<追想> その3
枯れ果てて硬かったトゥーラの手が、しなやかに虚空を滑っていたと気付いたのは、あんなことになってからしばらく後のことだ。
天候を変えてしまうほど凄腕であることは知っていたのに、あの穏和な同居人が、あれほど豪胆なことを仕出かすとは考えもしなかった。
地層すら叩き割る雷によって、森が真二つに断絶された。
それは、トゥーラが引いた隔離領域の境界線で、吐き付けた呪詛は、効力を永続させるための又とない寿ぎだった。
---人生を、まるごと守り抜かれた。
悪逆の魔女を演じ、熾烈を極める炎の死罪を引き受けるのに僅かな迷いもなかった。
なす術なくそうさせたわたしたちは、鮮血が垂れるまで握り拳を固め、割れるほど奥歯を噛み締めて、ただ生きることを誓うしかなかった。
だから、わたしたちは死なずに生きていかなければならない。
迎え入れてくれた聖域の主から生命を奪い取ったからこそ。
貴い犠牲の上に鼓動が続いていることを、心に刻んでいなければならない。
トゥーラの故郷となったこの深い森が、わたしたちをその懐に抱き続ける限りは。
トゥーラ。
本当なら、あの陰の者については、とやかく言わずにおきたかった。
一人の大人の女性として、結び合う相手がいるなら幸いなことだ。
自分の意思で選んだのだ。身体の一部を食されようと、どんな種族だとしても、構わない。
わたしたちだって魔女と呼ばれて脱落している。
感情的に批判して当時はごたついてしまったが、信頼してもいい男なのだ、と分かってさえいれば口を噤んでいただろう。
結局、非常事態にトゥーラを守りなさいよ、と言ったのはわたしだった。
だから、あれは夜の者であるにもかかわらず、黒焦げになって這い蹲って、トゥーラの元へ必死にたどり着こうとしていたのだ。
春の光を浴びて焼死体のように倒れていた彼を連れて帰り、洞窟で介抱した。
警戒はしていたが、生き血を求めて襲ってくるような気配は全くなかった。
無害どころか、気を落とした様子は痛ましすぎた。
性質上暗いのか、それとも前向きなのか、女々しいのか勇ましいのかわからない変な男で、遠慮がちかと思えば、唐突に慣れ慣れしい口を利くこともあった。
全快して洞窟を出て行ってからも、ちょくちょく近辺を訪れていることは知っている。
トゥーラの想い出に浸りたいのか、悪魔ながら忠実な用心棒を務めているのかは分からない。
妙な親近感は、ある。
トゥーラによってつながった絆のようなものも、もしかしたらあるのかもしれない。
大事な人を亡くした寂しさを共有する、彼も家族のような存在なのだろうか。
孤高の友を、愛した。
甘やかな感傷を自身に許すまいとしても、ありありと思い出してしまう。
人懐こい笑顔を、かわいらしく慌てる様子を、全てを懸けた聖母のように黙する背中が示した強さを。
突然の別れと早すぎた死去。
オトも、ベアトリスも、亡きトゥーラを思慕してやまない。
人の息吹のない森の奥で、逃げ隠れたわたしたちは、たった四人だけだったのだ。
いや、正確には最初の五人か。
確かめなくても、ちゃんと分かっている。
どんな小さなことでも、わたしたちの血の中を巡っている。
剥き出しの生命を庇ってくれた、言葉なきトゥーラの遺命---守り合って、支え合って、生きていくこと。
それだけが、遺されたわたしたちの至上命題だ。
魔女の矜持だ。
逃れてくる者たちを、言葉少なに、けれど温かく迎え入れてきた。
もうここは、四人きりではない。
たくさんの人が住む共同体になった。
永遠に不在の開拓者。
偉大な母なる真の魔女。
そして、パンを好きだった気さくな親友。
わたしたちの大事な家族だったトゥーラの、
愛に報いる、一つきりの答え。
生命を護る。
時に激しく燃えながら。
笑い合って、喧嘩して、感謝しながら。
無償の愛を、時に思い出しながら。
そうだ。
今もまだ、彼女は森を守護している。
気配を感じない日がないのは、ずっと近くにいてくれているからだ。
生かされて、生きる。
生きたい。
けしからぬ魔女を狩らんと再び外敵が襲ってこようが、
致死の流行り病が猛威を振るおうが、
たとえ何が起きたとしても。
生きよう。
仲間のいる、森の中の秘密の集落で---。
そして。
無言の決意をしてから、長い時間がわたしの上を流れた。
生かしてもらった。
こんなに老いるまで。
わたしも、そろそろ逝く。
老い先短いわたしの宿願は、来世のトゥーラが愛を成就することだ。
わたしはもう一度この森に産まれ落ちて、平和な時代の魔女たちの村を、この目に映してみたいと思う。
いつになることだろう。
その頃、一切老けないあの吸血鬼は、まだ律儀にここを訪れているだろうか。
トゥーラの魂は、森を護っているのだろうか。それとも、生まれ変わって幸せに暮らしているだろうか。
魔女の血脈は、森に抱かれて末永く根差しているに違いないけれど。




