護れる者
しんと静まり返った魔女の森を、冴えた星の瞬きが見守っている。今日という日は、この森にとっても歴史的な記念日になるだろう。何しろ堅固な聖域を創り出した最初の魔女が、遥かなる時空を超えてまた降り立つという奇跡を叶えたのだから。森は喜び、樹冠の頂端から根の先端、花、下草、土壌に至るまでうずうずと揺れて、沸き立つ思いを力いっぱいに表している。今まで感じたことのない強いエネルギーが流れ込んできている。
もちろん、その一人の男にとっても待ちに待った恩寵を享受する初めての奇跡がついに起きたことになる。許しを乞う格好で大地にうずくまる夫に、一歩ずつ歩み寄ったトゥーラが恭しく手を差し出した。小さく驚いたミスター・ルウは、一瞬の躊躇を経てしなやかな白い手をとる。
そして、ゆっくり立ち上がると首を折った。目の前の女性に向けて頭を下げたのだ。大きな水滴が鉛直にぼとぼとと零れ落ちる。握り込んだ拳に力を込めてから、顎を上げ、ようやく彼女の顔を直視した。握り込むように必死に手をとり、降り積もった想いを伝えようとして。
「トゥーラ、さぞ辛い最期だったろう。見知る誰にも見届けられず、業火にいたぶられて…。申し訳なかった。僕が…何もできずに逝かせてしまった。謝っても謝りきれない。なんと酷いことを…」
切れ切れになって涙声で押し出そうとする言葉は、熱烈な歓迎でもなく恨み節でもなく、待ち続けた人への謝罪だった。彼は望みの薄い再会を待っていただけではなかった。気の遠くなる年月をずっと独り、やりきれない想いを胸に抱え込んで生きてきたのだ。追憶することで罪を忘れないように、新妻が魔女狩りの烈火に炙られて悶え、惨たらしく絶命する光景を脳裏に浮かべながら、塗り込められた闇の中で自責と後悔と、贖罪のための自問自答をひたすら繰り返してきたのだろう。受容されない詫び言を延々と暗黒の虚空に零しつけて、面と向かって詫びるための機会を求め続けていたのかもしれない。だが、今なら打てば応えが響く。恋い焦がれながら記憶の中からしか聞くことのできなかった彼女の肉声で。
「いいえ、アル。実は」
痛々しげに眉をひそめたトゥーラもまた、言い残す術のなかった五百年前のいきさつを切実に伝えようとしているようだった。
「私は、火刑に処せられる直前に既に事切れていたのです」
「え…」
「仮獄で処刑執行を待っていた時のことです。『血液が病人を治すために用いられる』と教唆されて、瀉血用のナイフと盥を与えられました」
『魔女村史』のテキストを思い出す。時代背景を記す文中にあった。
魔女狩りが過熱の一途を辿る一方で、超常のものの生き血を飲めば宿業の病もたちどころに癒える、また強い生命力ひいては不老の力を得られるという民間信仰が流布していた。超常のものの代表とは、とりもなおさず魔女である。体内を巡る血液は生命の象徴であり霊性の循環でもある、のだと。
「それは、私にとって神からの恩赦でした。国を呪う悪徳の魔女、と心底恐れる獄吏らには分からなかったでしょう。私の体そのものが価値を持ち、遺して誰かを癒すのだと最後の希望を与えられたのです。『人のために生きよ』と下界に戻され、しかし森の同胞さえ守ることもできなくなった私に---」
無垢なる数多の人たちが魔女狩りの犠牲となった中世において、呪いで王国を焼き尽くす、と豪語したトゥーラは、まさしく史上最悪の魔女だったのだろう。きっと予め血を抜かせることで、超常なる魔力を極力削ごうと画策したのに違いない。
「ナイフを差し出した執行人は、またこう言いました。『血を抜くならば、洞窟の集まりを末永く援助する』と。私は迷うことなく腕にナイフを刺しました。拍動に合わせてとくとくと赤い血が流れ出ました。体温の移った盥は真っ赤な血液で満たされていました」
そこで、少しだけトゥーラは言葉を切った。
「朦朧として静かに死が訪れたのを知りました。短かったけれど濃密だった生涯に出会った人やものが次々と現れました。私は、全てに別れを告げました。消えゆく意識の中で、この世の最期に見たものがわかる?」
彼女は、再会した夫に問うているようだった。答えは決まりきっている。僕のことかい、とミスター・ルウ、いやアルが目顔で応じた。
「ええその通り。あなたに吸血されて気を失った時のことを明確に思い出したのです。あぁ、このふらふらと軽くなっていく感覚はまさにあの時と同じだ、と。初めてアルに血を捧げた時のように幸せな記憶を伴って旅立てるのだ、と深遠な安らぎを感じて、私は平和な眠りに就きました」
「そうか…そうだったのか」
アルの顔は、涙と洟水とでもう恥も外聞もなくぐしゃぐしゃだった。その郷愁と慕情が伝染してきて胸を締め上げ、怒濤のごとく涙が滴り落ちるのをどうしようもなかった。
「だから、私の死に際に関してどうか何の罪悪感も抱かないでね。私は、本当に幸せだった。森の同胞---ローザ、オト、ベアトリス、そしてあなた、アルという愛すべき家族を私はここで得ました。神意により蘇ってからは思し召しに添い、微力ながら人のために生きられたかもしれない、と自己満足の念すら抱きました。ただ…」
そして、トゥーラは何より責め苛まれるだろう憂慮を柔い胸に針を穿つごとく吐露した。
「ただ言いようもなく罪深いことに、私はまだ人の形も取らない胎内の我が子を道連れにしてしまいました。どうしても許されない罪です。
せめてもの償いに、私の魂はこの森を永劫に守護することを固く誓いました。私を連れ出したような外からの脅威が森の子らに襲ってこないように。魔女たちの聖域として、森が安泰で永く栄えるように。雨も風も大地も陽光も、彼らを包み込んで健やかに育むように」
おそらくそれが、聖トゥーラの最後にして最大の魔法なのだろう。『人のために生きよ』と託された使命の完遂なのだ。次々と血を受け継いでいく後裔たちの一人一人が、彼女の揺りかごに生まれる幼子なのだ。
呼びかけられた樹々が、承諾の反応を返すようにさわさわと従順に揺れている。わたしたちは、この父と母に見守られながら息をつなぎ脈を打ってきた。魔女村の祖である、遠く愛し合った黒衣の修道女と吸血鬼が、時代も次元も超えてひたと見つめ合う。
「この子が、生まれてよかった。ここで、愛や優しさに囲まれ、守り合う一員として本分を全うできていて、よかった。こんなに信じられないほど可愛い子がいるなんて、人が生きることの意味を知ることができただなんて---私は、母なのね、アル」
「そうだよ、トゥーラ。僕らはついに父と母になったよ。やっと、やっと君の…」
アルの声は、滂沱と流れる涙のせいで絶え絶えの波になっている。ソラは聖トゥーラの生まれ変わりではなかった。母親によく似た二人の娘、ということだったのだ。シスター・ソラがようやく魔女村に生を受けた時、彼らは血縁で分かちがたく結びついた本物の家族になった。
「ごめんね、ソラ。でも、生まれてきてくれて本当にありがとう。アル、私は安心しています。これからは父親が傍で見守ってくれますから」
トゥーラが微笑むと、明るい光が溢れた。
「アル、私はあなたに伝えなければなりません。遅くなってごめんなさい。でも、ありがとう。最初から最後まで本当にありがとう。やはりあなたこそ『護れる者』です。毎夜毎夜、一日も休むことなく森を警邏してくださったのですね」
まさか、と思った。今彼女がそう言うならば、それはすなわち五百年に亘って、という意味だ。胎動する洞窟の頃から変わらずに毎夜、毎夜警固していた---。誰が省みるでもなく存在を知られてさえいない中で、見つからないように密かに、陰から陰を伝いながら見回ってきたのだというのだろうか。夜行性の猛獣を闇の気配で遠ざけ、もしやトゥーラを捕縛したあの日以来の侵入者が来はしまいかと淡々と巡警した。
あぁ、そうだ。村は森の奥にありながら、それに、夜間に働く魔女も多い中で、日が暮れて以降に肉食動物に襲われる事例は皆無に等しい。<トゥーラの聖痕>を少し外回る魔女の森の影響力。近づく者を惑わせ攫っていく森の磁場。戦時中王国から訪ってくる使節を襲ったという見えない獣。それは表沙汰になったほんの一例として---。
わたしたちは、守られていたのだ、体温を持たないはずの熱い彼の手によって。例えば、王国の人間兵器として戦争に加担させられる事態、そのことにより魔女の利用を事後承諾として現実化させてしまう可能性を摘んでくれるような人がいた。泰平の世を過ごしてきたわたしたちは、知らないうちに狩っていかれる危険に幾度となく晒されていた。
誰一人思いつきもしなかった。発祥から根を下ろした長命の影の功労者が、今日の今日まで愚直に森を守ってきたなどと。ましてや夢にも見ない、トゥーラの連行以来、揺籃の昔から一切の侵入を許さなかった魔女たちの守護者が、悪魔に近しい異類の吸血鬼だなどとは。すぐそこまで伸びていた魔の手を歴史の闇に葬ってくれた人を、むしろ想像上の生き物と侮って嘲笑的に嫌っていたのではなかったか。悪いものと決めつけて、教育の機会に子どもを脅かす材料として使ってきたのではなかったか。
「だからこそ、森は末裔たちをその懐に入れたまま、長きに亘って秘密として抱き続けたのです。悪しき脅威を弾き、見事に聖域としての機能を保ちました。私がかけた願いをあなたが維持したのです、アル」
アレクセイ---その真意は『護れる者』。彼だったからこそ。孤立した陰なる異族だったからこそ。そう名づけた麗しの女性がもう一度懇ろに呼ばわったことで、大きすぎる彼のその労はほんの少しでも報われただろうか。
「それが僕の役目だ」
驚くべきことに、そんなことは至って当然なのだとでも言うような何気ない平滑な調子で、彼は静かに応えた。
しばらくの間、両立する魔女村の護り手たちは、時を超えて向き合い、無言で胸中を語り合っているようだった。できることならば、このまま時間が止まればいい。無償の愛を交換した御祖の二人に対して、成就された面会はどう考えても短すぎると思った。
しかしながら、どうやら奇跡の逢瀬には、無情にも終幕が近付いているようだ。聖女が故郷へ還る道筋を照らしたはずのかぼちゃたちの灯火は、強風に吹かれて早くピークを過ぎようとしている。暴風に煽られて一気に燃え上がっていたハロウィンの香木も、わずかな熾を残して消えかけようとしていた。
聖トゥーラの声が、不思議に深く響く。まるで麗しい春の光が森全体に染み込むように。
「愛しています、心から」
それは、わたしたちに対する超越なるものからの言祝ぎだった。始祖の彼女から改めて贈られた愛という名の最上の祈りだ。
どうしても何か一片の返礼を戻さなければならない、と焦らんばかりに強い思いが突き上げた。けれど、一つも言葉にならなかった。何を言っても足りない気がした。わたしたちもあなたを信じ、感謝と敬意を捧げます。あの時から今の今まで、永く永くこの森を、わたしたちを大事に護ってくれてありがとう。あなたから繋がった魔女たちの村は、力を合わせてこれからもきっと生きおおせます。後から思えばそう伝えたかったのだけれど。
代わりに、わたしは慣れない十字を切った。この女性のために祈りたい、と心の底から願ったからだ。波乱に富んだ人生をゆるぎなく歩み、今なお他者への祈りを捧げ続ける孤高の聖女。比類なき気高さの一方で、率直にすぎるほど純粋な愛を告げる女性---。
伝説の魔女であるトゥーラは、目を瞠るほど人懐こい笑みを全面に湛えた。その聖なる輝きはただただ眩しく、その温かみは見る者の心奥を柔らかく溶かしていった。
徐に動いたトゥーラの濡れた黒目が、最愛の夫をまっすぐに映す。彼もまた再会の終焉を肌で感じているようだった。
トゥーラの細い指が、いつまでもいくらでも零れ落ちる涙滴を、傷付いた頬に沿って愛おしげに拭う。
「本当に本当にごめんなさい、アル。突然あなたの前から去り、どんなにか辛い時間を過ごさせたことでしょう」
有限の人間でないからこそ、ひたすらに恋い慕い想像もつかない時間を一途に捧げてきた。彼ほど純粋な愛を持った人はいない。これほどまでに大きな人間愛を実現した人はいなかったに違いない。彼以上に長く生きる者がこの世に存在しないのと同じように。妻の子らを守りながら、闇の中の孤独を耐え抜いた人。トゥーラと対をなす偉大なる父、だ。堰を切ったアレクセイの涙は、嗚咽とともにもう止む理由がなかった。
「アル、ずっと見守っていました。やっとこの名を呼べましたね。アル、私はあなたと出会って、結ばれて、本当に幸せでした。どれほど救われたことでしょう。アル、私を、私たちを守ってくれてありがとう」
夜の帳が下りた秘密の森の集落で、震える両腕が、シスター・ソラの、いやひたすら待ち続けた新妻トゥーラの華奢な身体を強く強く抱きしめた。
「もう、限度です。これからもきっとずっと見守っています。ソラをよろしく。なんだかふわふわしていますから」
優しく抱きしめ返したトゥーラは、眉根を寄せた切ない笑みを美しい面に浮かべた。ハロウィンには祖霊が戻る。小動物に憑依することもあったかもしれない、と思った。もしかしたら、の空想だけれど。
「来られてよかった」
今回は特異点があった。愛娘の他に、森の集落に彼が復帰していたのだ。宇宙の流れとして輪廻が終わる頃合いだった。最後に会える機会を得て、彼女の魂はとうとう天国に還るのかもしれない。これから生みの母の手を離れて、秘密の村は秘密でなくなるのだ。新しい時代がやって来る。
「会えてよかった」
前世も現実も、次元さえ超越した漆黒の目が熱い涙に揺らぐ。伝説の聖女が、目の前で永い恋しさに泣いている。
「トゥーラ」
慟哭する。万感の思いに震える。今まさに去りゆくトゥーラを両腕にしかとかき抱き、魂の全てを搾り出すようにアレクセイ・ルービックが叫んだ。
「愛してる」
全ての始まり。育まれ、傷ついて引き裂かれ、最後に必ず伝えられなければならない永遠の別れの言葉。限りない彼らの絆の約束として。
「愛してる」
今度は消え入りそうな頼りなさで囁く。母の胸でぐずぐずと泣く幼い子どものように---。
その魔女は全てを受け入れ、許し、理解し、その印に思い残すことは何一つないような、これ以上はないというほどの心からの幸せな微笑を浮かべる。
「私も、愛しています」
トゥーラが贈った最後の呪文は、寄り添う胸を伝いミスター・ルウの心に溶けた。
トゥーラは、今度こそ逝ってしまった。けれど、再び出会った一対の魂は、今まで、そして未来永劫に、決して分かたれることなどないように思えた。




