もう会えない (その二人≪中世≫ 8)
まだ安眠に浸っていていい昼日中のはずだった。私の仕事は、警戒の弱まる日没後から夜明けにかけての夜警だ。
松明を手にしたローザとベアトリスが洞窟の横穴を通過していった時、岩壁の窪みで眠っていた私は、急ぐ足音がすぐそばに聞こえて重い瞼を持ち上げた。全き暗闇のはずの狭い洞内が揺らめく火明かりに照らされると、眩しさに顔を逸らす流れで、腰を屈めたローザの視線とぶつかることになった。
ローザの面持ちはさっと強張った。年長の姉御肌だった彼女には、胸に去来する想いはたくさんあったに違いない。真夜中の逢瀬を目撃され、トゥーラを引き止められてしまったことはもちろん承知していた。また、それが理不尽な束縛などではなく、家族を守るための当然の対応であることも。
拗ねる気持ちが全く湧かなかったと言えば嘘になるが、ローザの真意はよく理解できた。身近な人にはできる限り安全で幸せにいてほしい。傷付く姿を見るのが忍びない。何を置いても息災であれ--ーそれらは普遍的な願いだ。立場が違うだけで、トゥーラに関する感情的な利害は一致していたし、秘密の五人目であった私にとっては、トゥーラ以外の三人もまた家族同然の存在だったのだ。
ローザは手中の炬火を振り回した。そして、起き上がりもせず目を覆うばかりの私の様子に威嚇が十分に働いたと見ると、立ち止まる余裕もなさそうな尖った空気を残して足早に通り過ぎようとした。
「行くよ」
連れを促す鋭い小声が、予想外に大きく響いた。肩に手を置かれたベアトリスは一言も漏らさず、血の気の失せた幽鬼のような風情で従うばかりだった。
このような所で出会したのが例の悪魔であろうとなかろうと今はそれどころではない、という圧迫感が、通常は煮炊きの煙しか運ばない横穴に無数の棘を生んでいた。
彼女たちは逃げようとしている---忌避すべき何事かが起きつつあることをひしひしと感じずにはいられなかった。寝惚け眼をこじ開け、そそくさと駆け去ろうとしている背に向けて、思い切って声をかける。
「あの、何がありました。トゥーラはどこに」
ベアトリスが跳ね、ローザはしばし迷う素振りを見せた後、諦めたように口を開いた。どうするにしても、とにかく早い決断が必要だったのだ。
「追っ手がかかったの。あんた…トゥーラを守りなさいよ。オトと二人で森から川へ向かったわ」
公正な潔さはローザの特長だった。切羽詰まった状況で不謹慎だが、圧の強い小姑に認めてもらえたかのような喜びを覚えた。
しかし、彼女たちの安寧と生存を脅かすものが迫っているということは、一刻一秒を争う火急の事態だった。魔女狩り---これほど遠くに放逐させてもなお追及の手は緩められてはいなかった。誰もが口にせずにいた最悪の懸念が、胎動する洞窟に襲来していたのだ。
気楽に眠っている場合などではなかった。見境なく岩の巣穴を飛び出した。だが、昼が統べる外の世界は私にとって絶望だった。夜明け間際のほの白く明るむ程度ならば多少は耐えられるようになっていたというものの、それもほんの短い時間のことだ。
無防備な敗者に強烈な光が襲った。直に刺す久方ぶりの太陽で、忽ち目は潰れてしまいそうになった。羽織っていたローブを頭に被り直しても、樹冠から漏れた春の陽光は容易にフェルトの布地を通した。
網膜を火炎で照射し眼底をナイフで錐揉みされるような疼痛が、嬉々として意識を奪いにかかる。思わず両指で眼窩を摑んだ。水平感覚を失って膝を突きそうになったが、必死に踏み止まった。気休めの日除けのローブもどこかの枝先に掛かって破れ落ちていた。眼球を抉り去りたい欲求を抑え、込み上げる吐き気を堪えながら頽れそうな足を押し出す度、生身の体を焼き滅ぼそうとする拷問の苦渋に見舞われる。火に嬲られたかのように溶け出た脂汗が、顎先からも体幹からもだらだらと垂れ落ちた。蛋白が焼ける香ばしい匂いが焦げくさい刺激臭に変わるのに大した時間はかからなかった。体表はみるみる溶けてしまい、剥き出しになった全身の粘膜や筋肉に直接焼き鏝を押し付けられた。それでも熱さを感じないことだけは、幸運だったと言えるかもしれない。ただ肉から変じた分厚い炭を、一時も止むことなく執拗に炙り続ける音がしていた。
ローザとベアトリスはとうに去り、波状攻撃の激痛に呻く私だけが森の途中で足留めをされていた。進んだつもりがもんどり打って倒れ込み、這って行こうとするも腕と背と脚とが灼け付いて満足に動かない。奇声を上げて悶え苦しむ黒炭を嘲笑うかのように、無敵の太陽は生理的に流れる涙さえからからに干した。
---ささやかに隠れ住む彼女に追捕の魔手を伸ばそうものなら、それが何者であろうと命乞いの猶予すら与えず、この牙が折れるまで噛み尽くし八つ裂きにして一滴の残血も許すまい。
そんな覚悟を持って毎晩邪な侵入者を警戒していたというのに、いざという危機に瀕して、情けない私には白日の下を大手を振って歩くことすらできないというのだ。
いや、それでも関係ない。理性を失くした炭塊と化しても執念で必ずや辿り着く。木陰に溶けて狙いを定め、這いずり回ってでも全員を噛んでやる。炭の脚が千切れても、全身が粉々に砕け散っても。
---『護れる者』と名付けてくれたその人を、頼むから護らせてくれ。そのための存在だろう、私は。
何にともなく乞い願い、あるだけの気力を振り絞って川縁のトゥーラを目指した。炎熱に焼かれる苦悶を呑み込み、焼き縮れる焦げ臭い皮を力尽くで引き毟って。
---帰るところはない。何もない。互いの存在だけが、生きる理由だ。
春の日差しに包まれた聖母の笑顔が、なけなしの勇気を助長するように胸の中に灯った。彼女は、私の妻だ。結ばれたばかりの新妻を、私は命を懸けて守らなければならない。たとえ目鼻すら分からない丸焦げの傀儡に成り果てようとも、最期の瞬間に彼女が傍にいてくれさえすればそれでいい。本望だ。あの笑顔を向けられる対象であること。それが叶っただけで、迷走した私の生は意味を持つ。
雪解け水に泥濘む森を僅かずつ這い進み、灰のような目で追い詰められた四人を前方に確かめた時には、ひくひくと蠢くばかりの黒焦げの塊となっていた。直後に巻き起こった突風と猛り狂う落雷にも反応できないほど身体機能は低下しきっていた。
ただ、トゥーラの低く熱した声だけが耳奥に残っている。去っていく新妻の最後の後ろ姿を目に入れることすら、もう私にはできなかったのだ。




