悪夢の見本
「実は、軟派なあいつは、あのドピンクの悪い虫めが、こともあろうにシスター・ソラにしつこく付き纏っていたんだ。コニーG翁に半ば強制されてこの教会玄関までリスの彫刻を運ばされたらしく、その時初めて言葉を交わしたようだった。それまでは特に訪れる習慣はなかったという」
話すうちにだんだんと静かな怒りを露わにして、ミスター・ルウは子供っぽく吐き捨てるように口角を歪めている。それは、久しぶりに触れる愉快な先生らしさだった。
「ということは、先生が入村された頃ですね」
「そういうことになる。ちょうど私が来てよかったよ。あんな悪い虫がシスター・ソラに…」
「そうですね」
「あのワルプルギスの夜にもシスター・ソラに絡んでいるのを見かけたが、やんわり拒否されると呆気なく引き下がった。青白い顔をしてふらついているようだった。
奴は、雨を降らせる儀式のために用意されていた拝礼台に潜り込んで、身震いしながらうーうー唸っていた。その夜少しも飲食していないことは、逐一動きを追っていた私にはわかっていた。酒酔いではなかった。
ピンときた。私自身にも経験のあるあの苦しみだ、と。普通の人間から変異する時の手足の痺れと寒気。奴は私の同類になろうとしていた。この聖なる森で、正体不明の闇の怪異に襲われるわけもあるまい。自然の成り行きで起こった突然変異だった。
シスター・ソラが拝礼台に向かって歩いてくると、奴は彼女の発する極上の匂いを本能で嗅ぎ取り立ち上がった。背後からにじり寄って、かじかむ脚のせいで転倒しそうになりながら噛み付くような仕草を見せた。その瞬間、私はさりげなく奴の腰を摑んで力任せに引き止めた。目撃した者には、酔漢が足をもつれさせて側にいた私に偶々支えられる、というありふれた一場面として映ったことだろう。
暴れ続けようとするところを何食わぬ顔で押さえ付けたが、横暴な食欲に忘我して今にもまた襲いかからんばかりだった。衆人環視の場で決して事を起こさせるわけにはいかない。いかな魔女でも吸血鬼に襲撃されれば恐慌を呈するだろう。同類の暴挙で大混乱を引き起こすことは避けたい。
その時、燃え上がるワルプルギスの炎が目に付いた。同族の先輩から罰として手痛い洗礼を授けてやろう。そういう気持ちもあったことを否定はしまい。
陽光で七転八倒を体験してきた私には、物理的な火傷はむしろ軽症で済むことを感覚的に予測できた。私たちは炎の高温すら感じないし、経験的には多少焦げても手当てさえすれば治るだろうという見込みがあった。
私は、奴の目線を捕らえ強く念じた。
(お前は火中に留まるのだ。さすれば渇きも収まろう。恐れるでない。火傷は程なくして癒える)
ワルプルギスの巨大な焚き火は、我先に菓子を焼こうと群れなす小人に取り囲まれて、うまい具合に死角ができていた。肩車の上に肩車をして段高く重なる小人の壁が、何層もぎゅう詰めに円を描いた。彼らの帽子に結ばれた大きなリボンも目隠しに一役買ったことだろう。酔いつぶれるか夢現のようにぼんやりしている時間帯だったから、周囲に過敏に注意を払う者もいなかったはずだ。
奴は火の中に吸い込まれていった。私の催眠術がうまく働いた証拠に、雨が焚き火を消し止めるまで誰にも気付かれることはなかった」
嫉妬心と正義感からとは言え、後先考えずにずいぶんと大胆なことを仕出かしたものだ。
「焚き火が消えたら焼死体が発見されるということを考えなかったんですか?」
「考えていたら実行しなかった…と思う」
「誰かを庇って嘘をついていたりするわけではないんですね?」
「ああ。この件は、完全に私の独断専行だ」
飲み過ぎだと小馬鹿にしていたが、あの夜トッティは吸血鬼になりつつある苦痛にもめげずナンパに励んでいたのか。そして、目に余したミスター・ルウに手ひどくたしなめられたということになる。
「炎に焼かれても死んでいなかったんですね。トッティは今どこにいるんですか」
いろいろありすぎて衝撃だが、受け入れるよりない。それより嬉しさの方が大きかった。ほっとしていた。トッティが生きているとわかったらアンナが喜ぶに違いない。アンナが---わたしはもっとも心配していた重要なことを畳みかけた。
「ミスター・ルウ、アンナの行方について何か知っていますか」
すると、いともあっさりと期待していた返事が戻ってくる。
「アンナは学校の用務小屋にいるよ。もちろん無事だ。公民館に戻ってきた団長から内々に事情は聞いた。急いで戻ったら案の定だ。吸血のショックで深く眠り込んでいたけど、命に別状はないようだった。血液補給のために人工血液を飲ませて様子を見ている。目覚めたら記憶を消して帰すつもりだったんだ」
よかった。本当によかった。安心して涙腺が緩む。思わず感謝していた。
「ミスター・ルウ、ありがとうございます。人工血液を速やかに飲ませてく…」
いや、冷静に考えてみれば、よくあんな鉄の匂いのする気色悪いどろどろを普通の人間に飲ませたな。
「劇物に匹敵しますよ」
「え、ごめん。だって…」
言い訳を連ねようとするミスター・ルウを遮断して、とりあえず娘の無事をアンナパパに知らせる。‘‘WITCH’’にはすぐ用務小屋に行く、と電光石火で返信があった。
「それにしても、言い方が不謹慎かもしれないが、我を忘れ飲み過ぎて死なせてしまうというのは何というか時代遅れなんだね。人工血液の好影響もさることながら、変異したての無分別な吸血鬼でも、勢い余った無慈悲な行いはしなかった。アンナと並んで、トッティもぐうぐう寝ていたよ。満足そうな顔をして」
それは微笑ましい情景だが、ミスター・ルウの間抜けな口調にこちらも拍子抜けしてしまう。
「ワルプルギス以降、トッティは用務小屋で預かっていたんだ。まず火傷を治して人を襲わないよう教育する必要もあったし、少なくとも体質が落ち着くまで引き取ってうまく監督できるのは私しかいなかったから。狭いあばら家で闇の男二人プラスねずみ一匹の生活は、悪夢の見本のようだったけど、出来の悪い息子を見守るような気分を初めて味わった。映画と違って、噛まれたら変身するなんていう生態はないからね。『仲間がいる』ってことは、非常に重要なことだよ」
「仲間---では普通に考えて、一連のトッティの騒動は団長や副団長もご承知なんですね?」
ミスター・ルウは冷たい響きに引いているようだ。この最大に増した睨みつける眼力で、古の悪い魔女だろうが吸血鬼だろうがいともたやすく縛りつけられるんじゃないかという自信が湧き上がる。もう怖いものはない。
「そ、そうだね。そういうことになるかな」
「なんですって!人がどれだけ心配したと思ってるんですか!」
「お、お二方とも協議団の長だし、焦げたトッティの身柄を前に正体を仄めかした私との意見の擦り合わせがあったからこそ、事後に対応できたわけで。アンナが用務小屋に無事でいるってことも、私の態度から勘づいてたかな、うん。もちろん把握してるね。彼女たちも人が悪いよねぇ?」
「ご自分がいちばん悪いですよね!」
「治癒魔女さんなんて、吸血鬼だとまでは知りようがないにしたって私が普通じゃないことにはうすうす気づいてたと思うよ。でも、私の良すぎる人柄が追及させなかったというか、魔女の懐が異様に深かったというか。受け入れるよね、わけのわからないものでも。まぁ、元々私も魔女の森の出身だからねぇ。というか村の創始者だから。ご先祖だよ、リアルご先祖。ハロウィンよりだいぶ前から帰ってきてるけど」
次から次へと出任せを並べながら、慌しい身ぶり手ぶりに連動してもじゃもじゃが跳ねまくっている。最終的にごまかしのにんまり笑顔をキメたのが着地点になった。
わたしは、半ばうんざりしながらも否応なく知った。闇の本質を持つとしても、自然の道理に背く異常な生態の生き物だとしても、やはりミスター・ルウはミスター・ルウなのだ、と。
やっと一息吐けた気がした。だが、長い緊張から解放された途端に、あの痛みがぶり返して背筋を冷や汗が流れた。図書室の禍々しい予言と生きたまま焼かれる魔女狩りの幻覚は、いろいろなことに紛れてようやく忘れかけていたのに。
「ミセス・ゼムフィーラ、図書室開架の『聖トゥーラの伝承』という本はご存知ですよね。室内閲覧のみの村有文書です。あれを開いた時、雷が鳴って変な声を聞いたんです。トゥーラの呪いが蘇る、と」
しょんぼりと力を落としていたミセス・ゼムフィーラは、今思い出したというように口に手を当てた。
「驚かせてごめんなさい。あれは偽書なのよ。歴史の敗者が事実無根のストーリーを捏造することもあるし、目的不明だけど史実を撹乱させるために書き綴られることもある。あれはページを繰ると文面を読み上げる下手な魔法がかかっていたけど、それが妙な具合に熟成しちゃってたなんて。気づかなくてごめんなさいね」
ひどい幻覚の雷と架空の光景を疑似体験させるほどに魔法が深部に発達していた、というわけか。図書室のバイトリーダーことアンナは、そんなこと慣れっこだったんだろう。やっぱり言うまでもない事件だったのだ。真剣に思い悩んでいたことが、たったこれだけの伝達ですっきり解決してしまった。神経質な弱点と、人とのコミュニケーションは見直さなければならない。
そして、何が起きるかなど分からない。わたしは、改めて思った。ここはそういう場所なのだ。知見の集積である図書室ですら、舐めてかかってはいけない。魔女村に属するものみな全て恐るべし。




