迫り来る軍靴 (その二人≪中世≫ 6)
ベアトリスの観測に付いてきていたオトが初めて星座の意味を問いかけたのは、まだ冷たい真綿がどこもかしこも純白に粧っていた真冬のことだ。
雲から千切れた薄いひとひらがいつともなしに地上へ舞い着き、冴え冴えとした満点の星が鋭く清冽な光を投げかける。森の空気はきりりと引き締まっていたが、凍て付かずに流れる川の岸辺では、ありったけの厚布を何重にも巻いた娘が二人、飽かずに夜空を見上げることとなった。
天文の師匠となったベアトリスが、凍えた冬の星座を指で結う。オリオンの由来に真剣に聞き入るオトの目は、星の光と好奇心とで内外から煌めいた。
一筋の流星がすっと夜空を滑り落ちた時、流れるように星の配置を語っていたベアトリスが、突然言葉に詰まった。怪訝な様子のオトが続きを促すと、低く尖った声が凶兆を告げた。
「<来る季節に親しい者との別れ>と出てる」
「別れ…だれが別れるの?」
簡潔なオトの問いには、別離に対する警戒心と拒否反応が色濃く含まれていた。問われたベアトリスは、流星の消えた先に視線を固定したまま雪上に立ち尽くしている。
「それが、これ以上わからないの」
「私たちだれも不調の人いないよ。トゥーラ貧血は良くなった。ベアもかなり見えるし」
揺れる不安のせいで、オトは一つずつ懸念材料を挙げては、同意を求めるように感情的に否定した。
「ええ、そうね。だけど、<新しい家族>とも読めるのよ。矛盾してるわよね」
大局を見失ったのか細かなところに直観が至らないのか、巧みに星を読むベアトリスもこの時ばかりは自信なさげに睫毛を伏せた。
「まただれかが逃げてくるのかな?」
「さあ、それはどうでしょう。念のため後で運命表でも確認します。ゆめゆめ警戒は怠らないでいましょう」
ベアトリスは、固く瞼を瞑って輝く星々に願いを捧げた。
「どうか皆無事で春を過ごせますように」
雪解けを待ち構えていたかのように王国の軍隊が森の静寂を破ったのは、開墾した小さな畑にローザが春野菜の種を蒔いていた時のことだった。
乱れ騒めく森が非常事態を告げていた。満杯のバケツを提げたオトとベアトリスが駆け戻ってくるのを確認して、ローザは急ぎ洞窟に駆け込んだ。
「きっと追手だわ!どうしよう、トゥーラ!」
トゥーラは、何も言わなかった。その日洗い替えのために以前の修道服を着付けた彼女は、洞窟の奥で背を向け跪いていた。頭を垂れ両手を組み合わせる姿は、大地の胎内に向き合って祈りを捧げる太古の面影のようだった。
やがて立ち上がり肩越しに振り返った聖女は、着衣と目の色が洞内の薄暗さと同化し、透き通るような顔色だけがぼんやりと浮かび上がるように見えた。
「気配が煩すぎてどれぐらいいるのか分からないけど、とにかく迫ってきてる。わたしたちを探してるのよ」
トゥーラが張り続けた人跡を避ける波動は、生半なことでは壊れるものではなかったが、編成部隊の多勢による圧力で平衡が崩れたようだった。無遠慮に踏み荒らされる樹々の根の傷付いた悲鳴を、ローザはまざまざと感じ取っていた。
「仕方ありません。ここを出ましょう」
沈着なだけの号令ではなかった。隠れ家を去る決断を下したトゥーラの横顔が張り詰めている。それは緊張感ばかりではなく多分に怒りの色であることを、日の差し込まない洞穴の奥に立つ親友からローザは見て取った。駆け回る軍靴の響きが、四人が身を寄せ合う洞窟の中にまで伝ってこようとしていた。
「こちらに横穴が。川の方へ出られるはずです。岩をどけましょう」
同志の聖女の声に、いつもの穏やかな気安さは皆無だった。ローザとオトが太い薪を差し入れて気張ると、壁面の一部に食い込んでいた岩が少しずつ持ち上がり隙間が広がっていった。
「あ、トナカイが外にいる」
オトが洞口へ走った。腰を屈めれば通れるほどの入口が空いていたが、連れられてきたトナカイは角が引っかかって入らない。
「私とオトは外を通って向かいます。ローザ、ベアトリス、川岸で合流しましょう」
さざめく聖域を走り抜けるトゥーラとオトは、人の気配を上手に避けるトナカイに導かれたが、通常なら平和な森の囁きが、飛び立つ鳥類や驚き逃げ去る大小の生き物たちのどよめきに取って代わられていた。
「動物たちも殺気を感じてる」
不安そうに口籠るオトは、聞きつけない硬質の響きで甲冑の金具が樹間に鳴る度小さな肩を竦めた。
豊かな雪解け水を受けた清流が、両岸に咲きかけの早春の花々を潤していた。夏の間は揃って水を浴びに来る川だ。
「横道は蝙蝠だらけだったわ。トゥーラは通らなくて正解よ」
首尾よく合流した二人にローザが声をかけるが、応答や同意は聞かれなかった。緊張を解そうとするローザの優しさを、誰にも汲み取る余裕がなかったのだ。
「川に沿って下りましょう。半日ほど歩けば古い山小屋があります。ひとまずそこを目指して」
声を潜めてトゥーラが避難先を提示すると、木の間にいきなり金切り声が響いた。それまで一言も発しなかったベアトリスが、我を忘れて叫んでいたのだ。
「私を捕まえにきたのよ!殺人の罪で!そうよ…ここにいたってどうしたって、決して許されるはずがないもの!」
真っ青な顔をして震える唇で訴えるベアトリスは、正気を保つための限界を超えたのだろう、もはや発狂寸前のなりふり構わぬ体だった。
「私が悪いの。自首します。どうか逃げ切ってね。余計な飛び火を受けないように」
しかし、一向を振り切って離れていこうとするベアトリスの独断をローザが一蹴した。
「だめ!だめよ。絶対に置いていかない。あたしもトゥーラも手配されてる。誰の追手かなんて分からないじゃない」
「その通りです。さあ、今はとにかく安全な場所まで行きましょう」
黒の炎を燃やすトゥーラの目が、追い討つ仇敵を切り裂くように後方を振り返り、小さなオトの手が、咽ぶ親友の腕を摑んだ。
「行くよ!ベア」
号泣するベアトリスの手を引いて、四人の女は泥濘む雪解け道を倒けつ転びつ走った。
実のところ、ローザの故郷は小国で、行方不明の逃亡者一人を探すために国外まで大挙して押し寄せる用意はなく、トゥーラを詰むはずの新帝は、多発する国内の反乱分子を征伐するのに手間取っており、とうに行方知れずの罪人を教会勢力と対立してまで追うことを諦めかけていた。
川岸を鉢合わせに駆け上ってくる軍帽が見えたのは、まさに聖なる森の境目をそろそろ超えようかという頃合いだった。
隠れようとした時にはもう遅かったのだ。武装した兵士は続々と集結し、四人の女たちは、あっという間に一分の隙なく兵器の刃先に囲まれてしまった。
隊長らしき年配の男が現れ朗々と罪状を読み上げるまで、清らな深瀬を背にしてじりじりと対峙は続いた。
「我らは、王国より派遣された特別近衛隊である。捜査指揮権、警察権を一括で公認されている。
手配者らしき娘を馬車に乗せたとの証言と定期市での目撃情報から、容疑者の所在を推定した次第である。この森一帯は長らく各国領地支配の空白地帯であったが、現在は正式に我らが王国の直轄領となっている。英国と同盟を結んだ国王の命により、我らはベアトリス・タウンゼンド逮捕のため罷り越した。容疑は実父の殺害及び逃亡である。また、特に魔女の疑いありと報告を受けている」
歯の根も合わぬほど震えるベアトリスの腕を、オトが黙って抱き留めた。
「しかしながら、いかな罪人と言えど仮にも同盟国名家の子女。大人しく進み出れば最低の礼は尽くそう」
隊長の男が咳払いするのと同時に、虚勢を張ってローザが啀む。
「そんな澄まし顔でいくら礼を尽くすったって、捕まったらどうなるのよ。ただじゃ済まないでしょうが」
「逮捕後は、我が国の王都において速やかに身柄の引き渡しが行われる。帰国送還の後に刑事裁判及び魔女裁判が開廷される予定である。魔女の嫌疑が認められれば、火炙りの刑が言い渡される」
「ふん。やたら距離を取ってると思えば、魔女の呪いが怖いのかい。槍や太刀でもかなわないもんね」
ローザが歯を鳴らして噛み付く真似をすると、一斉に身を引く甲冑が金属音を立てた。
「いざ、進み出られよ。さもなくば、弓で射た後絡め取る」
堂々たる態度で隊長の男は踏み止まっている。ぎり、ぎり、と弦を引き絞る音がしていた。番えられた矢の研ぎ澄まされた鏃は、今にも気を失わんばかりのベアトリスを真っ直ぐに捉えていた。




