛ぶ力を持つ。怪異にとって飛ぶ力は羨む物だ。殺しても奪えんのに。だが多勢に無勢でな。地李が手を貸してくれた。」
多恵「なるほどね。」
頭に自分の意思ではない情報が流れ込んでくる。代償。
多恵「代償は、その破れた片翼。どうかな。」
羽飛「そんなもので良いのか…。名でも力でも…。」
多恵「あなたの行いだよ。次目が覚めた時には帰ってると思う。地李さんとの時間を大切にね。」
羽飛「叶える者よ。そなたの名を教えて欲しい。この身に刻みたいのだ。どう感謝したら良いか…」
ーー名。
多恵「えと…。名前かぁ…。んー。」
羽飛「頼む!名だけでも…!」
人間ではなくなったあの日から失ったもの。名前。みんな願いが叶えば満足して出ていった。名前を聞かれたのは初めてだった。
多恵「名前……。」
何か思い出。……探せ。自分の名前くらい…!
███「みずのえ…?」
多恵「これ1周で60年あるの。午年でもうちらの壬の他に、丙とか甲とか。十干によっては強さもある。性格の占いとかよく見るかも。」
███「強さって?あたしらは?」
多恵「壬午は勘の鋭さとか行動力と頭の回転の速さとか。戦う強さとかじゃないからね?」
███「戦闘力的なやつかと思ったー」
突然思い出した。大事な友人…だったかもしれない人との会話。目が大きく見開いた。瞳孔が揺れた。ちゃんと自分は生きてたんだ。ただの映像の断片じゃなかった。
「壬。うちの名前は壬。」
羽飛「壬殿。しっかりと刻み申した。感謝する。」
壬「いいえ。こちらこそ。」
ありがとう。思い出させてくれて。
地李がドアをくぐる瞬間。羽飛が何かを思い出したように振り返った。
羽飛「壬殿。ここらで怪異を嗅ぎまわってる人間がいる様だ。こちらが手を出さなければ友好的らしいが気を付けられよ。」
壬「初めて聞いた。ありがとう。」
羽飛「では。壬殿。達者で。」
静かにドアが閉まる。三日月がドアの小窓から光を指していた。
壬「怪異を嗅ぎ回る…。うちは怪異なのか…?人間じゃないし…。最近は人に見られるからなぁ。見た目ならバレないでしょ。」
ーー翌日。深夜。
約半月暇だ。昨日は1件のみ。独りの時間。喫茶店いこ。
壬は月明かりの中歩き出した。




