悪逆の魔女 (その二人≪中世≫ 7)
利き腕をいっぱいに引く射手の指先が、限界点まで怒張した弓弦を弾こうとしている---。ほんの僅かでも離れたが最後、一瞬の猶予もなくベアトリスのたおやかな肉が無残な串刺しになる。ローザは思わず目を瞑り、オトは咄嗟に伏せさせようとした。
まさにその刹那だった、正体不明の轟音が前触れもなく近衛隊に襲いかかったのは---。
世界が、揺れた。
瞼を持ち上げたローザが見たのは、正面に見る森が土ごと一方向に押し寄せられている光景だった。森に風穴が開いていた。川縁から向こう側へと樹々は根こそぎ薙ぎ倒され、さらに軽々と吐き飛ばされて折り重なり、緑と土色の絨毯を敷き詰めた平野の壮観を呈していた。
何が起こったのか即座に言い当てられる者はいなかったに違いない。凄まじい轟音に襲われたと感じた途端、何とも知れない痛打を全身あらゆるところに浴びた。そう認知する間もないほどの出来事だった。
それは、透明の衝撃だった。不意に激突してきたものは、形も色もない。経験から推し量るにも巨大すぎて判断材料に乏しい。どうやら風の一種であろうと捉えるしかなかったが、並大抵のそれでないことは明白だった。物理的な打撃を与えたからには、可能であるなら、緊密な硬度を得た大気の衝突、と言い換えてもよかっただろう。気流の吹き来る音さえ立てず出し抜けにぶつかることとなったのは、あまりにも近くから発生したためだと思われた。貌なき固体の正体は、長年定着していた針葉樹が、ただ一陣で土を含んだ根鉢ごと掘り起こされるほどの暴風だったのだ。
故に、各々獲物を突き出していた生身の彼らに一溜まりもあろうはずがなかった。
あまりに速い突然の事態に誰もそうとは気付かないまま、あるいは気を失った状態で、残らず小石か蟻かのように弾き飛ばされ、引き摺られて、樹木の残骸とともに散り散りに叩き付けられていた。茫然と地面に伸びる者や、倒木に挟まれ呻き声を上げる者、泥だらけで絡み合った上に覆い被さる者たちがまさに混沌に身を揉まれていた。ぽかんと口を開けて驚愕にすら至らない唖然とした表情だけが、可笑しいほどに共通しているのだった。
呆気なく殴り倒された王国の兵士たちは、風という現象を騙った打撃に見舞われた自身の不運を呪ったことだろう。防ぎようのない災害級の遭難と認定しても差し支えなかった。
たった一瞬で、追い詰められていた四人の女との距離が開いていたのは事実だ。そして、意識を保った者の目がそちらに吸い寄せられるのは必然だった。猛々しい風刃の爪痕を遡って集約する川縁の起点に。
波立つ清流を背にして、そこにはただ一人だけ微塵も動じず佇立する者がいた。
耳を塞ぎ尻餅をついたローザが窺い見ると、目の前に敢然と立ち上がる女性が、憤怒に燃える黒い衣を炎のように翻している。常軌を逸した威圧感が、暴風の余勢すら殺しにかかった。背後に庇われる格好のローザたち三人は、側にいるだけで途方もない圧力を受け止めなければならなかった。黒炎の熱波の中に、肝を冷やすほどの威厳が備わっている。
立ちはだかる黒衣の背は、見えないはずの湯気を痩身からゆらゆらと立ち昇らせていた。今や無様に口を開けるばかりの大部隊に向けて振り翳された手が、厳しく風を指示して鉄槌を下したのだと分かる。見開かれた両の黒目がまだきつく彼らを睨み据えているだろうことは、迫力溢れる背面からでも容易に伺われた。
大らかに微笑む人懐こい洞窟の同志は、もうそこにはいなかった。ただただ峻烈に怒れる魔女が、熱いほどに甚だしい覇気を四方に放ち続けている。風だろうが太陽だろうが使えるものなら何であろうと持てる力で武器と変え、一指でも仲間に触れなんとする者悉く退けるのだという気概が、その場で確かに彼女を一人の真の魔女たらしめていたのだ。
戦くのは、それが容易く実現されるだろうという確信があることだった。害を成そうとする天敵に対する凶暴なまでの反応こそ、確固たる防衛本能により幼い我が子を懸命に守ろうとする母親の勇姿さながらだった。そして、彼女の異能をもってすれば、人命の痕跡を残さずして外敵を殲滅することもおそらく児戯に等しかっただろう。
気付けば、驚異の突風に傾いだ聖なる森は、時を止めてしまったかのように無音の城となっていた。
激怒の矛先を向けられた者たちは、仇なす気迫に触れて忽ち肝を潰し、ちらりと目を逸らすこともできないでいた。兵士たちは押し並べて完全なる沈黙をもって、自身を服従者たらしめる絶対的な畏怖の対象に目を見開いていたのだ。心底の恐ろしさを与えられた者は、微かな吐息でさえ発することは許されず、むしろ耳に痛いような静寂の中で可能な限り動きを止めるしかなかった。
しかし、それまではまだほんの牽制に過ぎなかったのだということを彼らは間もなく思い知ることとなる。
見つめる先から、また恐怖が湧き上がった。
ほんの一瞥をくれるだけで震え上がるほどの凄味を射込むその魔女が、握り込んだ右手をしなやかに虚空に突き上げた。誰も目が離せない。恐ろしく、また美しい魔女の眉間にはっきりと深い皺が寄せられている。次に、徐に掌を開いた。その一動は、虚空を掴むようにも、花を咲かせて天に合図を送るようにも見えた。そのままの態勢がしばらく続いた。まるで自然界から力を搾り取って体内に溜め込もうとしているようだった。
何かが起こる---森閑とした一帯に刻々と予感が高まった。唾を飲み込む音すら憚られるほどの戦慄の中で、どく、どく、と鼓動が乱れ打つ。味方のはずのローザたちでさえ例外なく息を詰めた。
「…トゥーラ」
堪らなくなったローザが我知らず小声で漏らすと、黒き魔女はより一層の激情を込めて右腕を振った。天空を切り落とすかのように鋭い音を立てて振り下ろすと、間髪入れずその予兆となる閃光が走った。広がって辺りを包み込もうとしている。
一秒、二秒。
天地狭しと膨らみきった静かな金色の光が、切り裂くように目を射る。瞼を叩き下ろされるのにやや遅れて、それは、真二つに空を割り、寸分の狂いなく大地を直撃した。
音、とも知れないものだった。感覚器官の許容を遥かに凌駕しながら、最大限に怒気を滾らせた異常な雷鳴が大気を引き裂いた。もの凄まじい莫大な霹靂が、極限に圧した熱量を森に向けて一気に撃ち落とす。ここぞとばかりに凝縮された桁外れの神気が、無類の電光を発して炸裂した---。
地軸が揺さぶられ、烈々しく燃え立つ幾筋もの火柱がほとんど空を呑み込み、誰も彼もが、薄れゆく意識の狭間で世界が終わったのだと信じて疑わなかった。
トゥーラが撃ち込んだ怒濤の雷は、鼓膜を破り、目を眩ませ、人間の持ちうる感覚という感覚を奪った。
木っ端の残骸を焼き払う火煙の匂いが朦々と立ち込めていた。
燻蒸された刺激で正気を取り戻した者の、涙の滲んでぼんやりと開いた目に真っ先に映ったのが、森だったはずの地に穿たれた暗黒だった。
激烈な雷鳴。別次元の落雷。土を走る雷電の余波。それらが現実に起こった出来事だったのだと再認識するのに時間はかからなかった。地面が、一直線に割り開かれていた。森と森とを二分して陸が決壊しているのだ。深さは知れず、そのため暗い。森の間に暗鬱なる渓谷が生まれていた。その両岸に沿って土も樹も蒸発し、古来より形成されてきた生態を跡形なく失っていた。焦土と化した大地の裂け目は、激しく燻る煙幕でどこまで伸びているのか見分けられないほどだった。
---そこへ、声が響いた。凛として、しかも美しい声が。
「心して聞きなさい」
迅雷に損われた聴神経は、もっと聞かせてほしいという意思すら示してどういうわけか聴き分けた。
その声の主だけが、最前と全く違わず地上に足を付けて立っていた。地球の深部に向けて落ち込む陰の谷間、身に纏う衣、睨め付ける両目の、全てが黒き魔女---。
「私こそ、天候を司る真の魔女」
光という光を吸い取り、喪の色に染め上げられた凄絶な魔女の目に熱き炎が燃え盛る。
「その目で見たでしょう、素晴らしい呪力を。手加減を怠れば、一人の命も残らなかったほどの力を」
果たして、畏怖と陶酔とは紙一重だったかもしれない。大多数の者は、一刻も早く立ち去ることを望む怖気とは別に、黒炎に巻き取られ、張りのある美声の元にひれ伏して服従する快感を覚えていた。
「魔力を維持するために必要なものは、新鮮な人間そのもの。この者たちは、私が拐かした犠牲者にすぎません。森の結界から逃げ出せないように呪われた不憫な被害者です。そこなベアトリス嬢の心を操って肉親を殺さしめたのも私の仕業。ローザなる女によく効くと思しき禁薬を作らせたのもそう。連れ去りたいなら私を連れていけばいい。逃げも隠れもしません。さあ、縄をおかけなさい」
鬼気迫る魔女の恫喝に芯から圧倒され、もはや一人として戦意などあろうはずがなかった。逃げ出そうとする思いも立ち消えていた。トゥーラの、いやトゥーラという女性だと思い込んでいた人の、張り詰めた低音が暴虐の鞭となって撓る。
「私の身を交換条件として、この者たちへの不干渉を保証なさい。この先為政者の首がすげ変わろうと、陣地争いの戦場になろうとも、この森は私が呪いをかけた特別な場所であることを忘れないように。たとえこの身が焼かれても、私の呪いは永久不滅。一国を滅ぼすのも簡単なこと。万が一にも手出ししようものなら、即座に一族郎党罅割れた黒闇の地の底に堕ち、復讐の業火が故国全土を舐め尽くすでしょう」
殺気を宿す毒々しい呪怨の言葉が、ちろちろと揺らぐ残り火をまた煽り、焼け焦げた森の一帯を強制的に支配していた。しかし、その実彼女たちにとっては何よりも大きすぎる慈悲の想いが、流れ込んだ胸で奔流をなし、両目から溢れ出した。
ローザは、泣いていた。速すぎる拍動が胸郭を叩き、困惑と安堵とが複雑にせめぎ合う動乱の中で。止めることも、口を挟むことも不可能だった。どんな言葉も無意味で軽薄にすぎなかった。彼女から受け取ったものを、表すことなどできはしなかった。狂ったように首を振るオトとも違って、できることと言えば、ただ滂沱と涙を流すことだけだったのだ。
痩せて骨ばっているはずの、しかし毅然と伸びた黒衣の背中は、いま一歩前に踏み出した。両手を広げ天を仰ぐ親友、いや聖女から、白熱した神気がはっきりと立ち昇るのが見えた。それは温い疾風を伴って徐々に広がっていき、平常の落ち着きを取り戻しつつある森の梢がざわざわと鳴った。聖域が、応えたのだ。澄んだ森の波動が今まで以上に高まっていくのがローザには分かった。浄化の儀式には振っていた腕を些かも動かすことなく、最後の護りの魔法をかけたのだ、と。
一番に我に返ったのは、しゃがんで頭を抱え込み震えていたベアトリスだった。
「トゥーラ!いけません、身代わりなど。本当なら、死んでも許されないほど罪は重いのです。火刑に処されるべきはこの私です」
だが、必死の訴えも虚しく、彼女たちの親友は微笑んで首を振るばかりだった。
態勢を立て直した王国近衛隊は、迅雷が砕いた森の分け目に即席の丸太橋を架け、全員が渡り終えてから切り落とすことは忘れなかった。うら若き細身の女性一人に玩弄された不名誉を、本国に帰還して以降は吹聴しまいと暗黙のうちに合意していたかどうかは分からない。首尾よく黒幕を逮捕した、と脚色めいた報告を上げたかもしれない。入念に拘束した悪逆の罪人を連れ帰る帰路もまた、彼らにとっては神経をすり減らす試練となったことだろう。
そうして、魔女とも聖女とも呼ばれたトゥーラは、聖なる森から連れられていった。




