第20話:平和を汚す者と、静かな怒り
その日の午後は、いつもより少しだけ風が冷たかった。
「ルーク様! 見てください、図書館カフェの裏に植えたお花が咲きましたよ!」
シルフィが、エプロンのポケットに小さな花を挿して、嬉しそうに報告してくる。
俺は淹れたての紅茶を一口飲み、その穏やかな笑顔に目を細めた。
「本当だ、綺麗な色だな。シルフィによく似合ってる」
「えへへ……ありがとうございます!」
シルフィは顔を赤くして笑うと、「皆様にもお見せしてきますね!」と広場の方へ駆けていった。
本当に、ここでの生活は平和だ。
かつての俺が喉から手が出るほど欲しがっていた『誰にも邪魔されない日常』が、ここにはある。
――だが、その平和が足元から崩れようとしていることに、俺は気づいていた。
(……虫除け結界に、小さな穴が開けられたな)
俺が張った結界は、物理的な侵入だけでなく『悪意』の波動にも反応する。
今、村の境界付近で、三つの不快な魔力が蠢いている。
しかも、そのうちの一つには覚えがあった。
(宮廷魔術師団の……副団長の魔力か。まだ生きてたんだな)
俺は椅子から立ち上がることなく、ゆっくりと紅茶を飲み干した。
わざわざ結界に穴を開けて忍び込んできたということは、話し合いに来たわけではないだろう。
嫌な予感がして広場の方へ視線を向けると、そこにはシルフィの姿がなかった。
代わりに、地面に一輪の『小さな花』が落ちている。
さっき、彼女が大切そうに胸に飾っていた花だ。
「…………」
俺は静かに立ち上がった。
怒りで頭が熱くなるかと思ったが、意外にも心は氷のように冷えていた。
「クロ。ちょっと留守番を頼む。エルフのみんなを家の中から出さないようにしてくれ」
『グルル……?』
日向ぼっこをしていた黒竜が、俺の異変を察して身を起こした。
「大丈夫だ。……ゴミ掃除に行くだけだから」
俺はそのまま、村の境界にある深い森へと足を踏み入れた。
◇◇◇
森の奥。
かつての宮廷魔術師団の副団長・バルトロは、捕らえたシルフィを魔法の縄で拘束し、醜い笑みを浮かべていた。
「ひ、離してください……っ! ルーク様が黙っていませんよ……!」
「黙れ、エルフの小娘。ルークだと? あんな腰抜けの男、人質さえいれば赤子同然だ」
バルトロは、側に控える二人の暗殺者に合図を送る。
彼らは旧王国で「影」と呼ばれていた、対人特化の魔術暗殺者だ。
「奴が来たら、即座に魔力封じの首輪を嵌めろ。あの膨大な魔力……再び我が国の盾として使い潰してやるわ。今度は逃げられぬよう、両足の腱を切っておくのもいいな」
バルトロが下劣な計画を語っていると、森の木々がザワリと揺れた。
「……意外と早かったな、ルーク」
木立の隙間から、俺が姿を現した。
バルトロは勝ち誇ったように、シルフィの首元にナイフを突きつける。
「動くなよ! 一歩でも動けば、このエルフの首が飛ぶぞ! さあ、大人しく膝をつけ、ルーク!」
「ルーク様……っ! 来ちゃダメです! 逃げて……っ!!」
シルフィが涙ながらに叫ぶ。
俺は足を止め、無表情にバルトロを見つめた。
「……バルトロ。あんた、俺がどうしてあの国を出たか、まだ分かってないみたいだな」
「あぁ? 愛想を尽かされたからだろう? 安心しろ、俺たちが再び『居場所』を与えてやる。地下牢という最高の居場所をな!」
バルトロの嘲笑が森に響く。
俺はふぅ、と深い溜息をついた。
「俺は、すべてを諦めたんだ。名誉も、地位も、国への忠誠も。……でもな」
俺の足元から、黒い魔力の波動が静かに広がり始めた。
森の鳥たちが一斉に逃げ出し、空が急激に暗転していく。
「今、この場所にある『平和』だけは、絶対に諦めないと決めてるんだよ」
「な、なんだ……この魔力は……!? ひ、怯むな! こいつを殺せ!」
バルトロが叫び、二人の暗殺者が影から飛び出した。
彼らが手にした短剣には、あらゆる防御魔法を貫通する古代の呪いが込められている。
だが。
「……邪魔だ」
俺が指をパチンと鳴らした瞬間。
ドォォォォォォォォォンッ!!!!!
物理的な衝撃波ではなく、純粋な『質量を持った魔力』が二人を押し潰した。
暗殺者たちは悲鳴を上げる暇もなく地面にめり込み、そのまま意識を失って沈黙した。
「な、な……っ!? ば、化け物か、貴様……っ!!」
腰を抜かしたバルトロが、ガタガタと震えながらシルフィを盾にする。
「く、来るな! この女が死んでもいいのか!?」
「……シルフィ」
俺が名前を呼ぶと、シルフィを縛っていた魔法の縄が、まるでおもちゃのようにパリンと砕け散った。
俺の魔力が、彼女に危害を加える術式だけを選別して破壊したのだ。
「え……?」
「こっちへおいで、シルフィ。もう大丈夫だ」
シルフィが俺の元へ駆け寄ってくる。
俺は彼女を片腕で抱き寄せ、その頭を優しく撫でた。
「ごめんな、怖い思いをさせて」
「ル、ルーク様……っ」
俺はシルフィを背後に隠し、地面を這いずって逃げようとするバルトロを見下ろした。
「バルトロ。あんたたちが守りたかった『国』は、もうどこにもない。……あるのは、あんたたちが犯した罪だけだ」
「ひ、ひぃぃっ! 助けてくれ、ルーク! 悪かった、私が悪かった! 何でもする、何でも話すから……っ!!」
「……謝らなくていいよ。あんたの言葉には、もう何の価値もないから」
俺は右手を静かにかざした。
「『強制転送』」
まばゆい光がバルトロを包み込む。
彼が飛ばされた先は――魔獣が跋扈し、もはや地獄と化した旧王国の王都跡地。
そこで彼を待っているのは、かつて彼が見捨て、踏みにじってきた人々……ではなく、飢えた魔獣たちの群れだ。
彼には、自分が望んだ『王国の再興』を、その身をもって味ってもらうことにした。
森に、再び静寂が戻る。
「……終わったよ、シルフィ。帰って、温かい紅茶でも飲もう」
俺が微笑むと、シルフィは俺の胸に顔を埋めて、わっと泣き出した。
俺は彼女が泣き止むまで、ずっとその背中をさすり続けた。
平和を汚す者は、もういない。
俺はこの『究極の日常』を守るためなら、何度でも、世界を敵に回してでも戦うだろう。
夕暮れの森を、俺たちは二人で、ゆっくりと村へ向かって歩き出した。




