独白
結局、それでも私は死ななかった。雨が降ったらしい。涙雨だと誰かが言ったが、それは騒いだ森を鎮め、半死にの私の身体にも優しく沁みて癒しをもたらす本物の奇跡の雨だった。
消沈しきった一行に発見された私は、ローザの指揮によって洞窟に連れ帰られることとなった。トゥーラが森から連れられて行く間際のいきさつは、治療の枕元で僅かずつ聞き取ることができた。
黒変した肌を浄水で洗い、火傷に効く薬草を塗り込んでくれたのは、家族思いで心配性のローザだったらしい。ローザに倣い困難な治癒を促進したのは、純朴で芯の強い癒しの魔女オトの小さな手だった。抜け殻だったベアトリスも、怪我人を介抱する庇護心からいつしか精神を立て直した。
罪に問われていたベアトリスは、『悪逆の魔女によって監禁され死亡した』として故国の家族に報告されることとなった。証拠としての遺髪を採取しに来た王国の兵士から、王都の広場で火炙りを執行されたその天候魔女が刑死したことを伝えられた。検分の結果、体内からは掌にも足りないほどの胎児が確認されたという---。
傷が癒えて夏が来る頃、私は洞窟を出た。
繁る葉に紛れて、輝くトゥーラの十字架は彼女が掛けたそのままの場所にあった。それは、所有者がいなくなったことでむしろ異様な存在感を放っていた。森の夜露が洗ったのか崇高な気を分け与えられているのか、一点の曇りもない彼女の象徴を、私は洞窟の入り口近くへそっと届け置いた。愛した森に骨も埋められなかったトゥーラの、せめて遺品だけでも洞穴の聖女たちの元へ戻すのが責務だと思った。
突風によってトゥーラが開けたという森の風穴は、朽ちつつある倒木から生えたひこばえや雑草で一面覆われていたが、雷の残した亀裂は深い闇を孕んで、いまだ焼け焦げた匂いすら嗅ぎ分けられる気のするほど生々しく、他を寄せ付けずに周囲を威圧していた。
---彼女と別れてから、正確にはどのくらいの時間が流れたのだろう。必ずまたここに生まれ出ると信じたが、喪ったものが大きすぎると、自己防衛で最初は麻痺していた感覚が回復してくるにつれ鬱に振れる。
今日は会えるだろうか。今日もまた会えなかった。反復に次ぐ反復だった。初めて会った春の日の修道女が、生きた静物画のごとく瞼の裏に浮かぶ。繰り返し繰り返し再生したが、一寸の変化もない。優しく微笑みかけ光を思い出させる幻の母に、最初からそれ以上美化する余地はなかったから。会いたい。トゥーラに、会いたい。一目だけでいい。それだけ叶うならば、終わることのない時間をずっとこの森に捧げよう---。
いつか会える。
きっと会える。
いや。
会えない。
なぜ時はこんなにも遅々として進まないのか。
会えるならば、いくらでも待とう。
会える、のだろうか。
一体、何年が経過した。
彼女が、遠い。
全て幻だったのだろうか。
どうせ私はずっと独りだ。
いつまで生きるのだろう。
終わりは、ないのだろうか。
死ねないのなら、どこかへ消えてしまいたい。
でも、ここしかない。
どこにも行く当てがない。
もう彼女には二度と会えないのかもしれない。
ああ、そうに違いない。
だが。
会いたい。
会いたくてしかたない。
トゥーラ。
可愛い妻。
微笑む聖域の魔女。
きっとまた戻ってきてくれ。
森は、私たちがいた頃と変わらない。
私も、同じだ。
殺めず、諦めずに、待っているから。
だから。
トゥーラ。
どうか。
もう一度だけ微笑ってほしい---。
---また虚しく昼を越し、闇が下りた。夜警にだけは出かけなければならない。それが辛うじて私という存在が許されるただ一つの意義だ。
最初は四人だった女たちの集まりは、男女を問わず逃げてくる者や新たに生まれた子を連ねて自然と増え、密やかな森の奥の集落をなしていた。洞窟で暮らしていた最初の四人は聖女として祀られ、トゥーラの銀の十字架は聖遺物として受け継がれていった。
箒に望遠鏡を提げた魔女が、樹上を滑るように飛んで行く。ここに、平穏な眠りに就く魔女たちの村がある---なぜなら、彼女が、その手で拓いたからだ。自然現象を司り、駆けてくる同志を守るために。そして、永の年月育まれるように。トゥーラの守護によって安らかに保たれた森に、ちゃんと魔女村は生きている。
世代が代わる毎に、私は村の中を訪った。夜間ならばどこへ忍び込むのも造作ない。物陰に紛れながら、新しい天候魔女が生まれていはしまいかと隅々まで探し回った。天候魔女が現れる時代もあったが長らくいない期間もあり、五世紀を通しても屈指の魔力を持つ者は数えるほどだった。その魔女たちもトゥーラの生まれ変わりではなかった。
落胆と切望を繰り返しながら、一日一日を手繰り寄せるように送り続けた。延々と時は続いた。いくら待てども二度と会えぬかもしれないと来る日も来る日も弱気に襲われたが、諦めてしまえば生きる意味をなくす。自死も叶わぬ私に思慕の情ばかりが募り、芳醇な血の匂いと喉を伝う温もり、日溜まりに立つ聖母の面差し、凛然とした黒い目を思い出して堪えた。暗い諦念すら呑み込んで、連綿と続く時の流れがやがて薄めてしまうまで、私はただ一人待っていた。
一方で、長く生きるうち、持てる力でことを運ぶ老練の術も覚えていた。王国との関係が村の生命線でもあったから、情報を得るため政府内部に子飼いの間者を仕込んである。この村が【公表】されることになった直後には、多少の工作を施した。得意の催眠術と少しばかりの腕力を駆使して。本来派遣されるはずだった教師がペガサス便に乗って村の間際までやって来た時、突然陰に襲われたはずだ。そして、赴任先を目の前にして単身徒歩で引き返すという奇妙な決断を下すこととなった。彼の苗字を借用し、私自身が教師としてここへ入った。
私の本性からすれば、たとえ妻の末裔たちであろうとその中に身一つで飛び込むことはある意味自殺行為ではある。トゥーラの子孫だからこそ、と言うべきか。現在の魔女たちに簡単に見破られて死の魔法をかけられるかもしれない。いや、それも私にとっては重畳だ。しかしながら、あの四人の子孫たちには悪しき魔法を使う術はなかった。平和に暮らす村人たちの余計な懸案になりたくはなかったが、意を決したのは、結局心配が過ぎたからだ。公表されてから無事に世間の荒波を乗り越えていけるのか気を揉みながら傍観するよりは、自分の目で見極めたかった。このような者ながら、どう転ぶかわからない究極の局面で、魔女村の維持において得難い年の功を提供することもあるやもしれない。ひいては、トゥーラが還ってくるためのふるさとを守ることにもなる。
---長かった。あまりにも。
教会に足を踏み入れ一人の修道女がこの目に映った瞬間、私はあの日の激烈なる雷に打たれた。
そこに、彼女がいた---。
トゥーラだ。この五世紀の間待ち焦がれた女性だった。変わらぬ漆黒の目を細めて柔らかく微笑みかけるトゥーラを、驚倒しそうな思いで凝視した。これほどに美しく尊い存在だったかと改めて思い知らされていた。それから、待ち過ぎたためについに狂ったのではないかと自問し、自分は白昼夢のような理想の幻覚を見ているのではないかと疑った。
畏れ多い清らかな気を浴びるようで近寄り難く臆したが、匂い立つあの懐かしい血の香が鼻腔をくすぐった時、彼女が本当にここにいるのだということが俄かに信用された。獣以下の卑しい吸血鬼の手も足も、歓喜に震え、同時に緊張で凍りつくのだと知った。
今世で呼ばれるソラという名の、この懐かしく年若い聖女を今度こそ不死の命に代えても守ろうと私は固く誓った。そして、身命を賭して守り切った者たちの村をなんとしても保護しなければ、と改めて覚悟した。奇しくも亡き妻の聖像の目の前で---。




